林虎雄
林 虎雄(はやし とらお、1902年7月15日 - 1987年7月15日)は、日本の社会主義運動家、労働運動家、政治家。公選初の長野県知事(1947年-1959年)。
経歴
長野県諏訪郡下諏訪町出身。高等小学校を卒業後、諏訪青年会に入会して家業の旅館に従業したが、1930年(昭和5年)に日本労農党に入党し、労働運動、小作争議に身を置く。全国大衆党諏訪支部長から1933年(昭和8年)に同郡上諏訪町(現・諏訪市)の町議となり以降、長野県会議員、諏訪郡上諏訪町→諏訪市助役を歴任する。
1937年の第20回総選挙で長野県第4区から立候補した棚橋小虎の選挙組織を担当した[1]。この総選挙で棚橋陣営が佐野学や幸徳秋水との写真が載った立候補挨拶状を配布したことから、対抗馬が 共産主義者の証拠だとして逆宣伝した結果、棚橋は次点での落選となった[2][3]。選挙後、棚橋陣営は買収饗応の嫌疑で取調べを受けたが、虎雄は留置関係者の釈放を求めた。取調べ終了後に逐次帰宅が許されたが、幹部2名が松本刑務所に強制収容され、諏訪市の虎雄宅に逃れていた棚橋らも逮捕された[2]。
1945年(昭和20年)に日本社会党長野連合会書記長に就任、1946年(昭和21年)執行の第22回衆議院議員総選挙に当選した。
1947年(昭和22年)、公選後初の長野県知事選において日本社会党公認で立候補した。革命時の雰囲気が極めて濃厚な社会情勢下で[4]、労働組合、農民組合、日本共産党、民主団体共同闘争協議会の推薦を受けて、「官僚の物部か、平民の林か」を訴え[5]、保守陣営が擁立した元知事(官選)の物部薫郎らを破り初当選、初の民選知事となる。
県知事初当選後、長野県庁へ初登庁するため長野駅へ降り立つと、虎雄の知事当選を祝う労働組合、農民組合の赤旗と労働者の波が押しかけたため、県庁からの迎えの車に乗らずに、労働歌が演奏される中をデモ隊と一緒に県庁まで歩き初登庁した。それまで内務省のエリート官僚出身知事と働いていた県庁の幹部は社会党知事の登場に動揺したという[6]。
労働者の意志を地方労働委員に反映させることが正しいという労働運動家としての信念のもと、全国に先駆けて労働者代表のみを地方労働委員に委嘱した[7]。 食料増産を図るため伊藤富雄を副知事に任命したが、伊藤はアメリカ占領軍軍政部長野県施政官と衝突したため副知事を辞任し、第24回衆議院議員総選挙に日本共産党所属で立候補した[8]。食料増産と1949年(昭和24年)度の予算を審議する長野県議会において、マルクスやエンゲルスの言葉を引用し、労働党 (イギリス)の社会改革、北欧の社会福祉国を紹介して論争したことは有名である[9]。 天竜川水系の河川総合開発事業に力を入れ、TVAを視察後に三峰川の総合開発に乗り出し美和ダム・高遠ダムの建設を促進した。
全国に先駆けて部落解放審議会を設置して、長野県は人口比あたりで全国最高水準の部落地区改善を果たす[10]。
浅間山米軍演習基地化問題では、反在日米軍である社会党政治家の信念として、労働組合、農民組合、長野県教職員組合、長野県労働組合評議会の米軍演習基地反対運動を支援した[11]。
1951年(昭和26年)に保守陣営が「打倒革新知事候補」として擁立した当時長野県信連会長の米倉龍也を破って再選した際には「竜虎相打つ」とうたわれた。1959年(昭和34年)『知事は3度が限度、長期政権では人身がよどむ』と4期目出馬を辞退し退任。3期12年に渡って長野県知事を務めた。退任後は1962年(昭和37年)から1974年(昭和49年)まで参議院議員を2期12年間務める。信越放送(SBC)の相談役も務めた。
出典
- 「郷土歴史人物事典 長野」第一法規 1978年
- 林虎雄『この道十年』産業経済新聞社 1959年
- 林虎雄『過ぎて来た道』(甲陽書房、1981年)
- 林虎雄、石原萠記『自由』「激動の社会主義運動五十年」1983年
- 林虎雄、石原萠記『自由』「敗戦日本再建の夢(番外編)社会党に夢かけ、生涯を捧げた人--社会主義運動50年」2005年
脚注
関連項目
外部リンク
公職 | ||
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先代 新設 |
長野県知事 公設初代 - 第3代:1947年 - 1959年 |
次代 西沢権一郎 |
議会 | ||
先代 佐野芳雄 |
参議院社会労働委員長 1971年 |
次代 中村英男 |