吉田初三郎
| 吉田初三郎 | |
|---|---|
| 生誕 | 1884年3月4日 |
| 死没 | 1955年8月16日(満71歳没) |
吉田 初三郎(よしだ はつさぶろう、1884年3月4日 - 1955年8月16日)は大正から昭和にかけて活躍した鳥瞰図絵師。生涯において3000点以上の鳥瞰図を作成し、「大正広重」と呼ばれた。
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[編集] 来歴・人物
京都生まれ。元の姓は泉で、1歳の時に父親が亡くなったため母方の姓を名乗る。10歳で友禅図案師に丁稚奉公する。25歳のとき鹿子木孟郎に師事して洋画を学ぶが、鹿子木のすすめで商業美術に転向する。
1914年、最初の鳥瞰図である『京阪電車御案内』が、修学旅行で京阪電車に乗られた皇太子時代の昭和天皇の賞賛を受ける。
大正から昭和にかけて日本の観光ブームによって初三郎の鳥瞰図の人気は高まり、大正名所図絵社(のち観光社と改称)を設立する。その顧客は国内の交通行政を所轄し、観光事業にも強い影響力を持っていた鉄道省[1]を筆頭に、鉄道会社やバス会社、船会社といった各地の交通事業者、旅館やホテル、地方自治体、それに新聞社などであった。
この時代、全国(満州や台湾を含む)から鳥瞰図製作の依頼が殺到し、初三郎は犬山市や八戸市(種差海岸)など、拠点を移しながら、多くの弟子とともに製作に当たっている。珍しいものとしては、幻に終わった東京万博の会場図を描いている。
高松宮宣仁親王など皇族や松井石根など軍人との交友も広く、驚異的なペースで依頼を受け、鳥瞰図を製作し続けた。しかし、第二次世界大戦が進む中、初三郎式鳥瞰図は港湾等の軍事機密が見て取れ、地政学上好ましくないという軍部の判断の下、不遇の時代を送る。
戦後、初三郎が最初の大きな仕事として引き受けたのは、広島原爆の被害を鳥瞰図にする仕事だった。知遇を得た昭和天皇と、日本を愛し、戦争に踊らされた初三郎は、渾身の図をまとめ、世を去ることとなる。
死後は忘れられていたが、1999年、堺市博物館で大規模な回顧展が開かれたのを契機として各地の博物館で展覧会が開かれ、再評価されるようになった。
[編集] 作風
現在の鳥瞰図の手法は平行透視図法が主流であるが、初三郎は「初三郎式絵図」と呼ばれる独自の作風を確立していた。その特徴は、見えないはずの富士山やハワイが描かれているなど、大胆なデフォルメや遊び心にある。
[編集] 創作手法
初三郎と同時代には彼の作品を模した鳥瞰図作家が多数いたが、初三郎作品との決定的な違いがあった。それは鳥瞰図製作の際に、該当地の風土や歴史を事前に調査し、さらに現地に入って踏査写生および取材を行ったことである。全国各地で現在有名になっている観光名所、景勝地には彼が踏査取材中に見いだし作品中で発表した所も少なくない。九州でいえば、菊池渓谷(昭和6年・作品発表時は菊池水源地、初三郎は「絵に添えて一筆」の中でこの渓谷美を観光地化することを提唱)、久住高原(大正13年、飯田高原の朝日長者伝説にちなみ飯田高原を「長者が原」と命名)など列挙にいとまがない。
また戦後の代表作「HIROSHIMA」では、原爆投下後まもない広島市へ入り、5ヶ月におよぶ取材で被爆者300余名からの証言を得て、原爆八連図とよばれる作品に仕上げた。原爆投下の瞬間を描いた作品は、被爆者の証言のリアルさが全面に出たものである。関東大震災の鳥瞰図と合わせて、初三郎と彼の鳥瞰図のジャーナリズム性がわかる。