コンテンツにスキップ

佐川一政

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Minsbot (会話 | 投稿記録) による 2012年4月17日 (火) 08:19個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (r2.7.2) (ロボットによる 追加: th:อิสเซ ซะงะวะ)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

さがわ いっせい

佐川 一政
生誕 (1949-06-11) 1949年6月11日(75歳)
日本の旗 日本 兵庫県神戸市
出身校 和光大学人文学部卒業
関西学院大学大学院修了
パリ第3大学大学院修了
職業 小説家翻訳家
テンプレートを表示

佐川 一政(さがわ いっせい、1949年6月11日 - )は、日本殺人犯、小説家パリ人肉事件の犯人として知られる。

人物

経歴

兵庫県神戸市生まれ。聖ミカエル学園から神奈川県立鎌倉高等学校を経て和光大学人文学部文学科卒業、関西学院大学大学院英文学専攻修士課程修了、パリ第3大学大学院修士課程修了。1981年昭和56年)の時点では身長152cm、体重35kg。

祖父は朝日新聞論説委員であり、父は伊藤忠商事からの出向により栗田工業社長を務めた佐川明。叔父は、歌手俳優佐川満男[1][2]

生い立ち

生まれた時は父親の手のひらに乗るほどの未熟児だった。出生1年後には腸炎を患い、カリウムカルシウム静脈注射で命を長らえるような状態であり、両親は果たして何歳まで生きられるかと心配したが、虚弱体質だったものの順調に成長していった。内向的な性格ということもあり、文学では『嵐が丘』『戦争と平和』などのほか、シェークスピアに興味を示し、音楽ではベートーベンヘンデルを愛した芸術少年だった。高校時代には白樺派に傾倒し、志賀直哉の『暗夜行路』に影響を受けて短編小説を書いたことがある他、紹介状も持たず武者小路実篤に会いに行き、武者小路の書斎で1時間ほど面談したこともある[3]。すでに小学生の頃、幼い子供を誘拐しては鍋で煮込んで食べる魔法使いの話を叔父から何度も聞かされ、人肉を食することに興味を抱いていたといわれ、高校時代には精神科医にたびたび相談したが、取り合ってもらえなかった。

こうした佐川の、一般常識から見れば異常な性癖はやがて表に表れることになる。和光大学在学時代には中年のドイツ人女性宅に無断に入り、逮捕されたが、父親が支払った示談金により、告訴はされなかった。

佐川は1976年(昭和51年)、関西学院大学大学院英文学専攻修士課程を修了した。

フランス留学

1977年(昭和52年)からフランスに留学し、1980年(昭和55年)にはパリ第3大学大学院修士課程を修了した。引き続き同大学に在籍していた1981年(昭和56年)6月11日、佐川は同大学のオランダ人女性留学生(当時25歳)が自室を訪れた際、彼女を背後からカービン銃で撃って殺害し、その遺体性交渉の後、解体し写真に撮り、いくつかの部分の肉を食べた。

そのあと佐川は女性の遺体を遺棄しようとしているところを目撃されて逮捕され、犯行を自供したが、取調べにおける「昔、腹膜炎をやった」という発言を通訳が「脳膜炎」と誤訳したことから[4]精神鑑定の結果、心身喪失状態での犯行と判断され、不起訴処分となった。その後、アンリ・コラン精神病院措置入院されたが、この最中にこの人肉事件の映画化の話が持ち上がる。佐川は劇作家の唐十郎に依頼するも、唐は佐川が望んでいなかった小説版「佐川君からの手紙」(『文藝』1982年11月号)で第88回芥川賞を受賞する。

日本帰国後

1984年(昭和59年)に日本へ帰国し、精神病院である東京都立松沢病院に入院した。同病院での診察では、佐川は人肉食の性癖は持っておらず、フランス警察に対する欺瞞であったという結論であった。同院副院長(当時)の金子医師は、佐川は精神病ではなく人格障害であり、刑事責任を問われるべきであり、フランスの病院は佐川が1歳の時に患った腸炎を脳炎と取り違えて、それで誤った判断を下したのではないかとしている[5]。日本警察も全く同様の考えであり、佐川を逮捕して再び裁判にかける方針であったが、フランス警察が不起訴処分になった者の捜査資料を引き渡す事はできないとして拒否した。

同院を15ヶ月で退院した佐川は、マスコミに有名人として扱われ、小説家になったが、日本の病院と警察がそろって刑事責任を追及すべきという方針であったのに、フランス警察の方針によりそれが不可能になったことから、社会的制裁を受けるべきだという世論が起きた[6]。両親もこの事件の結果、父親は会社を退職することになり、母親は神経症の病気を患ったという。

社会復帰後、1989年平成元年)の宮崎勤逮捕では猟奇犯罪の理解者としてマスコミの寵児となり、忙しい時は月刊誌や夕刊紙など4紙誌に連載を持っていた[7]。印税収入だけで100万円に達した月があった他、講演やトークショーにも出演して稼いでいた[7]。また、1本30万円のギャラでアダルトビデオに出演していたこともある[7]。しかし2001年(平成13年)頃までにはほとんどの仕事が途絶え、生活に困って闇金に手を出すようになる[7]

