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セーフティカー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

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2010年度からF1のセーフティカーとして使用されるメルセデス・ベンツ SLS AMG

セーフティカー(safety car)とは、モータースポーツにおいて、マシンがコース上でクラッシュし、路面に脱落したパーツやその破片が散乱、またはマシン本体がコース上に止まっている場合、散乱したパーツによる損傷や二次クラッシュを防ぐ目的でレースを先導する車のことである。大雨などの荒天のときも、レースを先導することがある。

インディカー・シリーズNASCARなど、アメリカにおいては一般にペースカー(pace car)と呼ばれる。

通常トラブル時にコースインするセーフティカーは1台だが、ル・マン24時間レースの行われるサルト・サーキットのようにコース長が非常に長い場合には、同時に複数台のセーフティカーがコースインする場合もある。

F1など

F1や主にヨーロッパのその他のレースにおいては事故車両そのものによってコースがふさがれてしまった場合、特に他の車両がその際散らかった破片を踏んでしまいタイヤがパンクする恐れがあるときや、レースを中断するほどではないが車両の走行が困難なほどの大雨に見舞われるなどのレースを安全に遂行する上で危機的状況に陥った場合に際して、競技参加者やオフィシャルの安全を確保し、競技車のペースをコントロールするためにセーフティカーが導入される。

手順

イエローフラッグとSCサイン

セーフティカーがコースに入る際は、コースの全ての区間において、危険を知らせる黄色い旗が振られるとともに、「SC」と書かれたプラカードやLED表示板が掲げられ、ドライバーは走行速度を落とすことを求められる。「SC」とはSafety Carの略である。

これらの合図が提示されてからセーフティカーが先導している間は、競技車両は、先行車がトラブルでスローダウンした場合などのやむをえない場合を除き、一切の追い越しが禁止されている。

セーフティカーは車体上部に緑と黄色の回転灯や閃光灯を備えており、セーフティカーはコースに入ってしばらくは緑のランプを点灯する。このランプが点灯している間は、競技車両がセーフティカーを追い越すことが認められている。レースの先頭を走っていた車両(その時点で1位の車両)がセーフティカーの後ろに追いついた時点で、セーフティカーは黄色のランプを点灯し、この時点でセーフティカーの追い越しが禁止となる。

隊列を先導している間セーフティカーは黄色のランプを点灯させ、コースの安全が確認され次にピットに入ることになるとランプを消灯し、次の周からレースが再開されることを知らせる。

セーフティカーがレースに介入すると、その副作用として、セーフティカーが入る以前の段階で後続車との間に大きなリードを築いていたとしても、そうした差が全て縮められることになるため、その後のレースがより白熱したものとなるという効果がある。

フェリペ・マッサを先導するセーフティカー。(※:写真は2006年のF1世界選手権にて)

F1における歴史

F1においてセーフティカーが初めて使用されたレースは1973年のカナダGPである。しかし、このレースでは、誤って1周遅れのドライバーの前で先導してしまったためレースに混乱を招き、レース終了後、勝者を確定するまでに数時間を要することとなった。

その後、1992年にルールが制定。1993年のブラジルGPまでの間、F1においてセーフティカーが使用されることはなかった。

1990年代の中盤には、セーフティカーは各サーキットが用意していたものを使用していた。しかし、サーキットによって保有する車両の性能がまちまちであるため、セーフティカーの性能が低い場合に、後続のF1カーに乗るドライバーは遅いセーフティカーのペースに付き合わされることで、タイヤの温度低下を少なく保つことに苦労するなどの問題が生じた。

これに関しては、1994年のサンマリノGPの決勝において、レーススタート直後にJ・J・レートペドロ・ラミーによる大きな事故が起きたにも関わらず、その時点でレースを中断してスタートやり直しとせず、セーフティカーに先導させるという決定がなされたケースについて、ナショナルジオグラフィックが2004年製作のドキュメンタリーの中で、この時のセーフティカーのペースが決して速いものではなかったため、結果として各競技車両のタイヤの温度は下がり、これがアイルトン・セナの死亡事故の一因となった、とする見解を提出しており、その適否はともかくも、この例が英語圏では広く知られる。

専用車両の登場
F1のセーフティカー(2005年、SLK55 AMG

そうしたセーフティカーに関わる種々の問題に主催者の国際自動車連盟(FIA)は頭を悩ませたが、セーフティカー車両のテレビへの露出度の高さに目をつけたメルセデス・ベンツが、FIAに対してセーフティカーの供給を申し出たことで、1996年以降、AMG製の車両が整備費用などの維持費も含めて無償で提供されるようになり、公式セーフティカーとしてF1で利用されるようになった。同時にメディカルカーも主にCクラスのワゴンモデルをベースとしてAMGより提供されている。

