JDスター女子プロレス

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JDスター女子プロレス(ジェーディースターじょしプロレス)は、日本女子プロレス団体。以前の団体名は吉本女子プロレスJd’(よしもとじょしプロレスジェーディー)。団体名はジャンヌ・ダルクの頭文字の「J」と「D」からとられている。2007年7月16日を最後に活動を休止した。休止時の経営母体はジェイディ・スター。

歴史[編集]

旗揚げまでの経緯[編集]

吉本興業中国進出を計画した際、言葉の壁から今までの芸人による興行形態では進出は難しいと判断し、言葉を必要としないスポーツからアピールすることを思い付き、当時ブームが沸き起こっていた女子プロレスに目を付け、団体旗揚げを計画する。有限会社として設立され、設立に際しては吉本興業のほか、テレテックバンプレスト旭通信社が協力した[1]。代表には卯木基雄(元ラジオ大阪社員)が就いた。 他団体との軋轢を回避するためにあえて引き抜き等の手段を使わず、当時全日本女子プロレスフリーランスとして参戦していたジャガー横田バイソン木村の2名を全女の了解を得た上で移籍させ、全女を退団、引退していた白鳥智香子李由紀の2名を加えた4名を所属選手として契約した。また同じく全女に参戦していたライオネス飛鳥をフリーランスとして招聘、さらに全女を引退していた神谷美織が覆面レスラー『Cooga』としてカムバックし、後の選手は新人から育成することで陣容を整える。

旗揚げ[編集]

旗揚げ戦は、1996年4月14日東京・六本木ディスコヴェルファーレ」にて行われ(その前年の12月24日・12月25日の二日間、大阪のベイサイドジェニーにてプレ旗揚げ戦を行っている)、メインイベントに週刊プロレス提供試合として、バイソン木村VS豊田真奈美戦を行う(これに関しては、この試合をきっかけに、週プロと組み色々と行う企画があったが、諸事情によりうやむやとなり、これ一回のみで終了してしまう)。

旗揚げ当初は、吉本のバックアップの元、覆面コミッショナーとして桂三枝(現:六代桂文枝)を起用、プレ旗揚げ戦ではゲストに西川きよしを来場させ、マスコミに対してアピールを行い、また旗揚げ前の様子を特番としてテレビ放送するなど大掛かりな展開を図っている。

その後、新人もデビューし、ライオネス飛鳥のヒール転向による抗争等もあり、徐々に団体としての形もできてくるが、基本的にジャガーがコーチをしていたこともあり、育成方法が全女と被る部分もあり、どうしても地味な印象が拭えず、又プロレスに関しては経営経験の無かった吉本興業が、全女をモデルに興行を行っていたため、プロレスファンから『全女の2軍』的な目で見られてしまう。さらにエースとして期待したバイソン木村が引退、白鳥・李も自分達への扱いの不満から団体を離脱。さらに、将来のエースとして期待していた小杉夕子曽我部美幸が引退するといった事態が発生し、これらのこともあり、吉本興業が期待していた収益を上げることが出来ずに、苦しい団体運営を続けることになる。

アストレスの誕生[編集]

この苦しい状況を打破するために、「新世紀スター誕生 アクション・シンデレラ・ オーディション」を開催。オーディションに合格した際には、2年間限定でプロレスを行い、その後アクション女優として吉本興業がバックアップすると言う企画で、これが後のアストレス(アスリートとアクトレスを合わせた造語)となる(ただし、デビューして2年以上経過した現在でも、プロレスを続けている選手もおり、アクション女優として大成したレスラーもいないため、『アクション女優の育成』と言うテーマは成功したとは言い難いが、それまでのレスラー像と違う女子プロレス像を作ろうとしたことは一部では評価されている)。

Jd’からJDスターへ[編集]

苦しい経営が続く中、大手商社による資金面によるテコ入れ等もあったものの、女子プロレスブームも終焉を迎えていたこともあり、2003年3月吉本興業が資本撤退し、経営権をジェイオフィス・グループに譲渡し、同年4月に団体名を『JDスター女子プロレス』と変え、吉本はプロレス経営から退くことになる。

終焉[編集]

