リチャード・P・リアリー (駆逐艦)

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艦歴
発注
起工 1943年7月4日
進水 1943年10月6日
就役 1944年2月23日
退役 1946年12月10日
その後 1959年3月10日海上自衛隊に貸与
除籍 1974年3月18日
性能諸元
排水量 2,050 トン
全長 376 ft 5 in (114.7 m)
全幅 39 ft 7 in (12.1 m)
吃水 13 ft 9 in (4.2 m)
機関 2軸推進、60,000 shp (45 MW)
最大速 35ノット (65 km/h)
航続距離 6,500海里 (12,000 km)
(15ノット時)
乗員 329名
兵装 38口径5インチ砲5門
40mm対空砲10門
20mm対空砲7門
21インチ魚雷発射管10門
爆雷軌条2基

リチャード・P・リアリー(USS Richard P. Leary, DD-664)は、アメリカ海軍駆逐艦フレッチャー級駆逐艦の一隻。艦名はリチャード・P・リアリー少将に因む。

艦歴

リチャード・P・リアリーは1943年7月4日にマサチューセッツ州ボストンボストン海軍工廠で起工する。1943年10月6日にジョージ・K・クロツァー3世夫人によって命名、進水し、1944年2月23日に艦長フレデリック・S・ハベッカー中佐の指揮下就役した。

第二次世界大戦

バミューダでの整調後、リチャード・P・リアリーはパナマ運河経由で真珠湾へ向かった。7月にエニウェトク環礁およびサイパンでの護衛任務に従事した後、1944年9月15日のペリリュー島上陸支援、10月20日のレイテ島の戦いに参加した。25日のスリガオ海峡海戦でリチャード・P・リアリーは戦艦山城に魚雷を発射し、敵機1機を撃墜、また損傷を受けたアルバート・W・グラント (USS Albert W. Grant, DD-649) を援護した。11月1日、レイテ島沖を偵察中にアブナー・リード (USS Abner Read, DD-526) の生存者70名を救助している。

ルソン島の戦いでリチャード・P・リアリーは、1945年1月6日に敵機1機を撃墜し、9日には上陸部隊への火力支援を行った。2月19日には硫黄島への上陸部隊に再び火力支援を行い、4月1日の沖縄でも同任務に従事している。4月6日の夜から7日にかけてリチャード・P・リアリーは慶良間諸島で損傷したモリス (USS Morris, DD-417) の支援を行った。沖縄での任務が完了すると、リチャード・P・リアリーは8月にアラスカ州エイダックへの派遣が命じられた。アリューシャン列島での任務後、リチャード・P・リアリーは日本に向かい、9月8日に大湊に到着する。その後9月30日に日本を出航し、カリフォルニア州サンディエゴに向かった。

帰国後、不活性化が命じられ、1946年12月10日に退役、太平洋予備役艦隊入りした。

海上自衛隊で

太平洋予備役艦隊でモスボール状態のまま保管されていたリチャード・P・リアリーは、1954年3月8日日米艦艇貸与協定に基づき1959年3月10日に僚艦ヘイウッド・L・エドワーズとともに日本の海上自衛隊に貸与され以後1960年から15年間海上自衛隊の護衛艦ゆうぐれ(DD-184) として就役した。艦名は夕暮れに由来し、この名を受け継ぐ日本の艦艇としては、神風型駆逐艦 (初代)夕暮」、初春型駆逐艦夕暮」に続き3代目に当たる。

1974年3月9日海上自衛隊を退役しアメリカ海軍に返還された。その後1976年にスクラップとして売却、解体された。

リチャード・P・リアリーは第二次世界大戦の戦功で6個の従軍星章を受章した。

関連項目

外部リンク