アケメネス朝

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

これはこのページの過去の版です。240f:a2:8aeb:1:91cd:aff6:b748:7da2 (会話) による 2016年3月23日 (水) 12:29個人設定で未設定ならUTC)時点の版 (→‎名称)であり、現在の版とは大きく異なる場合があります。

アケメネス朝
haxāmanišiya
メディア王国
リュディア
エラム
新バビロニア
エジプト第26王朝
前550年 - 前330年 アルゲアス朝
ペルシアの国旗
国旗
ペルシアの位置
アケメネス朝の版図 紀元前500年時点
公用語 古代ペルシア語
首都 スサペルセポリスパサルガダエエクバタナ
諸王の王
前550年 - 前529年 キュロス2世(初代)
前521年 - 前486年ダレイオス1世(第4代)
前336年 - 前330年ダレイオス3世(最後)
変遷
成立 紀元前550年
滅亡紀元前330年

アケメネス朝haxāmanišiya、アケメネスちょう、紀元前550年 - 紀元前330年)は、古代オリエントに存在した王朝帝国遊牧国家

名称

アケメネス朝の名称は、この家祖であるアケメネス古代ペルシア語: 𐏃𐎧𐎠𐎶𐎴𐎡𐏁 Haxāmaniš ハカーマニシュ古代ギリシア語: Ἀχαιμένης アカイメネース)に由来する。

海外の文献では、古代ペルシア語の発音に従ったハカーマニシュ朝か、古典ギリシャ語の発音に従ったアカイメネス朝のどちらかを用いている。日本の文献では、アケメネス朝ペルシアアケメネス朝ペルシャアケメネス朝ペルシア王国アケメネス朝ペルシャ王国アケメネス朝ペルシア帝国アケメネス朝ペルシャ帝国とも呼ぶ。なお日本でも、モンゴル帝国史の歴史学者である杉山正明などは、ヨーロッパ中心の歴史観を批判する観点から、ハカーマニシュ朝を用いている。

この王朝の君主は称号として大王、諸王の王xšāyaθiya vazraka, xšāyaθiya xšāyaθiyānām)を称した。

歴史

首都ペルセポリスの遺跡
大王の親衛隊(ペルセポリス)
イランの歴史
イランの歴史
イランの歴史
イランの先史時代英語版
原エラム
エラム
ジーロフト文化英語版
マンナエ
メディア王国
ペルシア帝国
アケメネス朝
セレウコス朝
アルサケス朝
サーサーン朝
イスラームの征服
ウマイヤ朝
アッバース朝
ターヒル朝
サッファール朝
サーマーン朝
ズィヤール朝
ブワイフ朝 ガズナ朝
セルジューク朝 ゴール朝
ホラズム・シャー朝
イルハン朝
ムザッファル朝 ティムール朝
黒羊朝 白羊朝
サファヴィー朝
アフシャール朝
ザンド朝
ガージャール朝
パフラヴィー朝
イスラーム共和国

紀元前7世紀後半、ペルシア人の長でハカーマニシュの息子テイスペス(チャイシュピ)は、アッシリアに圧倒され衰退しつつあったエラム王国の都市アンシャンを征服した。テイスペスの子孫はアンシャンを支配した一族とペルシアに残った一族の二つの系統に分岐した。アッシリアの衰退と共にメディア王アステュアゲス(アルシュティ・ワイガ?)は、バビロニアを除くアッシリア北部の領土をすべて征服した。この時代のペルシアはメディアに服属していた。

紀元前550年、アステュアゲスの孫(アステュアゲスの娘マンダネの子)で、メディア人英語版ペルシア人の混血であるアンシャン王キュロス2世(クル)は反乱を起こし、メディアの将軍ハルパゴスの助けを得てメディアを滅ぼした。イラン高原を掌握したキュロスは、さらに小アジアリュディアエラムメソポタミア新バビロニアを滅ぼした。ヘロドトスの『歴史』によれば、キュロスはカスピ海の東側に住むマッサゲタイ族との戦いで戦死したとされる。しかし後年アルゲアス朝マケドニアのアレクサンドロス3世のペルシア遠征の時、キュロスがパサルガダエに埋葬されているのが確認され、その記録には遺体の外傷について一切触れられていないことから、ヘロドトスの記事は間違いである可能性もある。

