木村氏

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Akas1950 (会話 | 投稿記録) による 2021年1月30日 (土) 13:20個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→ Unicode文字の&#xE001(私用領域(外字領域) Private Use Area - 1)文字化けする可能性のある文字を削除しました。:プロジェクト/ウィキ文法のチェック)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

家紋 左三つ巴
常陸木村氏(藤原姓)

木村氏(きむらし)は、日本の氏族である。

近江の木村氏

近江国蒲生郡木村(のちの滋賀県蒲生郡蒲生町木村、現在の同県東近江市木村町)が発祥。

12世紀末、『源平盛衰記』巻37で平通盛を討ち取る[注釈 1]木村成綱紀成高の四代の孫とされ、『姓氏家系大辞典』でも紀姓説をとっている。一方、『佐々木系図』(『続群書類従』所収)で成綱を佐々木経方の後裔[注釈 2]とし、かつ経方の次男行定の母を紀盛宗の娘としていることから、『近江輿地志略』では、行定の子定道が祖母の姓である紀姓を仮冒して称したのであり、本来は佐々木氏の一族とする。

後世、その子孫は宇多源氏佐々木氏流を称し、江戸時代幕臣として9家が『寛政重修諸家譜』に掲載されている。家紋は四目結、あるいは釘貫。安土桃山時代豊臣氏の家臣となった、木村定重重茲重成らもこの流の後裔と考えられている[1]六角義賢加藤清正の家臣で講談で有名になった木村又蔵も近江木村氏の出身とされる。

近江国滋賀郡堅田(現在の滋賀県大津市堅田地区)の人に、弓術出雲派吉田重綱の弟子で、寿徳派の創始者木村寿徳がいる。元は猪飼氏を称していたとされる。

阿波の木村氏

平治の乱で源義朝は敗れその子頼朝(13歳)や義経(1歳)や兄弟今若や乙若は武門の習いとして殺される定めであったが平頼盛の母池の禅尼に命を助けられた。源平の戦で平頼盛は平家一門として共に戦うが宗盛の一門都落ちには従わず都に留まった。源平の戦に勝利した頼朝は池の禅尼から受けた恩義に報いた。文治2年(1186年)閏7月22日、源頼朝により阿波国天領麻殖保の保司に任命された平康頼と共に2人の平姓を名乗る者が行動を共にし、家人の鶴田氏を加えて4人が同国森藤の地に下向して善政を行ったと言う。しかし頼朝も落馬が元で亡くなり三代実朝が公暁に殺されると好機と見た後鳥羽上皇は承久の乱を起こすが圧倒的な鎌倉の大軍に敗れた。平保盛の子保教(内蔵頭・左兵衛左・木工頭)は石清水八幡で自害をしている。阿波国守護となった小笠原長房氏により上皇に味方した康頼の嫡男・平清基は麻殖保の保司職を解任された。平を名乗る2人は百姓となることで生存だけは許されたが、百姓が平姓を名乗っていくことまでは許されなかった。一人は木邑氏(現・木村)を名乗り、他の一人は田室氏(現・田村)を名乗った。家紋は両家共に丸に抱き茗荷である。平家の紋は丸に抱き茗荷であったらしく、平家の末裔とされる長田氏も同様の家紋を用いている。茗荷は冥加の字にあてられたもので神仏の御加護を願うものだという。

阿波国ではこの頃から藍作りの歴史が始まる、見性寺記録に依れば、宝治元年(1247)に見性寺を開基した翠桂和尚が、美馬郡岩倉(脇町)の寺地で染葉(藍)を栽培し、衣を染めたことが記されている。百姓となった木邑氏も藍作りの産業としての成功の可能性は検討しただろ。文安2年(1445)には大量の葉藍が阿波から兵庫の港に荷揚げされた(兵庫北関入船納帳)。平安時代から続く慈眼山玉林寺の僧は木邑氏を藍玉造の根源だとしている。

