ホコトン

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ホコトンとは、明治大正期の日本の流行語[1][2][3]矛盾(むじゅん)や間違っていることを意味する[4][5]衆議院本会議で議員の長谷川泰が矛盾をホコトンと発音したことから流行し[6][2][3]辞典類に掲載された[1][6][5]無知による誤読と言及されることが多いが[7][8]ユーモアとして故意に奇妙な発音をしたものと推測されている[9][10][8]。実際の用例は長谷川以前から存在する(後述)。

由来[編集]

長谷川泰

1892年(明治25年)5月31日、第3回帝国議会衆議院本会議で震災予防調査会の設置予算が審議された際、医学者教育者でもあった衆議院議員長谷川泰が質問に立って以下のように発言した[11]

○長谷川泰君(百七十二番) 先だって予算委員会のおり政府委員と予算委員との問答を見ますると、 [中略] 少し「ほことん」して居るようでありますが、 [中略] 渡辺君の言われるのとは「ほことん」する(笑声起こる)ようでありますが、 [中略] どうも趣意が「ほことん」致しますから(笑声起こる)(佐々木正蔵君「ほことん」とは何の事だ)「ほことん」と云うのは矛盾だ(笑声起こる) [中略] 願わくはお答えあらんことを希望致します
〔政府委員文部次官辻新次君演壇に登る〕
○政府委員(辻新次君) 百七十二番のお問いに対してお答え致します、ご演説中だいぶ笑声がありましたからして聞き漏らしてあるかも知れませぬ、しかし本官の思います所を述べましたならば、 [以下略] — 衆議院議事録、1892年(明治25年)5月31日[11][注釈 1]

この発言は笑いを呼び[12][6][8][3]、翌日の新聞各紙の議会報告でも取り上げられた[13][14][15][16][17][18][19][20][21]

長谷川が「ホコトン」と発言するのはこの時が最初ではなく、1891年(明治24年)12月の衆議院予算委員会で既に「ホコトン」と言っていた[22]

○(長谷川泰君) ただ今政府委員は、高等師範学校では教育学倫理学を教える、大学では往かぬと云うが、 [中略] かつ政府委員が申されました通りに、尋常師範学校の教員や、尋常中学校の教員を別に製造しなければならぬと云う事ならば、 [中略] それは大きにほことん(矛盾)しようと考える、[以下略] — 衆議院予算委員会議事録、1891年(明治24年)12月10日[22][注釈 1]

また長谷川は、その後の衆議院本会議[23][24]や予算委員会[25][26]、そして議会外での演説[27][28][29]でも、複数回「ホコトン」と言っている。

