ニッキー・ホプキンス

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。Angol bot (会話 | 投稿記録) による 2015年10月17日 (土) 13:15個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (カテゴリの書き換え (Wikipedia:Bot作業依頼による))であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

Nicky Hopkins
出生名 Nicholas Christian Hopkins
生誕 1944年2月24日
出身地 イングランドの旗 イングランド
死没 (1994-09-06) 1994年9月6日(50歳没)
ジャンル ロック, サイケデリック・ロック
職業 ミュージシャン
担当楽器 キーボード, オルガン, ピアノ, メロトロン

ニッキー・ホプキンスNicholas Christian Hopkins, 1944年2月24日 - 1994年9月6日)は、イギリスのミュージシャン。ピアノオルガンと言った鍵盤楽器を演奏し、1960年代から70年代にかけてのイギリス、アメリカにおけるポピュラー・ミュージックのセッションに多数参加した。ロック史上における重要なセッション・ミュージシャンの一人として見なされる。

経歴

1960年代初頭のスクリーミング・ロード・サッチ率いるサヴェージズのピアニストとして経歴をスタート、以降は当時のミュージック・シーンにおける売れっ子プレーヤーの一人となり、流暢で機敏なブギウギは、多くのヒット・ナンバーのピアノ・スタイルに影響を及ぼした。シェル・タルミーミッキー・モストといった独立プロデューサーを通じてキンクスドノヴァン、そして1965年にはザ・フーのデビュー・アルバム『マイ・ジェネレーション』の録音に参加している。彼はビートルズジョン・レノンジェフ・ベックなどの60年代のトップ・アーティストのレコーディングに参加した。またその頃は、シリル・ディヴィス・オール・スターズに参加する。

しかしその反面、若い頃からクローン病で苦しんでいた。病気とそれに伴う外科的治療は彼にとってツアーへの参加を困難な物とした。このことから彼はスタジオ・セッションにその活動の比重を置くこととなる。ただし、体調が比較的良好だった時は他のバンドのツアーにも参加したことがあり、1971年1973年頃のローリング・ストーンズのツアーにも参加していた。

バンドのメンバーとしての活動は、1967年のジェフ・ベック・グループのアルバム『トゥルース』を録音後のUKツアーの後グループに加入、『ベック・オラ』を録音して、1969年のアメリカ・ツアーの6月グループを去り、サンフランシスコのミュージシャンと接近する。 ジェファーソン・エアプレインのキーボーディストとしてウッドストック・フェスティバルに参加、またスティーヴ・ミラー・バンドのアルバムに参加し、結局クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスに加わりグループのアルバム制作に関わるなどして「サンフランシスコ・サウンド」の確立に貢献した。

同作ではホプキンスの稀な歌唱を聴くことが出来る。また1975年8月にはグレイトフル・デッドジェリー・ガルシア・バンドに参加して大晦日のカウント・ダウン・ショウまで参加した。

1975年には3枚目のソロ・アルバム「No More Changes」をリリースしているが、未だ再リリースされていない。

セッション・プレーヤーとしてホプキンスは、リハーサルをほとんど行わないことで有名であった。また、彼はセッション・スタジオで漫画本を読む習慣もよく知られていた。

サイエントロジーのメンバーで、1989年10月に国際サイエントロジスト協会(International Association of Scientologists, IAS)自由メダルを受章している。

1992年から1993年には、日本のTVドラマの音楽も手掛ける。『逃亡者』、『パ★テ★オ』、『並木家の人々』(いずれもフジテレビ系)のサウンドトラックは、ホプキンスの名義でCDも発表された。

ホプキンスは1994年9月6日にテネシー州ナッシュビルの聖トマス病院で死去した。50歳没。死因はの手術後に生じた併発症による物であった。死の直前まで、レイ・コールマンと共に自叙伝を執筆していた。

ローリング・ストーンズとの関係

ローリング・ストーンズとは、『ビトウィーン・ザ・バトンズ』、『サタニック・マジェスティーズ』、『ベガーズ・バンケット』、『レット・イット・ブリード』といった作品で共演。

『レット・イット・ブリード』の制作期間中、キース・リチャーズの到着を待つ間に、ミック・ジャガービル・ワイマンチャーリー・ワッツライ・クーダーと共にジャム・セッションを行い」、後にローリング・ストーンズ・レコードから『ジャミング・ウィズ・エドワード』のタイトルでリリース、ちなみに「エドワード」とは、ホプキンスの愛称であった。その愛称を曲名にした「Edward, the Mad Shirt Grinder」は、クイックシルヴァー・メッセンジャー・サーヴィスのアルバム『シャディー・グローヴ』に収録されている。また、1973年のソロ・アルバムレコーディング。

1971年のイングランド、スコットランドのツアー、1972年の北米ツアー、そして日本公演がキャンセルさせられた1973年のオーストラリア、ニュー・ジーランドのツアー・メンバーとして活動した後、再びサンフランシスコで自分のバンドの活動をメンバーにプレイリー・プリンスとピート・シアーズで開始する。1973年にソロ・アルバム『夢見る人 The Tin Man Was a Dreamer』をリリースした。アルバムにはジョージ・ハリスン(ジョージ・オハラとクレジットされた)、ミック・テイラー、プレーリー・プリンスが参加した。

主な参加作品

外部リンク