経済物理学

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経済物理学(けいざいぶつりがく、英語:econophysics)は、経済現象を物理学的な手法・観点から解明することを目指す学問である。現在のところ、扱う対象としては、株式為替先物などの市場、企業間ネットワーク(例えば株の持ち合いなど)、個人・法人の所得などのような例がある。これらの対象を扱う理由は、大量のデータを用意でき、その結果、後に述べるようにベキ分布ファットテール)が観察しやすくなるからである。

大量の市場データを扱う試みはマーケットマイクロストラクチャーなどの分野で、すでに1980年代には始まっていた。1980年代半ばごろ、Yale大学経済学部の教授、浜田宏一と当時Yale大学の客員研究員だった高安秀樹が、なぜ、市場価格がランダムウォークになるのかという根本的な疑問に対し、エージェントモデルのアプローチを導入していた。物理学者が本格的に市場研究に乗り出したのは1990年代に入ってからである。1990年代には経済物理学という用語は、ユージン・スタンレー(H. Eugene Stanley)および、その大学院生たち、また、独立に高安秀樹(Hideki Takayasu)らにより提案された。その後、新たな統計物理学の応用研究として注目されるようになり、1995年カルカッタ統計物理学の会議で最初に用いられた。さらに1997年には、ブダペストで世界初の経済物理学の会議が行われた。

ここでは、特に経済物理学が市場をどのように扱うかについて述べる。

背景[編集]

従来の経済学による市場理論としては、一般均衡理論がある。これは消費者の効用関数・生産者の生産関数を所与とし、多市場の価格・需給量を同時決定するモデルであり、数学的にエレガントな構造をしている。しかし、動学的な理論ではなく、市場がどのように均衡に到達するか、あるいは市場は本当に均衡しているのか、という問題は扱いにくい。また、バブルやクラッシュといったダイナミカルな現象を統一的な視点から理解するモデルの構築が求められていた

初期の金融工学では、原資産の価格変化率の分布が対数正規分布に従い、裁定機会が存在しないなどの仮定の上で、オプションの理論価格を導くことができた(ブラック・ショールズ方程式)。あくまで、数学的に扱いやすいから正規分布としている。この段階での金融工学の理論は、時間が明示的に入っているため動学的ではあるが、実際の価格変化率の分布は正規分布ではなくパレート分布(ベキ分布)に従うため、現実的なモデルとはなっていない。金融工学は、その後、ARCHGARCHモデルのように、価格変化率の標準偏差の時間変動を取り入れ、ベキ分布、ボラティリティ・クラスタリングを再現する方向へと発展していく。ただし、なぜそうした分布に従うのかといった疑問に答えるのが経済物理学の狙いである。

価格変化率の分布がなぜパレート分布(ベキ分布)に従うのかということの理解は重要である。なぜなら、大きな価格変動は暴落・暴騰を意味するので、それが正規分布の予言よりも多いということは、それだけ市場が不安定な存在であることを意味するからである。また、オプションの理論価格は、価格変化率の分布と関係があることが分かっているので、オプションの価格理論にとっても重要である。

では、ベキ分布は一般にどのような状況で出現するのだろうか。また、物理学的な手法によってベキ分布はどのように理解されているのだろうか。

手法[編集]

経済物理学では、主に統計物理学的な手法を用いて経済を研究する。時には、流体力学量子力学的な手法を用いることもある。

統計物理学で重要な概念の一つが相転移である。相転移が起きる前後では、比熱などの物理量がベキ分布に従うことが多い。このことは、相転移の前後では典型的なスケールが存在しないということを意味している(スケールフリー)。

市場にもバブル・暴落相とフラット相(平穏な状態)の2つの相があり、その相の間を転移することで、ベキ分布が生じるというのが、経済物理学の典型的な考え方である。極端な例だが、第2次世界大戦後のハンガリーでは、指数関数の肩に時間の指数関数がのるほどの猛烈なインフレーションが起きた。その結果、16年間で貨幣価値が1垓3000京分の1になったという。普通のインフレーションでは貨幣価値は時間の指数関数程度に大きくなるから、ハンガリーの指数関数よりずっとはやく発散するインフレーションは明らかに異常なインフレーションであり、相が異なると考えるのが合理的である。あたかも磁気相転移のように、投資家の思考が一方向にそろってしまうためにバブル・暴落相が出現するのである。もっとも、最近の研究では、価格変化率がベキ分布に従うのは、投資家の意思決定に関する相転移というよりも市場メカニズムそのものに内在する理由からであることが分かっている。詳細はファットテールを参照。このように、相転移という概念は、物理現象だけでなく、経済現象を捉えるのにも役立つと考えられている。

