ホイアン
座標: 北緯15度52分38秒 東経108度19分33秒 / 北緯15.87722度 東経108.32583度
ホイアン Thành phố Hội An 城舖會安 | |||
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ホイアン旧市街地 | |||
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愛称 : ホイアン | |||
座標 : 北緯15度53分 東経108度20分 / 北緯15.883度 東経108.333度 | |||
行政 | |||
国 | ベトナム | ||
省 | クアンナム省 | ||
ホイアン | |||
地理 | |||
面積 | |||
域 | 60 km2 (20 mi2) | ||
人口 | |||
人口 | (現在) | ||
域 | 121,716阮氏政権人 | ||
人口密度 | 2,000人/km2(5,300人/mi2) | ||
その他 | |||
等時帯 | UTC/GMT +7 |
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ホイアンの来遠橋(日本橋) | |||
英名 | Hoi An Ancient Town | ||
仏名 | Vieille ville de Hoi An | ||
登録区分 | 文化遺産 | ||
登録基準 | (2)(5) | ||
登録年 | 1999年 | ||
備考 | 名称について | ||
公式サイト | 世界遺産センター(英語) | ||
地図 | |||
使用方法・表示 |
ホイアン(ベトナム語: Hội An・英: Hoi An, チュノム:會安)とは、ベトナム中部クアンナム省の都市であり、ダナン市の南方30キロ、トゥボン川の河口に位置する古い港町である。人口121,716人。ヨーロッパ人にはファイフォ 、フェイフォ(Faifo) と呼ばれたこともある[1]。中国人街を中心に古い建築が残り、1999年(平成11年)に「ホイアンの古い町並み」としてユネスコの世界文化遺産に登録されている。
概要
チャンパ王国時代からの古い港町で、16世紀にチャンパは南に後退し、フエに広南阮氏政権が樹立されると、その外港となった。ホイアンの名称はその頃に成立したと思われる。
16世紀末以降、ポルトガル人、オランダ人、中国人、日本人が来航し国際貿易港として繁栄した。1601年には広南阮氏は、徳川家康に書簡を送って正式な国交を求め、江戸幕府との取り引きが急速に拡大した。朱印状による約30年間にわたる朱印船貿易のうち、広南には71隻が入港した。ホイアンには大規模な日本人街や中国人街が形成され、1623年にはオランダ東インド会社の商館も設けられるなど、繁栄を誇ったが、間もなく江戸幕府の鎖国により、日本人の往来が途絶え、オランダの商館も1639年に閉鎖された。
17世紀後半、清朝と鄭氏台湾との対立から遷界令が出されたことは、さらにこの地域の交易を停滞させ、一時期の繁栄は失われていった。1770年代には、西山(タイソン)党の乱によって、町は完全に破壊されたが、やがて再建され、19世紀まで繁栄した。しかし、ホイアンと南シナ海を結ぶトゥボン川に、土砂が堆積して川底が浅くなった結果、大型船の往来に支障を来たす事となり、国際貿易港としての繁栄は、ダナン港へと移行した。
一方で、街並みは残され、ベトナム戦争時代に破壊されることもなく、現在に至るまで当時の繁栄ぶりを今に伝えている。
登録基準
この世界遺産は世界遺産登録基準のうち、以下の条件を満たし、登録された(以下の基準は世界遺産センター公表の登録基準からの翻訳、引用である)。
- (2) ある期間を通じてまたはある文化圏において、建築、技術、記念碑的芸術、都市計画、景観デザインの発展に関し、人類の価値の重要な交流を示すもの。
- (5) ある文化(または複数の文化)を代表する伝統的集落、あるいは陸上ないし海上利用の際立った例。もしくは特に不可逆的な変化の中で存続が危ぶまれている人と環境の関わりあいの際立った例。
主な建築物
- 来遠橋(日本橋) - 幅3メートル、長さ18メートルの中国風の屋根付橋だが、1593年に日本人が建設したと伝えられ、2万ドン札の裏側にも印刷されている。
- 福建会館 - 1773年に建設された華人の会館。
- 広肇会館(広東会館) - 1786年に創建された広東系中国人の会館で、中華街の名残り。
- 海南会館
- 潮州会館
- クアンコン寺(関帝廟)
- クアンタンの家(廣勝家、チャンフー通り77番の家) - 約380年前に建てられた中国家屋。
- タンキーの家(進記家) - ベトナム文化省から、世界文化遺産登録前に「ベトナム社会主義共和国の国宝第1号」に指定された。
- フーンフンの家(馮興家)
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来遠橋(日本橋)