紀元前525年にキュロスの息子カンビュセス2世(カンブジャ)はエジプトエジプト第26王朝)を併合して古代オリエント世界を統一したものの、エチオピアへの侵略には失敗した。カンビュセスは弟のスメルディスを殺した。カンビュセスの死後の2年間はメディア人のマゴス、ガウマータが実権を握ったが、ダレイオスをはじめとするペルシア人貴族たちの謀議によって打倒された。

ヘロドトスの伝えるところによると、ペルシア人の指導者たちは帝国の統治形態について話し合った。寡頭政治は国を分裂させる危険を、民主政は大衆の人気に乗じた僭主の台頭を招きかねないことから、しかるべき手順で選ばれた君主による君主政を選択した。最初に選ばれた君主となった総督ヒュスタスペス(ウィシュタースパ)の息子ダレイオス1世(ダーラヤワウ)は版図を北西インドからマケドニアトラキアに拡大し、領土を20州に分けて各州にサトラップ(総督、太守)を置いた。なお、このスメルディス(カンビュセスの弟本人ではなく、その偽者ガウマータ)の暗殺に始まる政変はダレイオスによる簒位の後に捏造された偽伝ではないかと疑う説もある[要出典]

ダレイオス1世とその子クセルクセス1世(クシャヤールシャン)はギリシア征服を計画してペルシア戦争前492年-前449年)を起こしたが、失敗した。紀元前490年にダレイオスが派遣した軍はマラトンの戦いアテナイプラタイア連合軍に敗れ、紀元前480年のクセルクセス自らが乗り出した遠征はサラミスの海戦プラタイアの戦いなどでの敗北を受け、失敗した。その後紀元前5世紀中頃までペルシアはギリシア人の反撃に苦しんだが、クセルクセスの次の王アルタクセルクセス1世紀元前449年カリアスの和約で講和した。

ギリシア人が羨んだ莫大な富、ダレイオスによる新都ペルセポリスでの大殿造営など、ペルシアは繁栄を謳歌し、ペロポネソス戦争前431年-前404年)後、ペルシアはその富を用いてギリシア世界に干渉し、ギリシア人同士の戦いを煽ってその共倒れを狙うという対ギリシア政策を取った(前395年から前387年コリントス戦争がその典型である)。 その一方で、内政面では紀元前4世紀にあい続いた小アジアのサトラップの反乱前372年-前362年)に悩まされていた。

前404年ダレイオス2世の死後、アルタクセルクセス2世小キュロスの間で、皇位継承争いが起こった。ペロポネソス戦争の退役ギリシャ軍人を傭兵とした小キュロス軍が敗北して、アルタクセルクセス2世が王位に就いた。クセノポンは、ギリシャ敗残兵一万人の脱出紀行を『アナバシス』に残している。

宦官で大臣のバゴアス英語版によりアルタクセルクセス3世アルセスが相次いで暗殺され、傍系のダレイオス3世が擁立された。ダレイオス3世の代にアレクサンドロス大王とのガウガメラの戦いに破れて紀元前330年に滅んだ。ただし、アレクサンドロスはダレイオス3世の息女(スタテイラパリュサティス英語版)と結婚し、アケメネス朝の統治制度をほぼそのまま継承しようと試みていた。なお、アレクサンドロスもそうだったが、アケメネス朝の君主たちも古代エジプトを征服した後にファラオを任じていた。

年表

統治機構

アケメネス朝は全国を36の行政区画(サトラッピ)に分け、各州ごとにサトラップ(訳語としては総督、太守)を置いた。また、そのサトラップを監察する目的で、年に一度中央から「王の耳」・「王の目」と呼ばれた監察官が派遣された。さらに「王の道」と呼ばれる国道を建設して駅伝を整備し、通貨制度を創設した。