さらに、経済物理学では、相転移だけでなく、複雑系を理解するためのキーワードである、フラクタル自己組織化ネットワークカオスなどの概念を用いて、市場を理解しようとしている。

批判とそれに対する反応[編集]

経済物理学は新しい学問領域であるが、その対象は決して新しくはない。さらに使われている手法も物理学では当然のものであり、新たな手法が登場するには至っていなかったが近年は、経済物理学から物理学に対しても示唆的な成果が生み出されるようになってきている。したがって、市場を伝統的な手法で研究している経済学者や、主流派の物理学者から様々な批判がなされている。例えば[要出典]

  • なぜ物理学者があえて経済を研究するのか? 経済学者が行う研究とどのように差別化するか?
  • 経済学には、事実解明的分析規範的分析の2種類の分析手法がある。経済物理学の知見は、事実解明的分析には役立つかもしれないが、社会の規範を作ったり、政治的な判断を要したりする場面で利用することができるのか?

以上のような批判に対して[要出典]

  • 経済現象の中に物質の世界にも共通する普遍的なメカニズムがあることを物理学者は期待している。例えば、市場の価格変動のランダムウォークとコロイド粒子のランダムウォークはどこが同じでどこが違うのか、を明確にすることで、安定していた市場が急に暴騰や暴落を起こすメカニズムを解明し、さらには、不安定化する前兆を見いだして市場を安定に制御するようなこともできるようになるのではないかと期待している。また、相転移のような概念やその周辺の解析手法は物理学独自のものであるが、社会や経済の現象を理解する上で基本的で重要であると考えられる。従来の統計物理学は、個性のない粒子がアボガドロ数程度ある物質の現象を対象としてきたが、同一ではない粒子が中程度の数(例えば、100万個)だけあるようなメソスコピックの現象の研究が生命科学などとも関連して重要になってきている。一人一人が独自の判断を持って行動する経済現象において、マクロ的に見ると普遍的な特性が現われることをきちんと導くことができれば、物理学の適用範囲をさらに広げ、物質だけでなく、人間集団にも適用できることになる。
  • 物理学的手法では、確かに事実解明的分析が主になるだろう。事実解明ができれば、そこからモデルを構築し、シミュレーションなどを通して、現象の予測をすることができるようになる。その応用としては、例えば、市場取引のルールを変更すると、その結果どのようなことが起こるのかをシミュレーションによって十分に検討し、問題がないと判断した上で、実際にルール変更をする、というような流れが考えられる。そのレベルにまで学問的に発展すれば、規範的分析にも影響を及ぼすものと期待される。社会の規範がどのように社会を変えるかをシミュレーションで検証して、実際に導入するかどうかを判断するという全く新しい規範に関する議論が展開できる。

関連項目[編集]

脚注[編集]

関連文献[編集]

  • ロザリオ・ヌンジオ・モンテグナ、H.ユジーン・スタンリー著、中嶋眞澄訳、『経済物理学入門 -ファイナンスにおける相関と複雑性』エコノミスト社、2000年 ISBN 9784873151014
一般向け。
  • ディディエ ソネット著, 森谷 博之 訳『入門 経済物理学―暴落はなぜ起こるのか?』PHP研究所、2004年 ISBN 4569634141

参考文献が豊富。統計物理を知っていたほうが読みやすい。

  • 家富洋,池田裕一,相馬亘,藤原義久 著 『パレート・ファームズ -企業の興亡とつながりの科学』日本経済評論社、2007年 ISBN 4818819506
一般向け。
  • 杉原 正顯、 高安 美佐子、和泉 潔、佐々木 顕、杉山 雄規

「岩波講座 計算科学第6巻 計算と社会」  岩波書店 2012年6月 ISBN-10: 4000113062

  • 高安美佐子編著

「ソーシャルメディアの経済物理学 ウェブから読み解く人間行動」日本評論社 2012年8月 ISBN 9784535556782

一般向け。
  • 増川 純一, 水野 貴之, 村井 浄信, 尹 煕元

「株価の経済物理学」 ISBN-10: 4563062030


外部リンク[編集]