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トゥボン川から見たホイアンの旧市街地
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クアンコン寺
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潮州会館
観光
- クアダイ・ビーチ
- 日本人墓地
交通
- 最寄の空港は、ダナン国際空港である。2014年(平成26年)7月16日より、東京/成田 - ダナン間の定期直行便の運航が開始された[2]。また、空路でハノイ(ノイバイ国際空港)若しくはホーチミン市(タンソンニャット国際空港)から、ダナン行国内線への乗換、若しくは日本の地方空港から、大韓民国の仁川国際空港でトランジットし、仁川発ダナン行への直行便で行くことも可能。空港到着口には、メータータクシーが待機し、ホイアンまでの移動時間は約40分位。また、ダナン国際空港には、路線バスの乗り入れ及びバス停、バイクタクシーの待機は無い。
- 陸路の場合はベトナム鉄道南北線(統一鉄道) - ダナン駅下車、若しくはハノイ・ホーチミン市他から長距離バスにて、ホイアンに入る方法がある。ダナン市内からツアー会社運営の乗り合いバス、または公共路線バス(黄色いバス、18,000ドン)で行くことも可能(路線バス運転手によっては「外国人料金」を要求される事もある)。バイクタクシーは、交通事故に遭った際、相手から補償が受けられない事が殆どである。
- ホイアン旧市街は、時間帯によって自動車及びバイク乗り入れが禁止されている。ホテルの場所によっては、ホイアンバスターミナルからホテルまでの移動に、徒歩・シクロしか輸送手段が無い事もある。
日本との関係
朱印船貿易が盛んだった17世紀頃には日本人街があり、300人以上(1000人以上とも)の日本人が住んでいたと言われているが[3]、1633年の第一次鎖国令(5年以上海外に住んだ日本人の帰国禁止)、1635年の第三次鎖国令(東南アジアからの帰国禁止)などにより、徐々に日本人は撤退した。その後ホイアンでは大火があり、現在の街並みはすべて19世紀以降のものになっているため日本街の遺構は残っていない。日本人が造ったされる来遠橋(通称「日本橋」)も建築様式が日本のものと異なることから、後年架け直されたものと思われるが、1993年(平成5年)から継続的に行なわれている昭和女子大学らの発掘調査により、橋のすぐ横から木杭や板材が見つかり、それが本来の日本橋の遺構ではないかと見られている[4]。発掘では、古伊万里焼の破片や日本独特の仏具である仏飯器なども出土した。ホイアン郊外には1647年に没した谷弥次郎兵衛の名が刻まれた日本人墓地(昭和5年(1930年)に日本人によって修復されたもの)もある[3]。また、郷土料理の汁なし麺のカオラウ(Cao lầu)は日本の伊勢うどんが変化したものではないかとする説もあるが[5]、スープでなくタレをからめて食べる点の類似や、カオラウの漢字「高樓」が2階建て家屋があったとされる日本人街の通称「高樓」に由来するのではないかという推測からであり証拠はない。
参考文献
- 『ホイアンの考古学調查: ベトナムの日本町』平井聖、昭和女子大学国際文化研究所, 1998
- 『ベトナム日本町の考古学』菊池誠一、高志書院 (2004/01)
- 『甦える安南染付―ホイアンの奇跡』岸良鉄英、里文出版 (2007/02)
脚注
- ^ 林芙美子の小説・浮雲では、「へイホ」の名で登場している
- ^ “ベトナム・ダナン、「ダナン越日文化交流フェスティバル2014」開催”. トラベルビジョン (トラベルビジョン). (2014年6月6日) 2014年6月26日閲覧。
- ^ a b 『続吉備の国から: 地域への思いを込めて』高見茂、吉備人出版, 2008
- ^ ベトナム・古い町ホイアンと古い町ドンラム文化遺産国際協力コンソーシアム研究会、2007
- ^ 一度は味わってみたいベトナムのおすすめグルメAll About編集部、株式会社オールアバウト, 2014
関連項目
- ミーソン聖域 - 同じクアンナム省に立地する、世界文化遺産。
- 平成21年台風第16号
- THE世界遺産 - 世界遺産(TBS)の時に「第223回2000年10月15日放送 古都ホイアン」・THE世界遺産の時に「2009年7月5日放送 古都ホイアン」が放送された。
- 鶴瓶の家族に乾杯 - 2008年7月28日放送分のロケ地に採択された。
外部リンク
- 昭和女子大学国際文化研究所(日本語) - ホイアンの家屋修繕・遺跡発掘調査を、ベトナム社会主義共和国政府と協力して行っている。
- Welcome to Hoi An World heritage - 世界遺産ホイアン (英語)(フランス語)(ベトナム語)
- ベトナム中部世界遺産の街 ホイアン(日本語)
- ホイアン街並み保存 - 昭和女子大学
- ベトナム・ホイアン特集 - 昭和女子大学紀要、1994年
- ベトナム・ホイアン市発見の刻書銘瓷予察 - 髙島裕之、専修大学紀要、2012年