ズデネク・ゼーマン

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ズデネク・ゼーマン
名前
ラテン文字 Zdeněk Zeman
基本情報
国籍  チェコ
イタリアの旗 イタリア
生年月日 (1947-05-12) 1947年5月12日(76歳)
出身地 チェコの旗 プラハ
監督歴
1981–1983
1983–1986
1986–1987
1987
1988–1989
1989–1994
1994–1997
1997–1999
1999–2000
2000
2001–2002
2003–2004
2004–2005
2006
2006
2008
2010–2011
2011–2012
2012–2013
2014–
イタリアの旗 パレルモユース
イタリアの旗 リカタ
イタリアの旗 フォッジャ
イタリアの旗 パルマ
イタリアの旗 メッシーナ
イタリアの旗 フォッジャ
イタリアの旗 ラツィオ
イタリアの旗 ローマ
トルコの旗 フェネルバフチェ
イタリアの旗 ナポリ
イタリアの旗 サレルニターナ
イタリアの旗 アヴェッリーノ
イタリアの旗 レッチェ
イタリアの旗 ブレシア
イタリアの旗 レッチェ
セルビアの旗 レッドスター
イタリアの旗 フォッジャ
イタリアの旗 ペスカーラ
イタリアの旗 ローマ
イタリアの旗 カリアリ・カルチョ
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

[[ファイル:Template:Country flag alias swi|border|20px|Template:Country alias swiの旗]]ACルガーノ

ズデネク・ゼーマンZdeněk Zeman, 1947年5月12日 - )は、チェコスロバキア(現チェコ)・プラハ出身のサッカー指導者。日本では「ズデネク・ゼーマン」の表記が一般的だが、原語での発音は「ズデニェク・ゼマン」に近い。

経歴

地元のプラハ大学フィジカルトレーニングを学び、1968年に起こった「プラハの春」を契機にイタリアへ渡り、ユヴェントスなどで活躍した叔父のチェストミール・ヴィツパーレクの元で過ごした事で、彼のサッカー哲学に大きな影響を与えたとされている。

選手としては華々しい活躍は無く、逆にサッカー以外に、バレーボール野球などアマチュアレベルで活躍していた。

主な監督経歴としてはパルマFCUSフォッジャFCメッシーナなどで監督としてキャリアを積み、1989年に再就任したフォッジャにおいて当時としては珍しいシステムの攻撃的な[1]センセーショナルなサッカーを披露し、その名をイタリア中に轟かせた。その成績が認められ1994年に名門SSラツィオの監督に就任し、1997年には同じ町のASローマに移籍。その後はトルコフェネルバフチェSKSSCナポリサレルニターナ・カルチョ1919USアヴェッリーノUSレッチェブレシア・カルチョと渡り歩き、2006年から再びレッチェの監督に就任したが成績不振のため同年12月に解任[1]、前回就任時のようには行かなかった。2008年6月、ゼーマンはセルビアの名門レッドスター・ベオグラードの監督に就任したが、リーグ戦での低迷などを理由に同年9月解任。

2010年7月、15年ぶりに古巣USフォッジャレガ・プロ・プリマ・ディヴィジオーネ)の監督に就任した[1]が、セリエB昇格を果たせず2011年5月に辞任。

2011年6月、ペスカーラ・カルチョの監督に就任し、2011-12シーズンにセリエB優勝に導いた。2012年6月ルイス・エンリケの後釜として古巣ASローマの監督に就任。2013年2月に解任された。

戦術

4-3-3システム

彼のサッカーの特徴は一貫した4-3-3システムにある[1]。ゼーマン曰く4-3-3システムが一番バランスが取れたフォーメーションで、ピッチ全体をチームで動き、カバーする。前線からプレスをかけ、DFラインはセンターサークル付近まで上げてコンパクトにしオフサイドトラップを多用する。このような戦術には4-3-3が1番適しているという。スペクタクルなサッカー、見ていて楽しいサッカー、このように表現される事が多い。守りが主体のイタリアサッカー界の中で彼が標榜する超攻撃的なサッカーはある意味革命とまで言われた。

しかしゼーマンのサッカー理論は難解といわれ、選手の理解度が重要となり、チームとして機能するのはかなり時間がかかる。その為安定した戦いをシーズンを通じて出来ない。また結果より内容を重視するためタイトルには縁の遠い監督とも言える。

人物

無名の選手の発掘が得意なことで有名。そのために予言者とも称される。彼が指導したジュゼッペ・シニョーリアレッサンドロ・ネスタEURO1996で活躍したものの世界的知名度はまだなかったパベル・ネドベドなどはいい例で、ゼーマンは彼らは間違いなくワールドクラスの選手に化けると予言し見事的中させた。ASローマ時代に指導したフランチェスコ・トッティを世界レベルへ変貌させたのもゼーマンの手腕である[1]。それ以外にも無名選手を数多くイタリア代表クラスに成長させた。近年ではレッチェ時代に指導したヴァレリ・ボジノフミルコ・ヴチニッチを世界レベルへ成長させている。

ヴァンフォーレ甲府京都サンガで監督を務めた大木武は「自分のサッカーはゼーマンの影響を受けた」と公言している1人である。事実、4-3-3システムと攻撃サッカーの信奉者である。[要出典]セリエAでもゼーマンの門下生デリオ・ロッシパスクアーレ・マリーノら若手監督が攻撃サッカーを実践している。

指導者経歴

タイトル

イタリアの旗 ASDリカタ1931
イタリアの旗 USフォッジャ
イタリアの旗 ペスカーラ・カルチョ

脚注

  1. ^ a b c d e 豊福晋「アズーリ凋落で注目のカテナチオへの反逆者」『Sports Graphic Number』2010年9月16日号、文藝春秋、2010年、雑誌26853・9・16、115頁。

外部リンク