ミゲル・ポルラン
| ||||||
---|---|---|---|---|---|---|
名前 | ||||||
本名 | ミゲル・ポルラン・ノゲーラ | |||||
ラテン文字 | Miguel Porlan Noguera "Chendo" | |||||
基本情報 | ||||||
国籍 | スペイン | |||||
生年月日 | 1961年10月12日(62歳) | |||||
出身地 | ムルシア | |||||
身長 | 175cm | |||||
体重 | 73kg | |||||
選手情報 | ||||||
ポジション | DF(RSB) | |||||
クラブ1 | ||||||
年 | クラブ | 出場 (得点) | ||||
1979-1983 1982-1998 |
レアル・マドリード B レアル・マドリード |
67 (1) 363 (3) | ||||
代表歴 | ||||||
1986-1990[1] | スペイン | 26 (0) | ||||
1. 国内リーグ戦に限る。 ■テンプレート(■ノート ■解説)■サッカー選手pj |
チェンドことミゲル・ポルラン・ノゲーラ(Miguel Porlan Noguera "Chendo"、1961年10月12日 - )は、スペインの元サッカー選手。現役時代のポジションはDF(右サイドバック)。レアル・マドリードの下部組織出身であり、1997-98シーズンに引退するまでレアル・マドリード一筋だった。
快足を生かして度々サイドから攻撃参加をしてチャンスを作り、また守備でもカバーリングに長け[2]、ディエゴ・マラドーナのマークなどの重要な仕事を任された[3][4]。
経歴
ムルシア、トタナで生まれたチェンドは、15歳でレアル・マドリードの下部組織に加入。1982年4月11日のCDカステリョン戦でトップチームデビュー。翌シーズン、2試合のリーグ戦に出場した。
1983-84シーズン始め、フアン・ホセが右サイドバックとして出場していたが、怪我によってチェンドにスターティングメンバーの座が巡ってきた。フアン・ホセの怪我が完治すると再びチェンドはベンチに戻ったが、そのシーズンが終わる頃には再び定位置を確保、最終的に26試合に出場した。チェンドの4年目は、25試合のリーグ戦と11試合のUEFAの大会に出場。そのシーズン、レアル・マドリードはUEFAカップを制覇したほか、同じくマドリードを本拠地とするライバルアトレティコ・マドリードを下してコパ・デ・ラ・リーガも獲得。
その後の8シーズンは右サイドバックの位置を不動のものとして297試合に先発出場し、キンタ・デル・ブイトレの一員としてリーガ・エスパニョーラ5連覇などのタイトル獲得に大きく貢献した。しかしその後は定位置を失い、1998年5月20日のUEFAチャンピオンズリーグ・ユヴェントスFC戦が最後の試合となり、37歳のチェンドは引退した。
スペイン代表としては、1986年1月22日のソ連代表戦でデビューし、メキシコW杯と1990年のイタリアW杯に出場した。
引退後は同クラブで働き、現在は代表責任者をしている。2011年5月に故郷ムルシアが地震に襲われたことに対するレアル・マドリード対ムルシア選抜のチャリティーマッチでは[5]、サプライズで現役時代の背番号と同じ2番であるリカルド・カルヴァーリョのユニフォームを着て10分間ピッチに立った[6]。
所属クラブ
- レアル・マドリード・カスティージャ 1980-82
- レアル・マドリード 1982-98
タイトル
- レアル・マドリード
- リーグ 1985-86, 1986-87, 1987-88, 1988-89, 1989-90, 1994-95, 1996-97
- コパ・デル・レイ 1989, 1993
- UEFAチャンピオンズリーグ 1998
- UEFAカップ 1985, 1986
脚注
- ^ “Miguel Porlan Noguera, ‘Chendo’ - International Matches” (英語). The Rec.Sport.Soccer Statistics Foundation
- ^ 「GREATEST TEAM」ワールドサッカーマガジン、ベースボール・マガジン社、2007年1月18日号
- ^ マラドーナ、練習見学. Real Madrid C.F.、2010年11月20日
- ^ 「クラブ・スター列伝」ワールドサッカーマガジン、ベースボール・マガジン社、2007年4月5日号
- ^ レアルが震災復興慈善試合開催. nikkansports.com、2011年5月20日
- ^ チェンド:発案はモウリーリョで、すべては感動的なものになった. Real Madrid C.F.、2011年5月19日