○主査(長谷川泰君) それをお入れになりましょう、 [中略] そうしますると [中略] 今の医学大学にある緒方教室はお廃しになるお考えでござりましょう、 [中略] そうせぬとホコトンになるでしょう、同じものを二つ用いると云うことになるから — 衆議院予算委員会議事録、1892年(明治25年)12月9日[25][注釈 1]
○長谷川泰君(四十三番) ちょっとこの札幌農学校の事に就きまして政府委員にお尋ね致します [中略] 農学校と云う名義の下に士官学校とする必要があると云う勅令を発せられて見ると、甚だホコトンして居りまするように考えますが、その辺に就いては如何の訳でありますかお答えあらんことを望みまするであります — 衆議院議事録、1892年(明治25年)12月19日[23][注釈 1]
○長谷川泰君(四十三番) 諸君、本員は昨日 [中略] 教育事務に関係を致しましたる質問を提出致しましたのであります、 [中略] 薩長人の学校は政府で保護する、人民の建ったものは撲滅を謀ると云うは、実にホコトンも甚だしいではありませぬか、(笑声起こる)なぜこの如くナポレオン第一世的の方針を教育に用いますか、 [中略] 現在の小学令に依りますと云うと、この小学教育なるものは即ち社会人民のある一部のみに行う所の法律でありまして、 [中略] 国家教育とホコトンする所がある、即ち貴族的小学教育でありまする、政府は何をもってかくの如く貴族的小学のみこれ行うのでありましょうか、 [以下略] — 衆議院議事録、1892年(明治25年)12月23日[24][注釈 1]
われわれ日進医学[注釈 2]が進んだならば漢方医学は不用である、早く消すがよろしいのであります、[中略] さてかくの如き有様なるにも拘わらず、或いは権力を政事にかりて学問社会を蹂躙するなどと申しますが、[中略] これは前に金杉君が言われた如く矛盾ホコトンも甚だしきものであります [以下略] — 長谷川泰漢方医継続に就て』
1893年(明治26年)1月28日、大日本私立衛生会での演説[27][注釈 3]
もし末松博士の言われました如く、伝染病研究所を置くことが出来ぬと云うことならば、 [中略] また高木君東京病院も放逐しなければならぬ訳であるが、待てしばし、その院長は薩州本場、天下の大権を握っている薩長政府の正四位勲二等医学博士高木兼寛君である、薩人は風なり人民は草なり、ドウも北里の方は熊本人、勢力が少ないからこれをマア放逐しようではないかと云うことであるかも知れない(拍手大喝采)果たしてしからば実に矛盾ホコトンもまた甚だしいと云わねばならぬ[30]
[中略] ソコでここに一ツ矛盾ホコトンのことがあります(笑声起こる)なぜかと云うに私が先刻から述べました如く、私の申し上げたようなことは、末松君がご承知のない訳はない[31]
[中略] 内閣諸公は何をもって、かかる芝区の議論、すなわち事実と大層開きのあります所の——実際矛盾ホコトンなる所の——我が帝国を真ッ暗にする所の説を聴かんとするか[32] [以下略] — 長谷川泰『伝染病研究所市内に置くも妨げなし』
1893年(明治26年)5月21日、大日本私立衛生会での演説[28][注釈 3]
一方においては文明国の真似をして憲法政治を施し、一方においては野蛮国の真似をして伝染病を度外視しておくというのは、ホコトンではありませぬか[33]
[中略] いやしくも文明政治の真似をして立憲政体であると云うならば、ホコトンしないように人命財産を保護し伝染病に対する衛生事務を拡張するがよろしい、すなわち立憲政治を正当にやればよろしい[34] [以下略] — 長谷川泰『在朝及び在野の政事家は何を以て赤痢の流行を度外視するか』
1893年(明治26年)9月30日、大日本私立衛生会での演説[29][注釈 3]
○(長谷川泰君) 本員はこの十一項を削除すると云う説を提出致します、一体政府委員の述べたことは間違っているのでござります、内務省が所謂方針とホコトンしているのでござります(笑声起こる)[35] [以下略]
○(長谷川泰君) ただいま政府委員も述べられまして目黒君もご意見を述べられましてございますが、[中略] 左様な理由はない自家ホコトン極まる道理と思います[36] — 衆議院予算委員会議事録、1894年(明治27年)5月26日[26][注釈 1]

1895年(明治28年)2月発行の速記者向け雑誌『速記彙報』第58号には、当時の国会議員たちの口癖や言い間違いや訛りを集めた一覧表「帝国議会特別語彙」[37]が掲載されており、その中に長谷川の「ホコトン」も採録されている。

  〔は〕
バカヤロオ   長谷川泰 田中正造
はんたあい(反対)   尾崎三良
  〔ほ〕
ほろいち(古市)   千家尊福
ぼくきょ(枚挙)[注釈 4]   松方正義
ホコトン   長谷川泰
ほせん(帆船   原忠順
— 「帝国議会特別語彙」より抜粋、『速記彙報』第58号、1895年(明治28年)2月[37][注釈 5]

流行[編集]

やがて「ホコトン」は広く知られた流行語となった[38][1][6][2][3]。教育者の安達常正は、1909年(明治42年)に著書で次のように述べている。

某代議士は「矛盾」を「ホコトン」と言ったのはすこぶる有名のものとなって、今日にては普通にそう言わねばならぬ位になっている。 — 安達常正『漢字の研究』、1909年(明治42年)[39][注釈 3]