藍作りも順調に行って居ただろうが、戦国時代に当時木邑本家を名乗っていた者や多くの木邑氏が何処かへ行ってしまった。藍作りはこの地に留まる木邑氏に託された。大阪鶴橋の向かいに同じ木邑氏を名乗る木邑権右衛門と言う百姓の家がある。織田信長は天下布武の印を使用し平信長を名乗るようになる。木邑本家に断わり無く平氏を名乗る筈はない。それに相応しい者で平を名乗りたい者が名乗ってくれればよい、百姓の木邑が平を名乗っては先祖を辱める、木邑氏は平を名乗らないのだから。

天保の大飢饉で大塩平八郎の乱に加わった木村司馬之輔の本家である木邑権右衛門も同じ木邑姓を名乗っていたが、これは、大坂夏の陣で討ち死にをした木村長門守重成に繋がると言う。平八郎の祖父は阿波藩筆頭家老稲田氏の家臣の出で木邑氏が平であることは識っていたであろう、平八郎が一族の命運を賭けねばならぬ戦いに権右衛門を誘ったのは源平交代論で源氏を名乗る徳川を倒すのは平氏であるから、木邑氏を北面の武士平氏として担ごうとしたのであろう。権右衛門は準備が調わず拒否する代償として五百両を出した。乱自体は半日で終息するものであったが幕府に与えた影響は激甚であった。阿波にもこの根拠もない源平交代論を信じる者が居て極悪の末として木邑氏および田室氏の根絶を計ろうとした。当時の第12代藩主蜂須賀斉昌は子作りばかりに能の在ったオットセイ将軍の第二十二子斉裕を養嗣子に迎え井伊直弼の姉穠姫を正室として迎えていたので阿波藩は南紀派であった。だが筆頭家老の稲田氏は尊皇派であった。また木邑氏は一橋派である。

大塩平八郎の乱の後、勘兵衛の父総本家四代目茂兵衛および母と多くの木邑一門が亡くなり多くの子供たちが亡くなった、殺されたとは言えなかったのであろう、徳川南紀派の仕業である、親が殺されたのなら仇討ちをしなければならない。阿波藩には藍作りで多大な貢献をしてきたがそれに対する余りもの仕打ちである。だが阿波で私怨で事は起こせない、一族が皆殺しにされてしまう、野盗の頭の首などを採ってもしょうがない。

木邑氏は京都の外山氏と縁戚がある、また水戸藩徳川斉昭の母は外山氏である。その水戸藩に安政5年8月8日に孝明天皇は幕政改革を指示する勅書を下賜した。天皇の命なら北面の武士木邑氏として戦える、南紀派に対抗し一橋慶喜の将軍継承に与した、一橋派の天狗党として結集させ、藍での蓄えは総て軍資金とし、父四代目茂兵衛と母の墓と向かい合わせに自らの墓を建てて行った。この天狗党に多くの木邑氏が加わり凄惨な殺し合いが行われ南紀派により斬首されたり獄死をするなどして多くの犠牲者を出し義民として靖国神社に合祀をされている。慶喜は将軍にはなれたが大政奉還をして徳川幕府は滅んだので、多くの犠牲者に何も報いてやることは出来ずに維新の捨て石とさせてしまった。

明治天皇はご存知であった、勘兵衛を孝子に叙し恩賜の剣と共に一歳の昭和天皇の御写真を御真影として下賜された、孝子とは親に孝行をしたと言う事であるが親の仇討ちをしたと言う事である。天皇家にも無かったただ一枚の御真影、直接目にするとしもじもの者などその御威光に撲たれて目が潰れてしまうと言われていて誰にも見せられなかった。その御写真はWikipedia昭和天皇で旭日旗を持つ一歳の昭和天皇の御写真が見られる。

その後阿波藩第14代藩主蜂須賀茂韶は徳川慶篤の娘・随子を継妻に迎えた、この時、茂韶には11人の側室がおり、随子は嫁ぐに際して11人すべてに暇を出すことを条件に出したという。また、随子はかつて松平大和守と婚約していたため、「二夫にまみえず」の女訓から肉体関係を持つことを拒み、侍女として萩原きょうという美女を連れて嫁ぎ、自分の身代わりとして扱うよう求めたという。結婚前に側室より生まれていた蜂須賀正韶の嫡母として遇され、正韶の妻には随子の縁で徳川慶喜の娘・筆子(随子の従妹)が迎えられた。

