紀元前494年

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紀元前494年(きげんぜん494ねん)は、ローマ暦の年である。

当時は、「トリコストゥスとゲミヌスが共和政ローマ執政官に就任した年」として知られていた(もしくは、それほど使われてはいないが、ローマ建国紀元260年)。紀年法として西暦(キリスト紀元)がヨーロッパで広く普及した中世時代初期以降、この年は紀元前494年と表記されるのが一般的となった。

他の紀年法[編集]

できごと[編集]

ペルシア[編集]

  • 反抗するギリシアのいくつかの都市国家を成功裏に占拠すると、アルタフェルネスに率いられたアケメネス朝ペルシア軍は、ミレトスを包囲した。ミレトスの港近くのレイド島で、決定的なレイド島の戦いが行われた。数では劣っていたが、サモス島レスボス島からの船が撤退するまでの間は、ギリシア軍が優勢であった。しかし、突然の離脱が戦争の潮目を変え、残されたギリシア軍は壊滅された。その直後にミレトスは降伏し、イオニアの反乱は終結した。
  • ペルシアの指導者アルタフェルネスとマルドニオスは、イオニアの都市に自治権を認めた。彼らは賠償金を放棄し、これまでと同程度の税金だけを取った。ペルシアは、イオニアにおけるギリシアの暴政を廃し、民主主義を認めた。
  • ペルシアは、ディディマのアポロ神殿を焼き払った。

ギリシア[編集]

共和政ローマ[編集]

  • 軍事遠征の終わりに当たり、ローマ軍を構成するプレブスは、ローマ外側の聖山に撤退した。いわゆる「平民分離派」と呼ばれる兵士は、新しい街を築く恐れがあった。

この分離を終わらせるため、プレブスはパトリキから、2人の護民官を選ぶことを認められた。

中国[編集]

  • を従えてを包囲した。
  • 夫差を夫椒で破った。越王勾践は会稽山に立てこもって、呉に講和を求めた。夫差は伍子胥の反対を押し切って講和を許した。
  • の范氏を救援するために邯鄲に出兵し、五鹿を包囲し、棘蒲を奪った。
  • 呉がに侵攻した。
  • 仲孫何忌(孟懿子)が邾を攻撃した。

誕生[編集]

死去[編集]

脚注[編集]

注釈

出典

関連項目[編集]