三菱商業学校
三菱商業学校(みつびししょうぎょうがっこう)は1878年(明治11年)3月、神田錦町に三菱財閥が創設した教育機関、慶應義塾の分校的教育機関[1]。1881年(明治14年)に「明治義塾」と改名。夜間法律学校も開校した。1884年(明治17年)廃校。
概要
慶應義塾で教師をしていた森下岩楠が、岩崎彌太郎に説き、商業学校の設立に踏み切らせた。修業年限は、予備科3年、本科2年、専門科1年。本科では、「ブライアント・ストラットン商業算術」や「記簿法初歩」「高等記簿法」などが教授されている[2]。校長の森下岩楠を始め教官のほとんどが慶應義塾の門下生で構成された。教師には、森島修太郎、伊藤銓一郎らがおり、森島は、慶應義塾から商法講習所に移り、商法講習所助教を勤めたのち三菱商業学校に移っている。英語、漢学、日本作文、算術、簿記などのほか、英語による経済学、歴史、地理、数学の授業。さらに1年間のインターンシップもあった。学生数はピーク時で百数十名。いわば明治時代のビジネススクールである。経費はすべて三菱が負担した。
当時、慶應義塾の資金繰りに苦しむ福沢諭吉が政府に貸与を申し出た際に
「 | …三菱(商業学校)は…義塾の分校のようなものである。その分校には政府から(海運助成策などによる三菱への間接的)補助があるのに、本校たる慶應義塾には何もない… | 」 |
とうらやんだといわれる。
沿革
1877年(明治10年)の西南戦争後の数年間で力を蓄えた岩崎彌太郎は、商業の教育機関設立に踏み切る。商業学校は全国から優秀な学生を集め、三菱の幹部候補生を育てた。荘田平五郎らが記した、『簿記法』(経理規則)は、日本で最も早い固定資産減価償却の実施や、貯蔵品に予定価格を用いたり、独自平均元帳を使用する例を含み、非常にすぐれたものとされ、この規定は、その後何度も修正され、1885年(明治18年)の日本郵船会社設立の際の経理規定の基礎となった。
また、教員である馬場辰猪や大石正巳らが自由党の結成に参加。商業学校の校舎を使って、夜間教室「明治義塾」を開設した。土佐の熱血漢たちの、自由民権思想普及の場として人気を集めたが、薩長閥の政府から睨まれるところとなった。1881年(明治14年)、明治義塾と改称後も、法律学の講義は行われており、増島六一郎(英吉利法律学校創立者)、吉田一士[3](関西法律学校創立者)らは明治義塾法律学校の監事をしている。
当時の日本は西南戦争後に採られた松方デフレの影響下にあり、共同運輸との壮絶なビジネス戦争で三菱の資金繰りが逼迫するようになった。明治義塾は、1884年(明治17年)に廃校。跡地には、英吉利法律学校と東京英語学校が創立された[4]。
門下生
- 川田正澂(府立高等学校 (旧制)・東京都立大学初代校長)
- 岩崎久弥(三菱財閥三代目当主)
- 岩下清周(衆議院議員、箕面有馬電気軌道初代社長、不二聖心女子学院中学校・高等学校創立)
- 豊川良平(明治義塾塾長)
- 山本達雄(第5代日本銀行総裁、貴族院議員)
- 馬場辰猪(自由民権運動論者)
- 大石正巳(衆議院議員、農商務大臣)
- 末広重恭(曙新聞主筆)
- 美沢進(横浜市立横浜商業高等学校初代校長)
- 宇佐美祐次(農事功労者、紅白綬有功章受賞)
関連項目
脚注
参考文献
- 『三菱社史』
外部リンク
- 三菱広報委員会三菱史ノート - 三菱商業学校、慶應義塾の分校?
- 三菱商業学校について - 三菱人物伝 岩崎彌太郎物語 vol.1