この事から木邑氏は水戸藩を通じて阿波藩とも縁戚となっていた。孝子に叙された勘兵衛への御真影を受けた民太郎は幕末の出来事の総てを腹の内に収めて逝った。

維新の頃から、木邑氏は大姓である木村氏を詐称する様になり、田室氏は大姓である田村氏を詐称する様になった、木邑氏と田室氏の姓を残しておけば誰かがまた平氏として担ぎ出そうとするかも解らない、木邑氏と田室氏の姓は歴史から抹消された。平民となる木村氏と田村氏を詐称させておけば北面平氏である木邑氏と田室氏を平民に出来る、また平として力を持たれても困る、新政府下級武士らの知恵だろう。自らは華族だ士族だ卒族だとの爵位を称した。(『大塩研究 第44号』「「猪飼野探訪」案内記」附 釈淨円墓碑破却の顛末 足代健二 天保二辛卯初秋建焉 木邑権右衛門(註3))[2]

藤姓足利氏流木村氏

下野国都賀郡木村(現在の栃木県栃木市都賀町木)が発祥。藤原北家秀郷流で、藤姓足利氏の祖である足利成行の玄孫信綱を祖とする。『太平記』巻3に見える木村次郎左衛門もこの一族とされる。また子孫に、江戸時代幕臣として3家が『寛政重修諸家譜』に掲載されている。家紋は三頭左巴、または五三桐。

神姓

神氏の一族である。諏訪氏と同族。

下総の木村氏

下総国(現在の千葉県北部を中心とする地域)の一族である。千葉氏の一門。

陸奥の木村氏

陸奥国三戸郡(現在の青森県)の豪族。慶長年間まで五戸館(ごのへだて、青森県三戸郡五戸町字館)を居館としていたという。又重氏戸来氏も木村氏の一族とし、紀長谷雄から続く系図[3]がある。一方、『奥南旧指録』では紀名虎の後裔としている。木村秀清など。

また、浅瀬石城浅瀬石氏重臣に木村越後があり、猿賀館を領した。後に津軽為信に仕えるもその後の消息は不明。また、津軽地方一帯に「木村」姓が分布するも、出自は不明。

常陸国の木村氏

常陸国にも木村氏の家系が数流確認される。佐竹氏の家臣 木村氏は本姓源氏とし、清和源氏家系であるという(または、宇多源氏近江源氏 佐々木氏の流れとも)。陸奥国菊田郡林下郷木村にあり、木村を名乗ったとされ、永正10年(1513年)、木村民部義久が佐竹氏より禄280石を給され、久慈東郡金砂郷村芦間へ移ったという。二郎大夫義昌建武年間(1334年から1338年)、南北朝合戦に功をあげ、那珂通辰はじめ那珂氏川野辺氏など南朝諸勢力を破ったとされる[4]

また、常陸国には宇多源氏の流れを汲む近江源氏の木村氏の家系があり、元は鎌倉幕府御家人 佐々木四郎高綱に属し、500貫を給されていたという。始祖木村陸奥守義胤平治元年(1160年)、源義朝の討ち死ににより、諸国の源氏は影を潜めるさなか、義胤子孫三代のうちに常陸国の佐竹氏に随い、350貫を給され、木村義維従五位下相模守任官したとされる。別系 弥右衛門直通、佐竹義宣の秋田転封に際して足軽として平鹿郡横手に住まうという[5]

さらに、『山方町史』には同町に存する木村氏について載せ、木村綱宗文治年間(1185年1189年佐々木定綱の臣として仕えた後、佐竹昌義に仕え、その子 綱俊佐竹秀義に随い、西金砂合戦に功ありといい、250貫を賜るといい、太田郷佐都西に住むという。後に延徳3年(1491年)久慈東郡竹合村に移り、永禄5年(1562年2月、小貫村大沢平に移住、佐竹氏の秋田転封後も常陸国内に定住、山方村舟尾、久慈郡盛金、長貫、田野にも分家があるという[5]

家紋は宇多源氏流が五つ瓜に四つ目、丸に片喰丸に釘抜き丸に立ち沢潟、丸に平四つ目、丸に四つ目を用いるとされ、清和源氏流が丸に花菱の家紋を用いるという。また藤原流木村氏は左三つ藤巴、左三つ巴、丸に下がり藤を用いるという。さらに、本姓不詳の木村氏が対い蝶を用いるとされている[6]