1911年(明治44年)に詩人の大町桂月と国文学者の佐伯常麿が出版した『誤用便覧』という書籍では、「ホコトン」という読みが広まっていることを嘆いている。

矛盾ムジュン
自らいうことの前後合わぬを矛盾○○といい、ムジュンと読むのである。 [中略] さる紳士が之をホコトンと読んだとかで一時世の笑柄となったが、今やそれが殆んど一つの通語となったような観あるは、苦々しい次第である。 — 大町桂月佐伯常麿『誤用便覧 机上宝典』、1911年(明治44年)[40][注釈 5]

同じく1911年に漢学者松平康國(松平破天荒斎)が出版した『韓非子』の解説書は、「矛盾」という語の由来となった部分の注釈で「ホコトン」についても言及している。

矛盾の喩は尤も妙、今尚お俗語となって普通に用いらる、ホコトンの如きは笑柄とし人の善く知る所なり﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅﹅ — 松平破天荒斎韓非子国字解』、1911年(明治44年)[41][注釈 5]

「ホコトン」は通常の国語辞典俗語隠語・流行語・新語辞典などに採録された[1][6][5]。各種辞書類での掲載例を以下に示す。

ほことん) 或人矛楯の文字をホコトンと読み誤りたるより起る。〔一〕物知らぬより出でたる誤り。〔二〕滑稽嘲罵の語気にて云う時矛楯むじゅんの意。 — 大和田建樹編『日本大辞典』、1896年(明治29年)[42][注釈 5]
ほことん 矛盾(大学者議員の発明語) — 滑稽新聞記者編『日本滑稽辞林』、1903年(明治36年)[43][注釈 5]
ほこ-とん[矛盾](名)《衆議院議員某が誤り読みたるに出ず》「むじゅん」に同じ。 — 金沢庄三郎編『辞林』、1907年(明治40年)[44][注釈 5]
ほことん 【矛盾】(名)「むじゅん」を看よ。 — 志田義秀佐伯常麿編『日本類語大辞典』、1909年(明治42年)[45][注釈 5]
【ホコトン】 無学なる国会議員の矛盾ムジュンをかく誤読せしより起りし語。 — 藤井乙男編『諺語大辞典』、1910年(明治43年)[46][注釈 5]
スラング (Slang) 不純粋なる語の一種。訛語・俚語・濫造語・隠語等、或いは堕落し、或いは横ぞれしたる品位なき語をいう。不孝フキョウ勘当の意)・無用(禁止)・タニまる(きわまる)・茶まが)・つもごり)・ほことん矛盾)・土佐衛門・管まく・くたばる・へこたれる・しらめたる(調べ改める)・べね(べに)・きんにょう(昨日)・こっぱ(鰹節)・むすめ破り(土蔵破り)等これなり。修辞上純粋の点より見て濫用を戒むべきものとせらる。〔五十嵐 — 斎藤精輔編『日本百科大辞典 第5巻』、1911年(明治44年)[47][注釈 3]
ホコ-トン(矛盾) [名] ㊀「む-じゅん」を滑稽的に言う語。(俗) ㊁無学ゆえの間違い。(俗) — 芳賀矢一『新式辞典』、1912年(大正元年)[48][注釈 5]
【矛盾】ム・ジュン 矛と盾を商うもの、 [中略] と云う故事に出で転じて前後相撞着すること。あとさきの相違すること。韓非子に出ず。近世「ホコ・トン」と読むは誤読。 — 上田万年ほか編『大字典』、1917年(大正6年)[49][注釈 3]
ほこ・とん〔矛盾〕 物の間違いたるを云う。衆議院議員某が、むじゅんと読むべきを、ほことんと読み誤りたる笑柄しょうへいより出ず。 — 小峰大羽編『東京語辞典』、1917年(大正6年)[50][注釈 5]
ホコトン 「矛盾」を読み誤って、しかも、ある代議士が帝国議会で、ホコトンと読みたるより出た語。「矛盾」と同義。 — 下中芳岳や、此は便利だ ポケット顧問』、1919年(大正8年)[51][注釈 3]
ほこ-とん 矛盾(名) むじゅん(矛盾)の誤読。 — 松井簡治上田万年編『大日本国語辞典 第四巻』、1929年(昭和4年)[52][注釈 5]
ほこ-とん (名) |矛盾|矛楯| むじュん(矛盾)ノ誤読。其條ヲ見ヨ。 — 大槻文彦大言海』、1935年(昭和10年)[53][注釈 5]
ほことん 〔矛盾〕 まちがい。〔←衆議院議員某が「むじゅん」を「ほことん」と読み誤ったことから〕(俗語)[大] — 楳垣実編『隠語辞典』、1956年(昭和31年)[54]
ホコトン もののまちがっていること。衆議院議員が矛盾という字をホコトンとよんで以来、つかわれた。 — 正岡容『明治東京風俗語事典』、2001年(平成13年)、初出1957年(昭和32年)[55]

