文化勲章

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文化勲章を佩用した初代中村吉右衛門1951年(昭和26年)受章)

文化勲章(ぶんかくんしょう)は、科学技術芸術などの文化の発展や向上にめざましい功績のある者に授与される日本の勲章。当時の内閣総理大臣廣田弘毅の発案により、1937年文化勲章令昭和12年2月11日勅令第9号)を以て制定された。

勲章のデザイン

ファイル:Order of Culture(Japan).jpg
文化勲章
(左:略綬、右:正章)

文化勲章の場合、制式と図様も1937年の「文化勲章令」(昭和12年2月11日勅令第9号)により定められている。

文化勲章は、章、鈕、環、綬の各部から構成される。

勲章はの五弁の花の中心に三つ巴曲玉を配する。鈕にも橘の実と葉が用いられる。綬の織地は淡紫色。東京美術学校教授畑正吉デザインした。当初の政府案はの花をあしらったデザインだった。ところが昭和天皇が、古来紫宸殿には君子南面して左近の桜右近の橘が植えられているが、桜が花も葉も散ることから潔く散る武人の象徴となってきたのに対し、常緑樹の橘はいつ見ても変わらないことから永遠を表すのものであり、永遠であるべき文化の勲章としては橘の方が望ましいのではないか、という趣旨の意見を出したためこれが変更となったという経緯がある。
綬の幅は3.7センチメートルで淡紫色と定められている。
略綬
淡紫色で直径1センチメートルの同色の翼を付すこととされている。

授与

親授式が毎年11月3日文化の日皇居宮殿松の間で行われ、天皇から直接授与(親授)される。

1997年(平成9年)から現行の天皇親授に切り替えられたが、それまでは宮中で天皇臨席のもとに内閣総理大臣が勲記と勲章を手交する伝達式の形式で行われていた。そのため、以前は同じく宮中伝達式により授与される旧勲二等と同位に位置づけられていたが、現在では同じく天皇親授により授与される大綬章(旧勲一等)と同位に位置づけられている[1]

受章者選考手続き

文化庁文化審議会に置かれる文化功労者選考分科会の意見を聞いて文部科学大臣が推薦し、内閣府賞勲局で審査したうえ、閣議で決定する[2]。文化勲章受章候補者推薦要綱(内閣総理大臣決定、閣議報告)によると、文部科学大臣は、“文化の発達に関し勲績卓絶な者”を文化功労者のうちから選考し、毎年度おおむね5名を内閣総理大臣に推薦する。文化功労者以外の者でも必要と認められる場合には選ばれることがある(この場合、併せて文化功労者に決定される)。

慣例として、その年にノーベル賞を受賞した者で文化勲章未受章である者には、文化勲章が授けられる。この慣例は、未受章者であった江崎玲於奈1973年(昭和48年)にノーベル物理学賞を受賞した際翌年受章することになったことに端を発し、それ以降のケースではノーベル賞と同年となった(これが“ノーベル賞受賞で政府が慌てて文化勲章を授ける”ように見える一因である)。江崎以前に受賞した3名(湯川秀樹朝永振一郎川端康成)と以降の利根川進野依良治小柴昌俊南部陽一郎は先に文化勲章を受章している。

文化功労者との関係

文化勲章には金品等の副賞は伴わない。これは日本国憲法第14条の規定(勲章への特権付与の禁止)によるものであるが、文化の発展向上への貢献者に報いたいとの意図により、文化勲章とは別制度として1951年(昭和26年)に文化功労者顕彰制度が創設され、前年度までの文化勲章受章者で存命者を一斉に文化功労者として顕彰するとともに、以後も文化勲章受章者は同時に文化功労者でもあるように運用することとした。これにより、文化勲章受章者は、文化功労者年金法に基づく終身年金が支給される。

制度上は別のものであるとの制度設計であっても、実際の運用上において文化勲章受章者と文化功労者とを完全に同一にすると憲法の規定に抵触するおそれがあるため、文化勲章受章者とは別に、文化勲章受章者以外にも文化功労者として顕彰する者を選定する運用が行われてきた。昭和54年度以降は、文化勲章受章者は原則として前年度までに文化功労者として顕彰を受けた者の中から選考するように改められた。

