メアリー2世 (イングランド女王)

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ステュアート朝

メアリー2世

ジェームズ1世
   ヘンリー
   エリザベス
   チャールズ1世
   ロバート
チャールズ1世
   チャールズ2世
   メアリー
   ジェームズ2世
   ヘンリー
   ヘンリエッタ・アン
チャールズ2世
ジェームズ2世
   メアリー2世
   アン
   ジェームズ老僭王
   ルイーザ
   
      チャールズ若僭王
      ヘンリー・ベネディクト
メアリー2世
ウィリアム3世
アン
   ウィリアム

メアリー2世(Mary II of England, 1662年4月30日 - 1694年12月28日)は、イングランドスコットランドアイルランド女王(在位:1689年2月13日 - 1694年12月28日)。夫のウィリアム3世の共同統治者として共に王位に即いていた。

生涯

1662年、イングランド王チャールズ2世の弟で当時ヨーク公であったジェームズ(後のジェームズ2世)と、その最初の妻アン・ハイドの長女としてロンドンで生まれた。妹にアンルイーザ・マリア・テレーザ、弟にジェームズ・フィッツジェームズジェームズ・フランシス・エドワードがいる。

母がプロテスタントであったため、伯父チャールズ2世の命により妹のアンと共にプロテスタントとして育てられる。

1677年、伯父の勧めで、代々オランダネーデルラント連邦共和国)の統領を世襲するオラニエ=ナッサウ家ウィレム3世(後のウィリアム3世)と結婚する。ウィレム3世の母メアリー・ヘンリエッタはチャールズ2世の妹、ヨーク公ジェームズの姉であった。しかし、従兄妹同士の結婚であったとは言え、チャールズ2世はかつてオランダと盟約を結びながら、フランスルイ14世に翻意されてドーヴァーの密約を結んで第三次英蘭戦争を引き起こすなど、両国間の相互不信の中での政略結婚であり、この結婚は決して両国関係の安定化に繋がるものとは言い難かった。

父は母の死後、カトリック教徒であるモデナ公女マリア(メアリー)と結婚し、1685年に伯父の後を継いでイングランド王、スコットランド王に即位した。当時のイングランドの貴族や議会はほとんどプロテスタントであり、カトリックを重用するジェームズ2世と事あるごとに対立した。ジェームズ2世がそれまでなかった常備軍を新設するに及んで国王と議会の対立は頂点に達し、議会はジェームズ2世追放とオランダに嫁いでいたメアリーの擁立に傾き、夫のウィレム3世もオランダ軍を率いてイングランドへ侵攻することに同意する。

1688年、ウィレム3世の率いるオランダ軍はなんら抵抗を受けずにイングランドへ上陸し、ジェームズ2世の常備軍司令官も無抵抗のまま降伏した。ジェームズ2世はロンドンからケントまで逃れたところを捕らえられたが、メアリーの立場を考慮して、処刑されることなくフランスに追放された(処刑すれば殉教者として同情が集まるという判断もあった)。当初イングランド議会はメアリーの即位だけを望んだが、ウィレム3世が難色を強く示したため、議会もウィレム3世がオランダ統領のままウィリアム3世として女王メアリー2世と共にイングランド、スコットランド、アイルランドの王位に就くことに同意した。こうしてウィリアム3世とメアリー2世の共同統治が始まった。イングランドでは流血を見ることなく革命が成立したので名誉革命と呼ばれる。

フランスに追放されたジェームズ2世はその後、フランス軍の支援を得てカトリックのアイルランドに上陸し、イングランドに対する反乱に立ち上がらせた(ウィリアマイト戦争)。スコットランド高地地方でも反イングランドの反乱が起こり、ウィリアム3世はこれらの反乱鎮圧のために出陣し、本国オランダも大同盟戦争でフランスと戦争していたので、ほとんどロンドンにいなかったため、イングランドの留守はメアリー2世が預かる形となった。メアリー2世には政治的な手腕はあったとされるが、夫婦仲は悪かった上、子供は生まれなかった(3度とも流産)。

1694年、メアリー2世は天然痘で死亡し、以後はウィリアム3世の単独統治となった。1702年のウィリアム3世の死後、権利の章典の取り決めにより、メアリー2世の妹アンが即位した。

王位継承の家系図

(アンリエット・マリー・ド・ブルボン)
ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス━┳┳┳┳━イングランド王チャールズ1世(1600年11月19日 - 1649年1月30日)
(Henriette Marie de Bourbon)          ┃┃┃┃   (Charles I) 
(1609年11月25日-1669年9月10日)       ┃┃┃┗━ヘンリエッタ・アン(1644年6月16日-1670年6月30日)オルレアン公フィリップ1世妃  
           イングランド王チャールズ2世┛┃┗━━イングランド王ジェームズ2世━┳┳━アン・ハイド(Anne Hyde)
                                        ┃                                   ┃┃
       メアリー・ヘンリエッタ・ステュアート━┳━オラニエ公ウィレム2世     ┃┃
 (Mary Henrietta Stuart, The Princess Royal)   ┃  (オランダ総督ヴィレム2世) ┃┗イギリス女王アン Anne Stuartヨウエン
         (1631年11月4日-1660年12月24日)        ┃                            ┃(1665年2月6日-1714年8月1日)  ┃
                                               ┃              ┏━━━━━━┛                              ┃
                      ウィリアム3世 (イングランド王)━┳━イングランド女王メアリー2世              子供ことごとく夭逝
                       (William III (of Orange)       ┃ (Mary II of England)                                ┃
                       (1650年11月14日 - 1702年3月8日)┃ (1662年4月30日-1694年12月28日)                      子供無し                     ステュアート朝の終焉

関連項目

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