経営者は変わったものの、経営は苦しいことに変わりなく、2004年4月29日の後楽園大会の全試合後に団体としての活動停止とアストレスを中心とするプロモ-ション活動への移行を発表した。これに伴いザ・ブラディーファング鈴木らはフリーランサーユニットTeam OKを結成しJDスターから離れた。他団体の選手やフリーランスの選手を招き『格闘美』のタイトルで興行を行っていたが、当面のエースと目されていたアストレス2期生の東城えみが5月に退団した。9月に元所属選手を中心に実力派フリー選手に主眼を置いた『EXPERT』というタイトルの興行を開始し、格闘美と交互に興行したが、事実上失敗し格闘美に集約された。2005年9月23日、エースの桜花由美が新木場1stRINGで行われた「“息吹”第3回大会」において重傷を負った。同月、元AtoZ所属選手と高橋奈苗率いる「ドリームキャッチャー」が所属するKOプロダクションと業務提携を行うものの、わずか4か月で提携は解消。桜花は早期復帰を目指し手術を部分的に回避していたが、これがかえって災いし本格復帰はJDスターの活動休止後まで時間を要した。2006年、第1回LEAGUE PRINCESSを開催し、風香が優勝したが、第2回大会中の2007年5月20日に活動休止を発表、7月16日に最終興行を行った。

吉本興業のバックアップにより、旗揚げ前からのテレビ番組での番宣や、所属選手達の番組出演など、他団体に比べ恵まれた環境にあったが、団体を支えるべきスター選手が誕生しなかったことと、スタート時に全女を参考に団体運営を行ったため、地味な印象を与えたまま、最後までそれを払拭できなかったことが災いし、たとえ大手の芸能プロダクションがバックアップしても、それが成功するとは限らないと言う前例を作ってしまったことが悲劇とも言える。

LSDルール[編集]

Jd'より発祥した独自の試合ルール。LSDはロング・ストロング・ディスタンス(Long Strong Distance)の略。2000年にライオネス飛鳥が発案し、タイトルマッチなどで採用された。

試合時間は行われた年に連動して秒数を決め、2000年なら2000秒のLSD2000とした。

ルールはいわゆるアイアンマン・マッチとほぼ同じ。時間内にフォール、ギブアップを多く取った方が勝利となる。

なお3人以上のシングルマッチはルールが変わり、最初にフォールを取った選手を暫定勝者としてフォールの度にその暫定勝者が変わって、時間切れを迎えた時点で勝者としていた。

タイトル[編集]

キャリア3年以の選手が対象。当初の王座名はJd'ジュニア王座だったが団体名の変更とともに王座名はJDスタージュニア王座に変更され、ほどなく封印。
QORはクイーン・オブ・ザ・リングの略。BSジャパンとのタイアップによる王座。

最終所属選手[編集]

風香

途中退団した選手[編集]

TSUNAMI

※女子総合格闘家の井上明子(引退)も「アストレス5期生」として在籍していたが、プロレスデビューすることなく退団した。

試合中継[編集]

GAORAプロレスKING」枠で放送していた。加えて以下の放送局でのレギュラー番組も放送されていた。

その他[編集]

Jd’時代、『お笑い王者決定戦』と云うタイトルで、リング上で芸人同士のトークバトルを行い、坂田利夫をコミッショナーとして、リットン調査団雨上がり決死隊が参加した。なお、この『お笑い王者決定戦』は、評判が良くなかったため、2回で終了しているが、この2回目にはモリマンが参加している。

Jd’時代のリングアナウンサーを高杉二郎(現高杉'Jay'二郎)が行っていた。

Jd’時代に行われたイベントで、当時まだ無名に近かった極楽とんぼの二人が司会を行っている。

元所属選手の東城えみバンビプロモーション元所属)がドレイク森松とのシングルで「負けたらアダルトビデオ出演」という条件の試合で敗北し、試合後そのまま撮影が行われた。会場(新木場1stRING)や撮影会社を巻き込んだスキャンダルとなったが、結局DVDは発売された。

脚注[編集]

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  1. ^ ロッシー小川『女子プロレス崩壊危機一髪』ぶんか社、1997年12月、p101-102。