行政区画

文化

歴代君主

従来ダレイオス1世はアケメネス朝の傍系とされていたが、近年の研究により、王朝の創始者であるキュロス2世の直系から、アケメネス朝の4代目とされるダレイオス1世が帝位を簒奪し、連綿と続く王朝ではなかったことが研究者間の論争の中でほぼ明らかになっている。また、最後のダレイオス3世も、もともとは従前のアケメネス朝とはつながりのない地方総督に過ぎなかったが、アケメネス朝が断絶したために擁立されたのだという[1]

そもそものアケメネス朝の系図自体がダレイオスの帝位簒奪を正当化するための捏造だとする説もあり、すると傍系どころではなく王朝間に全く血縁関係はない可能性も出てくる[2]。この説では、キュロス家の名前(チシュピシュ、クルシュ、カンブジヤ)とダレイオス家の名前(ダーラヤワウ、クシャヤールシャー、アルタクシャサ)の系統が大きく異なる説明もつくという。

アンシャン王の系統
  1. テイスペス
  2. キュロス1世
  3. カンビュセス1世
  4. キュロス2世(紀元前550年 - 紀元前529年)
  5. カンビュセス2世(紀元前529年 - 紀元前521年)
  6. スメルディス(紀元前521年)
ダレイオスの先祖
  1. アリアラムネス英語版
  2. アルサメス英語版
ダレイオスの王朝
  1. ダレイオス1世(紀元前521年 - 紀元前486年)
  2. クセルクセス1世(紀元前486年 - 紀元前465年)
  3. アルタクセルクセス1世(紀元前464年 - 紀元前424年)
  4. クセルクセス2世(紀元前424年 - 紀元前423年)
  5. ソグディアノス(紀元前423年)
  6. ダレイオス2世(紀元前422年 - 紀元前404年)
  7. アルタクセルクセス2世(紀元前404年 - 紀元前343年)
  8. アルタクセルクセス3世(紀元前343年 - 紀元前338年)
  9. アルセス(紀元前338年 - 紀元前336年)
  10. ダレイオス3世(紀元前336年 - 紀元前330年)

系図

文献に伝わるアケメネス朝の系図[3][4]。ただし、ダレイオス1世とそれ以前の王との関係については上述の通り疑問視されている。

 
アケメネス
 
 
 
 
 
 
 
 
テイスペス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
キュロス1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アリアラムネス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カンビュセス1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルサメス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
カンビュセス2世
 
スメルディス
(バルディヤー)
 
アトッサ
 
ダレイオス1世
 
 
ゴブリュアス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クセルクセス1世
 
アルタゾストレ
 
マルドニオス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルタクセルクセス1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
クセルクセス2世
 
ソグディアノス
 
ダレイオス2世
 
パリュサティス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルタクセルクセス2世
 
キュロス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルタクセルクセス3世
 
シシュガンビス
 
アルサメス
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アルセス
 
 
 
ダレイオス3世
 
スタテイラ1世
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
アレクサンドロス3世(大王)
マケドニア王
 
スタテイラ2世
 
ドリュペティス
 
ヘファイスティオン
 
 
ミトリダテス
ペルシアの将軍
 
 
 

関連項目

脚注

  1. ^ ストラボン『ギリシア・ローマ世界地誌』飯尾都人訳、龍渓書舎
  2. ^ 例えば、青木健『アーリア人』(講談社、2009年、p.117-118)では、ハカーマニシュ家のダーラヤワウ(ダレイオス)一世がクル(キュロス)王家の後継者を抑えてペルシア皇帝に即位し、ハカーマニシュ家の系図の中にクル王家の系図を嵌め込んだとしている。
  3. ^ 下津清太郎 編 『世界帝王系図集 増補版』 近藤出版社、1982年、p.140
  4. ^ ジョン・E.・モービー 『オックスフォード 世界歴代王朝王名総覧』 東洋書林、1993年、p.44

参考資料