ドライバーはFIAに雇用される形で年間を通して同一の人物が担当するようになり、1997年以降は1995年のイギリスF3チャンピオンオリバー・ギャビン、2000年以降はドイツツーリングカー選手権などでのレース経験があり、同種の車両の扱いに長けたベルント・マイレンダーが、その任に当たるようになった。

1997年のカナダGPにおいて、オリビエ・パニスの事故によりセーフティカーが導入された際は、レース続行が困難と判断されたことで、セーフティカーが隊列を先導したままレースが終了するという珍事となった。同様の例は2009年オーストラリアグランプリでも発生、これは残り3周でセバスチャン・ベッテルロバート・クビサが絡んでクラッシュしたのが原因だった。また同年イタリアグランプリではルイス・ハミルトンがファイナルラップでクラッシュし、セーフティカーが導入された状態でレースが終了した。

歴代ベース車両

セーフティカー用のこの車両は、AMG製の同名の市販車とは、外観は同じでも中身は基本的に別物である。特に、バリオルーフ採用モデル(SL,SLK)は開閉ユニットを外し、固定ルーフとしているため、車体構造から根本的に異なる。ただし、AMGはセーフティカーと同一性能の車両の販売も特注という形で受け付けている(ヨーロッパのみ)。

  • 1996年 C36 AMG
  • 1997-1998年 CLK55 AMG
  • 2000年 CL55 AMG
  • 2001-2002年 SL55 AMG
  • 2003年 CLK55 AMG
  • 2004-2005年 SLK55 AMG
  • 2006-2007年 CLK63 AMG
  • 2008-2009年 SL63 AMG
  • 2010年- SLS AMG

性能

フォーミュラ・ルノーで使用されるセーフティカー。ルノー・メガーヌベースで、晴天時でもF3クラスの車両より速い

セーフティカーは安全にレースを先導するという役目を持つことから完全な全開走行をする機会はないが、先導する隊列が競技車両であるため、性能的に余裕を持った高性能な車両であることが求められる。

かつてはレースを走る車の方がセーフティカーよりも圧倒的に高い性能を誇っていた。例として、1980年代から1990年代にかけてグループCカーによって争われていた全日本スポーツプロトタイプカー耐久選手権(JSPC)では、セーフティカーの作る遅いペースに合わせて走行すると、レースカーの燃料消費の負担は軽くなり、燃費が最高でリッター当たり約17~18kmにも達したという。この時、セーフティカーの燃費は約4~5km/l程度だったと言われており、性能差が顕著であった。

しかし近年は、レース用車両に対し安全性などの観点から速度を抑制するための規制が進み、一方でセーフティカーはそれら走行性能を制限する種類の規則には従う必要がなく、多くのカテゴリにおいて、「レースで走っているフォーミュラカーよりセーフティカーのほうが速い」ということが珍しくない状況となっている。

今日においてはF1用車両についても例外ではなく、AMGが製造しているものは、F1では禁止されているアクティブサスペンションなどの電子制御機器が多数装備されており、セーフティカードライバーのマイランダーなどは、「雨天時であれば、F1カーより速く走れる」と語っているほどである。

インディ500

インディ500における「ペースカー」は、1911年の初開催以降、一貫してインディアナポリス・モーター・スピードウェイのオフィシャルによって選ばれている。また、このペースカーは優勝者への副賞となることが多い。

運用

ペースカーはコース上に残骸が散乱した場合や、深刻な衝突事故が生じた場合、天候の変化などの理由で導入される。コース全体で危険が警告され、この状況は「フルコースコーション」と呼ばれる。

1993年以降の規則では、ペースカーがレースの先頭車両(その時点で1位の車)を先導している間、イエローフラッグ(黄色い旗)が振られ、ホームストレートが残骸などの障害物のため通過できないような場合を除き、ピットレーンの入り口も閉鎖されることとなる。

歴史

初代ペースカードライバー、カール・G・フィッシャー

1911年の第1回大会のペースカーとなったのはストダード・デイトン(Stoddard-Dayton)で、カール・G・フィッシャーによって操縦された。

100年近くに及ぶ歴史の中で最も多く用いられたのはシボレーブランドの車種で、初めて用いられたのは1948年と比較的後発だが、その後は回数を重ね、2006年までにその登場回数は計17回に及んでいる。

シボレー・カマロZ28(1993年)

第二次世界大戦後のインディ500の中で3回以上ペースカーに選ばれた車種は、シボレー・カマロシボレー・コルベットオールズモビル・カトラス、そしてフォード・マスタングのみである。最も多く用いられている車種はシボレー・コルベットで、2006年までに計8回走行している(2007年についても、9回目の出走を果たすことが決定している)。

