芝田山部屋
芝田山部屋(しばたやまべや)は、日本相撲協会所属で二所ノ関部屋一門の相撲部屋。
沿革
1991年(平成3年)7月場所限りで引退した第62代横綱・大乃国康は,年寄・大乃国を襲名して放駒部屋の部屋付き親方として後進の指導に当たっていた。その後,1993年(平成5年)3月場所後に芝田山に名跡変更。1999年(平成11年)6月には放駒部屋から分家・独立し「芝田山部屋」を創設した。
部屋設立から約9年が経過した2008年(平成20年)5月場所において、大勇武が芝田山部屋初の関取となったものの、大勇武は1場所で幕下へ陥落した。2010年5月場所後に大勇武は引退したが、同年9月6日に「師匠が髷を切り引退を強制させた」として、大勇武は芝田山親方に損害賠償を求める訴訟を起こすと共に、警察に暴行罪としての被害届を提出した。芝田山親方は9月29日に書類送検されたが、2011年1月に不起訴(起訴猶予)処分となっている。[1]
所在地
師匠
- 12代:芝田山 康(しばたやま やすし、第62代横綱・大乃国、北海道)
力士
十両
- 大勇武龍泉(モンゴル)
幕下以下
所属
- 呼出し
- 啓輔(三段目格、石川県)
旧芝田山部屋
- 6代芝田山 - 1931年(昭和6年)3月場所限りで引退した大坂相撲・高田川部屋所属の第29代横綱・宮城山は、年寄・白玉を襲名して検査役を務めた。1932年(昭和7年)1月に芝田山に名跡変更して芝田山部屋を興したが、幕内力士を出すこともなく1943年(昭和18年)11月に死去した。弟子たちは師匠の高田川部屋に一時預けられ、最終的に高砂部屋に引き取られた。晩年の弟子からは宮錦が小結に、嶋錦が幕内に昇進した。
- 11代芝田山 - 1952年(昭和27年)5月場所限りで引退した二所ノ関部屋(大関・佐賀ノ花)所属の幕内・大ノ海は、年寄・芝田山を襲名して当時幕内力士であった若乃花など数名の内弟子を連れて二所ノ関部屋から分家独立して芝田山部屋を創設した。1953年(昭和28年)9月には、花籠に名跡変更するとともに花籠部屋に名称を改めたため、芝田山部屋の名称はなくなった。本項目については、花籠部屋を参照。
師匠
- 6代:芝田山 福松(しばたやま ふくまつ、第29代横綱・宮城山、岩手)
- 11代:芝田山 久光(しばたやま ひさみつ、前3・大ノ海、秋田)
エピソード
- 2007年1月放送のはなまるマーケットにて、親方と力士達が親方の趣味であるケーキ作りをする姿が紹介された。ケーキ作りに関しては相撲の稽古より厳しいと冗談交じりに力士が話していた。
- 師匠の芝田山親方はテレビ朝日の深夜放送虎の門にゲスト出演する際は、必ず番組エンディングで新弟子募集の告知を行っていた。
出典
関連項目
- 大阪市立長居ユースホステル - 大阪場所の際の宿舎。
- 豊田自動織機 - 名古屋場所の際、大府工場を宿舎としている。