2005年(平成17年)1月4日に父が死去、次いで翌日に母が死去[7]。当時、佐川は闇金の取立てに追われて千葉県に逃げていたため両親の死に目に会えず、社葬という理由で葬儀にも出席を断られた[7]。その後、親の遺産で借金などを返し、2005年(平成17年)4月公団住宅に転居[7]。千葉県に住んでいた頃は持病の糖尿病が悪化し、生活保護を受けていたが、2006年(平成18年)のインタビューでは「現在は受けていません」と語っている[7]

過去には500通ほどの履歴書を書き、会社回りをしたものの、ことごとく採用を拒否されているという[7]。一度だけ「本名で応募してくる根性が気に入った」と採用決定された語学学校もあったが、職員たちの反対を受けて不採用となる[7]。小説を執筆しているが、どこの出版社からも取り上げられないと語っている[7]

思想

「男女間の幻想であり、そのことがすべての過ちの原因になりうる。人は錯覚に基づき、感じ、考え、行動している。その錯覚が、人間しか創造し得ない膨大な幻想を生み出しているとしたら、愛の過ちは素晴らしい人類への贈り物である。愛そのものが幻想なら、自分自身は、案外、愛の真実の姿を典型的に、もっとも過激に生きているのかもしれない[8]」と述べている。

エピソード

  • ザ・ローリング・ストーンズが佐川のパリ事件を歌にしている。1983年(昭和58年)の12インチシングル「Too Much Blood」がそれである(12インチシングルとしては日本では未発売)。事件発覚時にミック・ジャガーはパリに滞在しており、ニュースの全容を知り、ショックを受け、本作を書き下ろしたのだった。ジャケットはジャガーの驚愕の表情で、あたかもホラー映画の一場面のように恐ろしい映像である。通常バージョンは同年発売されたLP『アンダーカヴァー』B面1曲目にも収録されている(のちにCD化)。発売はいずれもローリング・ストーンズ・レコードから。
  • 松沢病院退院後、大喜利に出演するためある落語会にゲストとして出席した。楽屋は佐川が一歩足を踏み入れてから、重苦しい雰囲気に包まれた。あたかも楽屋全員が声を潜めて佐川の行動を監視するようである。テーブルに置かれた差し入れのお菓子を前にして、佐川が「これ、私も食べてもいいですか?」と言葉を発すれば全員がビクリと反応した。佐川が「この肉、固すぎてあまりうまくないですねえ」と感想を述べたらまたビクリと反応するなど張り詰めた空気となっていた。
    この会の出演者の一人で、奇行で知られる落語家の川柳川柳が楽屋に到着した。その雰囲気を知らない川柳は、初対面の佐川を見るなり、肩を叩いて「よぉ!食道楽」と明るく声をかけた。
  • 漫画家の根本敬が、結婚後東京圏西部の新興住宅地のマンションに引越ししたところ、すぐ近所に佐川が住んでおり、以後親交を結んだ。
  • 修士号を持っており[9]、修士論文のテーマは「川端康成ヨーロッパ20世紀前衛芸術運動の比較研究」であったという。

著書

単著

  • 『霧の中』話の特集、1984(彩流社、2002年5月)、ISBN 4882027461
  • 生きていてすみません-僕が本を書く理由 北宋社、1990
  • サンテ 角川書店、 1990
  • カニバリズム幻想 北宋社、1991
  • 蜃気楼 河出書房新社、1991
  • 喰べられたい 確信犯の肖像 ミリオン出版、1993
  • 華のパリ愛のパリ 佐川君のパリ・ガイド アイピーシー、1994
  • 少年A ポケットブック社、1997
  • 殺したい奴ら 多重人格者からのメッセージ データハウス、1997
  • まんがサガワさん オークラ出版、2000
  • 霧の中の真実 鹿砦社、2002
  • 業火 作品社、2006
  • 極私的美女幻想 ごま書房、2008

共著

出演

脚注

  1. ^ 「バラバラ殺人犯の知られざる素顔 叔父の佐川満男も『あのおとなしい男が…』と絶句」『週刊明星』1981年7月9日号、集英社
  2. ^ 本橋信宏『素敵な教祖たち サブカルチャー列伝 業界カリスマ17人の真実』コスモの本、1996年、p.156。インタビューでの佐川一政の発言による。
  3. ^ 佐川一政『生きていてすみません』(水栄社)
  4. ^ 鈴木邦男『続・夕刻のコペルニクス』扶桑社1998年、p.171
  5. ^ 『Tokyo Journal 』 1992年9月号
  6. ^ 『週刊マーダーケースブック』2号、デアゴスティーニ、1995年
  7. ^ a b c d e f g h i j k 週刊新潮2006年2月23日号。
  8. ^ コラムニスト」第3号(1992年1月15日) 東京三世社
  9. ^ 多くの大学では内規で、犯罪行為など大学の名誉を汚す行為をおこなった者に対しては、学位を取り消す規定が設けられている。しかしながらかれは不起訴処分を受けており、現在彼が学位を保持し続けているかは不明である。

関連項目