自動車メーカーとしては、広告効果という思惑があるため、その年のインディ500のペースカーに選ばれることには各社の威信がかかることとなる。しかし、過去にはこの「広告効果」の高さが裏目に出た例もある。1971年のペースカーに選ばれたクライスラー社のダッジ・チャレンジャーは、コース脇の看板にぶつかり、観客数名を負傷させた。この事故は、コースのオフィシャルが、ペースカーのドライバーがブレーキングポイントを確認するためのオレンジ色のコーン(旗という説もある)を誤って撤去してしまっていたことが大きな原因のひとつではあったが、クライスラー社はその後も長い間に渡って非難を浴びることとなった。

ドライバーたち

インディ500のフォーメーションラップにおいては、一種のセレモニーとして、ペースカーのドライバーを各界の著名人が務めている。

ドライバーの顔ぶれはバラエティに富んでおり、キャロル・シャルビー(1987年、1991年)、ジョニー・ラザフォード(1997年)といった、往年のアメリカ人名ドライバーが務めた例も多いが、元F1ドライバーのジャッキー・スチュワートが1979年にフォード・マスタングを駆っているほか、パイロットのチャック・イェーガー(1986年)、コメディアンジェイ・レノ(1999年)、テレビの人気ドラマERに出演中だった俳優アンソニー・エドワーズ(2000年)、俳優のモーガン・フリーマン(2004年)、同年にアメリカ合衆国国務長官を退任したコリン・パウエル(2005年)、前年にツール・ド・フランス7連覇を達成して引退したランス・アームストロング(2006年)など、その時々で話題を集めていた人物が務めていることも少なくない。

初期においては、自動車会社の首脳がペースカーのドライバーを務めた例も多く、シボレー創業者のルイ・シボレー(1926年)、当時のフォード社長エドセル・フォード(1932年)、同じくヘンリー・フォード2世(1947年)らがステアリングを握っている。近年でもゼネラルモーターズ社の重役ロバート・ルッツ(1996年)がペースカードライバーとなった例がある。100周年を迎えた2011年のレースでは最多優勝記録を持つA.J.フォイトが運転した。

インディカー・シリーズの通常の期間においては、一貫してジョニー・ラザフォードがペースカーのドライバーを務めている。

NASCAR

NASCARにおいては、コース上に残骸が散乱したり、事故あるいは天候の変化などが生じた場合、黄色い旗が振られ、ペースカーが導入され、レースをリードしている車両(その時点で1位の車)を先導する。

よく知られたエピソードとして、デイル・アーンハートはペースカーの先導中、“面白半分に”ペースカーに車をぶつけていたと言われており、ペースカーのドライバーであった、エルモ・ラングレーは頻繁にその被害にあった「犠牲者」として名前を残している。彼のようにぶつけることはないが、フロントローのドライバーがペースカーを挑発するような動きをする場面はよく見られる。

WTCC

多くのカテゴリーではセーフティカー導入中の走行もレース距離に含まれており、周回が加算されるが、1レースが10~20周程度のスプリントで争われる世界ツーリングカー選手権(WTCC)の場合、同様の方法を採るとレースの少なくない割合をセーフティカーランが占めることになるため、2周まではレース距離から除かれ、周回としてカウントされないことになっている(2009年スポーティング・レギュレーション151)。

ドライバーについては、2005年の初開催以来、開催地の地元選手がその都度選ばれて務めるなど毎回交替していたが、2009年5月17日にフランスのポーで行われた当年第8戦において、セーフティカードライバーが指示のないままコースインしてトップを走行していたフランツ・エングストラーのBMWとクラッシュしたのを機に常任ドライバーの必要性が議論され、7月2日にポルトガル出身のブルノ・コレイラが初代の任に当たることが決定。同月5日にポルトガルのポルトで行われた第14戦でさっそく初出動を果たし、無難に任務を遂行した。

フォーミュラ・ニッポン

2008年8月31日、富士スピードウェイで開催された全日本選手権フォーミュラ・ニッポン第7戦のレース2において激しい雨模様となり、スタート予定の15時45分からスタートディレイを繰り返し、若干雨足の弱まってきた16時35分にセーフティカー先導でレースのスタートが切られた。しかし、セーフティカー先導のまま周回が続けられたが、雨脚が再び強まってきたため6周目に入ったところで赤旗が掲示されレースが中断。その後も雨足が弱まることはなく15時過ぎにレース2は赤旗をもって終了されることになった。結果、レースは規定により成立し松浦孝亮が優勝したが予定レース距離の75%を消化できなかったので選手権ポイントは通常の半分となった。

外部リンク