「ホコトン」は子ども向けの辞典にも掲載された。

【ほことん】 矛盾むじゅん姓読しょうよ衆議院議員しゅうぎいんぎいん何某なにがしがこれをほことん﹅﹅﹅﹅誤読ごどくしたので、それから一般いっぱん洒落しゃれもちいられるようになった。「そんなほことん﹅﹅﹅﹅はなしがあるもんか」など。 — 金子彦二郎編『現代常識語辞典』〈少年少女常識叢書〉、1925年(大正14年)[56][注釈 5]
〔矛盾〕ムジュン ほことたて、言うことのつじつまがあわぬこと。ほことん。 — 吉田武編『全科小学生辞典』、1934年(昭和9年)[57][注釈 5]

また和英辞典や日中辞典にも採録された。

⦅矛盾⦆(ホコトン)(名)矛盾ムジュン之訛。矛盾也。 — 『東中大辞典』作新社(上海)、1908年(戊申年)[58]
Hokoton 〔矛盾〕 矛盾 mao2-hsün1. — 石山福治編『日支大辞彙』、1917年(大正6年)[59]
Hokoton (矛盾の滑稽読み)【Inconsistent; self-contradictory. — 斎藤秀三郎『斎藤和英大辞典』、1928年(昭和3年)[60][注釈 5]
ほことん【矛盾】(名)[俗]=むじゅん。 — 陳濤ほか編『日漢辞典 商務印書館版・縮刷版』、1959年[61]

近年の辞典でも、例えば2001年(平成13年)出版の日本国語大辞典第二版には「ほことん」が掲載されている[4]

誤読か故意か[編集]

長谷川泰の「ホコトン」発言は、世間一般には無知による読み間違いだと受け止められ[38][7][10][2]、辞書類での語源説明(例えば[42][44][46][50][56][4]など)でも誤読だとされている[7][10][2]。また、いわゆる百姓読みの例としても言及されている[62][63]。しかし惣郷正明・水野雅央・高島俊男は、長谷川が正しい読み方を知った上でユーモアとして故意におかしな読み方をして見せたのだろうと推測している[9][10][2]。故意だとする根拠は以下の通りである。

  • 長谷川は無学な人間ではなくむしろ博学で[9][64]漢籍にも通じていたこと[64]
  • 同時に長谷川は奇行でも知られたこと[9][64]
  • 」の音読みには呉音の「ジュン」と漢音の「トン」があるが[10][65]、よく知られた「ジュン」ではなく珍しい読みの「トン」を採用していること[10][65]
  • その一方で「」には訓読みの「ほこ」を当てており、「ホコトン」は湯桶読みのような不自然な読み方によって滑稽な響きとなっていること[10][8]
  • 長谷川が一回の発言の中で「ホコトン」という語を執拗に繰り返し[10][8]、「ホコトンとは何の事だ」という野次が飛ぶと即座に「ホコトンと云うのは矛盾だ」と言い返していること[8]