秋田藩士 木村氏

佐竹氏の家臣に木村氏あり。

木村備中守の家系は本姓 源氏。佐々木氏一門という。はじめ常陸国那珂郡山方村にあり。丹後の代に鹿島郡次いで下野国に移住し、その子 正勝の代に佐竹義宣秋田転封に随行する[7]

系譜 木村備中守―丹後―正勝一正光―正家―正朝

木村源十郎佐竹義重に仕え、孫の直職の代に秋田転封に随行する。代々、平鹿郡横手に住まう。石高45石。木村清五郎直於木村治兵衛直飯なる者あり[7]

系譜 木村源十郎―安直―直職―直光―直営―直綱―直英

木村與左衛門は佐竹義宣に随い、常陸国より秋田に移住し、壁塗勤仕するという[7]

系譜 木村與左衛門―太治兵衛―太治兵衛重侯

水戸藩の志士・義民たる木村氏

豊臣家臣 木村氏

16世紀豊臣氏の家臣となった一族で、木村吉清清久父子、木村勝重藤原姓を称し、元の苗字木下であったが、秀吉の家臣となる際に木村氏に改姓した)らがいる。

脚注

注釈

  1. ^ 『佐々木系図』では平通盛を討ち取ったのは、成綱の弟(木村源三)俊綱とする。また『吾妻鏡』では俊綱を成綱の子とする。
  2. ^ 尊卑分脈』も同様。

出典

  1. ^ 太田 1974, p. 484.
  2. ^ 宝賀 1986, p. [要ページ番号].
  3. ^ 鈴木真年『百家系図稿』巻21[2]
  4. ^ 大内 1993, p. 46.
  5. ^ a b 大内 1993, p. 47.
  6. ^ 日本家紋研究会 2001, p. 17.
  7. ^ a b c 秋田県公文書館編『系図目録I (PDF) 』(秋田県2001年)125頁参照。
  8. ^ 明田 1986, p. 42.
  9. ^ a b c 明田 1986, p. 407.
  10. ^ a b c 明田 1986, p. 344.
  11. ^ 明田 1986, p. 357.
  12. ^ a b 明田 1986, p. 224.
  13. ^ 明田 1986, p. 369.
  14. ^ a b c d 明田 1986, p. 438.
  15. ^ 明田 1986, p. 381.
  16. ^ 明田 1986, p. 248.
  17. ^ a b c 明田 1986, p. 247.
  18. ^ 明田 1986, p. 417.
  19. ^ a b c 明田 1986, p. 397.
  20. ^ 明田 1986, p. 395.
  21. ^ a b c 明田 1986, p. 389.
  22. ^ 明田 1986, p. 237.
  23. ^ 明田 1986, p. 430.

参考文献

  • 明田鉄男 編『幕末維新全殉難者名鑑』 1巻、新人物往来社、1986年6月。ISBN 4404013353 
  • 秋田県公文書館編『系図目録I (PDF) 』(秋田県、2001年)
  • 大内政之介『新編金砂戦国史』筑波書林、1993年9月。 NCID BN11305854 
  • 太田亮国立国会図書館デジタルコレクション 木村 キムラ」『姓氏家系大辞典』 第2、上田萬年三上参次監修、姓氏家系大辞典刊行会、1934年、1951-1958頁。全国書誌番号:47004572https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/1130938/69 国立国会図書館デジタルコレクション  閲覧は自由
  • 太田亮 著、丹羽基二 編『新編姓氏家系辞書』秋田書店、1974年12月。ISBN 4253002633 
  • 日本家紋研究会 編『家紋でわかるあなたの祖先 茨城県北部地方』日本家紋研究会、2001年。 
  • 常陸太田市史編さん委員会 編『佐竹家臣系譜』常陸太田市〈常陸太田市史編さん史料 19〉、1982年3月。 NCID BN12281310 
  • ふるさと森山編集委員会 編『ふるさと森山』鴨島町森山公民館郷土研究会、1990年2月。 NCID BN13445628 
  • 宝賀寿男『古代氏族系譜集成』古代氏族研究会、1986年4月。 NCID BN00924708 

関連項目