楠孝志

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楠孝志
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 北海道沙流郡平取町
生年月日 (1947-02-25) 1947年2月25日(77歳)
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会(JRA)
所属厩舎 阪神栗東橋田俊三(1969 - 1979)
栗東・荻野光男(1979 - 1987)
栗東・諏訪佐市(1987 - 1989)
栗東・橋田満(1989 - 1993)
初免許年 1969年3月1日
免許区分 平地(初期には障害免許も保持)
騎手引退日 1993年2月27日
重賞勝利 5勝
G1級勝利 1勝
通算勝利 3486戦302勝
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楠 孝志(くすのき たかし、1947年2月25日 - )は、北海道沙流郡平取町出身の元騎手調教助手

経歴[編集]

1969年3月に騎手免許を取得し、同期の須貝四郎と共に阪神橋田俊三厩舎からデビュー。須貝以外の同期には田村正光上野(伊藤)清章内田国夫中島敏文西浦勝一がいる。初騎乗は同1日中京第1競走4歳未勝利・マツヤイチ(17頭中11着)、初勝利は同23日の阪神第7競走5歳以上障害・ミスコマツであった。

1年目は26勝(平地23勝, 障害3勝)を挙げて中央競馬関西放送記者クラブ賞を受賞し、2年目の1970年には俳優津川雅彦が本名の「加藤雅彦」名義で所有していたアリオーンで博多ステークス(第6回金鯱賞)を制して重賞初制覇。

1973年からは平地の騎乗に専念し、1975年にはキヨリューズキで中京記念ナオキの3着に入った後、続く小倉大賞典も3着、暮れのCBC賞では2着に入る。

1976年から1980年には5年連続で2桁勝利を挙げ、1976年2月8日京都第5競走4歳新馬・テマリーで通算100勝を達成。

1977年には小倉記念をベルで制して7年ぶりの重賞制覇を成し遂げ、秋には朝日チャレンジカップで後に天皇賞(秋)を制すホクトボーイの3着に入る。京都大賞典では道中で杉本清(当時・関西テレビアナウンサー)に「果たして、小倉のように、高らかにそのベルの音を鳴らすことができるか!」と実況されたが、有馬記念の壮行レースで63kgを背負ったテンポイントから遥か後方に離されながらも、5着と掲示板は何とか確保。ホクトボーイや1975年のビクトリアカップ優勝馬ヒダロマン、ヤマニンバリメラには先着できた。

1979年には師匠・橋田の死去により、荻野光男厩舎に移籍。橋田の長男である橋田満は、諏訪佐市厩舎に移るまでの1年間、橋田が調教内容を記したノートを参考に、楠や久保正樹調教助手らと相談しながら厩舎を運営した[1]。楠は同年に自己最多の29勝(全国21位)をマークし、同年の阪神牝馬特別ではシャークテイムでオークスアグネスレディーを抑えて2着に入る。1980年には中京で行われた京都記念(春)リュウキコウハシコトブキを抑えて3着、夏の函館記念では後に天皇賞(秋)を制すキョウエイプロミスプリテイキャストダービーラッキールーラを抑えて2着に入る。夏の函館では二分久男厩舎のシンピローを13頭中11番人気ながら函館3歳ステークス制覇に導き、3年ぶりの重賞勝利を収める。11月22日京都第11競走高雄特別・クニノエースで200勝を達成。

1984年には4年ぶりの2桁勝利となる14勝、3年後の1987年には諏訪佐市厩舎に移籍して12勝を挙げる。

1989年には橋田満厩舎に移籍し、1990年にはパッシングショットCBC賞を制し10年ぶりの重賞勝ち[2]。続く高松宮杯は10着に敗れ、秋初戦のスワンステークスは逃げたナルシスノワールを捕らえ切れず2着に終わる[2]マイルチャンピオンシップは圧倒的人気のバンブーメモリーをCBC賞で破っている実績を有しているにもかかわらず10番人気という低評価であったが、レースではスタートで出遅れながらも直線でそれを挽回する末脚を繰り出し、最後はバンブーメモリーを差し切って初のGI制覇を果たした[3][2][4]。管理調教師の橋田と共にGI初制覇を成し遂げたが、楠にとって最後の重賞制覇となった。スプリンターズステークスではバンブーメモリーと共に単枠指定され、小差の2番人気で迎えた[4][5]。しかし、当日はパドック周回の段階で落ち着きがなく、ゲートイン直前には放馬、そしてスタートで再び大きく出遅れ、前半3ハロン32秒4というハイペースのレースでバンブーメモリーが当時の日本レコードで快勝した後方で8着に終わった[4] [3] [6]

1991年は中京で行われた報知杯4歳牝馬特別岡潤一郎から乗り替わりのトーワディステニーに騎乗し、イソノルーブルの2着に入って桜花賞本番に駒を進めた。京都4歳特別ではタイコンチェルトで2着に入り、東京優駿本番では20頭中11番人気ながら、皐月賞2着馬シャコーグレイドに先着の7着と健闘。12月14日の中京第8競走4歳以上500万下・イナドタイガーで300勝を達成。

1992年2月22日の小倉第6競走4歳以上500万下・ウィンザーモレノ、第10競走小石原特別・ブームレットで勝ち、1988年7月23日札幌以来3年半ぶりの1日2勝を挙げたが、この年はその日以降勝ち星を挙げることはなかった。

1993年1月31日の小倉第5競走4歳新馬・パラディスバンブーが最後の勝利となり、2月27日に現役を引退。当日は小倉で3鞍に騎乗し、第3競走4歳未勝利で10頭中10番人気のスプリングスズカで2着に入って波乱を演出。第12競走4歳以上500万下・エイユーランサーが最終騎乗となった(12頭中4着)。

引退後は橋田厩舎の調教助手に転じ、サイレンススズカを手がけた。

騎手通算成績[編集]

通算成績 1着 2着 3着 4着以下 騎乗回数 勝率 連対率
平地 299 346 360 2462 3467 .086 .186
障害 3 3 3 10 19 .158 .316
302 349 363 2472 3486 .087 .187

主な騎乗馬[編集]

太字はGIレース。

その他

脚注[編集]

  1. ^ 優駿』2023年4月号、中央競馬ピーアール・センター、B0BY9PYGX8、2023年3月25日、pp73-74。
  2. ^ a b c パッシングショット 低評価を跳ね返す鮮やかな直線一気 1990年”. マイルチャンピオンシップ 歴代優勝馬ピックアップ. JRA-VAN. 2020年3月7日閲覧。
  3. ^ a b パッシングショット”. 競走馬のふるさと案内所. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年10月23日閲覧。
  4. ^ a b c 齋藤俊介「【名馬列伝】ワールドクラスの強さ見せたバンブーメモリー/90年スプリンターズS」”. uma-jin.net. Neo Sports Co., Ltd. (2011年9月27日). 2020年3月7日閲覧。
  5. ^ 『中央競馬全重賞競走成績集 GI編』日本中央競馬会、1996年、p1003
  6. ^ パッシングショット 競走成績”. JBISサーチ. 公益社団法人日本軽種馬協会. 2019年10月23日閲覧。

関連項目[編集]