辞退者

河井寛次郎(陶芸家) 1955年(昭和30年)
名利を求めない姿勢を貫いて辞退。河井は自身の作品にも銘を入れないほどこの姿勢に徹底していた。人間国宝芸術院会員への推薦も同様に辞退している。
熊谷守一(近代日本洋画家) 1968年(昭和43年)
「これ以上人が来てくれては困る」と辞退。熊谷は孤高の画家として有名で、来客を一貫して避けていた。
大江健三郎(小説家) 1994年(平成6年)
ノーベル文学賞を受賞。慣例として文化勲章と文化功労者称号の授与が決定されたが、「民主主義に勝る権威と価値観を認めない」と勲章そのものを否定して受章を拒否。
その背景には大岡昇平芸術院会員を辞退したことがあったともされるが、大江が傾倒するサルトルはノーベル賞を辞退しており、ノーベル賞を受賞しながら文化勲章を辞退する大江には疑問の声も上がった。たとえばジャーナリストの筑紫哲也は、出演していたテレビ番組『NEWS23』において「制定されたのが昭和12年という第二次世界大戦真っ只中にも関わらず、従来の勲章のような武功や勲功など国の為に尽くした者ではなく、純粋に日本の文化に功労のあった文化人に贈る為に制定されたのがこの文化勲章だが、ノーベル文学賞は受賞しておいて自国の文化の為に尽くした者の為の勲章を拒否するのはどう考えてもおかしい、彼はただ単なる左翼主義者である」[要検証]と受章拒否を批判した。なお、大江は2002年フランス国家のレジオンドヌール勲章を受章している。
杉村春子(女優) 1995年(平成7年)
「自分には大きすぎる」「戦争中に亡くなった俳優を差し置いてもらうことはできない」と辞退。

追贈

法令は対象者が死去した後に文化勲章を追贈することを禁じてはいない。ただし勲章はその佩用を前提にした栄典であるため、授与は生前の日付(つまり死去日)に遡って行われる。過去に以下の2例の追贈例がある。

  • 六代目尾上菊五郎(歌舞伎役者)- 1949年(昭和24年)7月10日死去。六代目は歌舞伎役者として初の受章となった。
  • 牧野富太郎(植物学者)- 1957年(昭和32年)1月24日死去。牧野は第一回文化功労者のうち文化勲章を受章していない数少ない者のうちの一人だった。

その後半世紀以上にわたって文化勲章の追贈はその例が絶えている(よって、中島敦太宰治のように若くして死去した人物・死後評価が高くなった人物は文化勲章を受章していない)。しかし死去した者を叙勲の対象から外しているのかどうかについては公式の発表がなされてはいない。

なお、授与が内定していたにもかかわらず、本人が発表の前に急死したため、結果的に追贈という形になった例が1例ある。

  • 荻須高徳(洋画家)- 1986年(昭和61年)10月14日死去。授与は10月初旬には内定していたが、荻須はパリ在住で、10月14日アトリエで制作中に倒れてそのまま死去したため、叙勲決定の連絡はつかなかった。

例外的な授与

1969年(昭和44年)10月31日、人類初の面着陸を果たしたアポロ11号宇宙飛行士3名(ニール・アームストロングマイケル・コリンズエドウィン・オルドリン)が各国歴訪の一環で来日した。その際、日本国政府は彼らに文化勲章を授与した。

彼らにはすでにアメリカ合衆国の最高勲章である大統領自由勲章が授与されていたのをはじめ、歴訪した諸外国の中にもそれぞれの最高勲章や高位の勲章を授与した例が多く、日本国政府はその対応に苦慮した。日本の栄典制度では勲一等勲二等を一軍人に過ぎず将官でもない彼らに対して授与することは不可能であり、かといって日本の制度に基づいた等級の勲章を授与することは他国の処遇と著しくバランスを欠くことになるためである。そこで窮余の一策として、単一等級の文化勲章を授与したのである。

この文化勲章は、文化功労者顕彰を伴わないこと、宮中伝達式を行わなかったこと、文部省の選考委員会の選考を経なかったこと、そもそも外国人に対するものだったことなど、異例ずくめの授与だった。しかも受章者のうち2名(コリンズとオルドリン)が現役軍人であるということから、各方面から批判や疑問の声までもが沸き起こる始末となった。ただし、外国人としてはその後2008年に日本文学の研究者であるドナルド・キーンが受章している(なお、キーンはその後2011年東日本大震災のあとに日本に帰化した)。

関連項目

脚注

  1. ^ 文化勲章は単一級であるため、その位置づけは分かりにくい。長らく「勲一等と勲二等の間」と見られてきた。しかし、現在では他の勲章の「大綬章」並み(かつての「勲一等」並み)と見るむきもある。なぜならば、「大綬章」以上は天皇から渡される「親授」であるところ、文化勲章は創設60年目の1997年(平成9年)以降、親授されているからである。(参照:栗原俊雄著『勲章 知られざる素顔』、岩波新書、2011年。)
  2. ^ 文化勲章受章候補者推薦要綱(平成2年12月12日内閣総理大臣決定)、勲章及び文化勲章各受章者の選考手続について(昭和53年6月20日閣議了解)。

外部リンク