なお議会翌日の1892年(明治25年)6月1日に長谷川発言を報じた新聞記事の中にも、故意だと指摘するものがあった。読売新聞は「矛盾をことさらにホコトンと云うなり[14][注釈 5](現代語意訳: 矛盾をわざとホコトンと言った)「長谷川氏けだし『ホコトン』なる言語を発せんが為めにことさらに疑問なきに質問を起したるにあらざるなき[14][注釈 5](現代語意訳: 長谷川氏は、別に疑問もなかったのに「ホコトン」と言いたくて質問に立ったのだろう)と述べ、毎日新聞は「けだし君は博覧強記の人殊更ことさらに矛盾の語を洒落しゃれたる者ならん[18][注釈 5](現代語意訳: 長谷川君は博学な人だから、読み間違いではなく洒落で矛盾をホコトンと発音したのだろう)と推測していた。

長谷川以前の「ホコトン」[編集]

長谷川が衆議院本会議で「ホコトン」と発言して大きく報じられたのは1892年(明治25年)5月末以降であるが[11][14]上述したように長谷川は1891年(明治24年)12月の衆議院予算委員会でも既に「ホコトン」と言っていた[22]。また出版物には1890年(明治23年)頃から複数の用例が見受けられる。1892年5月以前の「ホコトン」の用例を以下に示す。

1890年(明治23年)8月11日付の読売新聞の「牛力議員」という記事[66][67]は、衆議院議員選挙に立候補したある政治家が、演説会で「鶏を裂くに牛刀を用いず」ということわざの「牛刀ぎゅうとう」を「牛力ぎゅうりょく」と言い間違えて笑われたという話を報じており、類似の前例として、「谷まるきわまる」を「たにまる」と読み間違えた県議会議員や「矛盾」を「ほことん」と読み間違えた県議会議員もいたと述べている[66][67]

1890年9月3日発行の少年雑誌『小国民』(石井研堂編集)第18号に掲載された「無学の議員」という文章も、「近日の新聞」に載っていた奇談として、誤読からあだ名をつけられた三人の県会議員「たにまる議員」「矛盾ほことん議員」「牛力議員」を紹介している[68]

同じく1890年9月3日発行の少年雑誌『少年園』(山縣悌三郎主幹)第45号に掲載された「議員の異名」という文章[69]では、初めて洋装をした際に襟を逆さまに着用してしまった「逆襟さかえり議員」、矛盾をホコトンと誤読した「ホコトン議員」、宴席でひょっとこ踊りを披露した「ヒョットコ議員」を紹介している[69]

1890年9月5日発行の雑誌『国本』第6号に掲載された「国会議員と新聞の材料」という文章は、新聞等で話題になった議員のあだ名として「逆襟議員」「ホコトン議員」「ギュウリョク議員」「タニマル議員」を挙げている[70]

1890年9月17日発行の雑誌『天則』第3巻第3号に掲載された「質朴なる議員」という文章は、世間で話題になった議員の失態として「矛盾ほことん牛力ぎゅうりき逆襟さかえり、ヒョットコ踊り」を挙げている。[71]

1890年11月22日発行の教育雑誌『教育報知』第243号に掲載された「あざな」と題する文章は、政治家のあだ名を多数紹介しており、伊藤博文の「憲法」、勝海舟の「氷川」などに続いて「ホコトン議員」「瓦斯燈議員」「倒襟議員」などを挙げている[72]

1891年(明治24年)4月1日に儒学者の近藤元粋が出版した書籍『普通教育 用文教科書』には、牛刀を牛力と言い間違えて「牛力議員」のあだ名を付けられた政治家が、さらに矛盾をホコトンと誤読して「矛盾ほことん議員」と呼ばれるようになったという話が掲載されている[73]

1891年6月10日発行の女性誌『婦女雑誌』第1巻第9号に掲載された「好笑」という文章は、誤字や誤読の例を多数挙げており、その中に「請願せいがんをコウガン」「牟盾むじゅん[注釈 6]をホコトン」などが出てくる[74]

1891年8月31日に出版された新聞記者・演説家の城山静一の講演録『米商会所演説筆記』には、「ホコトンヤレ〱」「此等のホコトンは」「是等の小ホコトンが」「忌わしき大ホコトンの[75]などと、ホコトンという語が繰り返し出てくる。

1892年(明治25年)4月2日発行の英学専門誌『日本英学新誌』第1号に掲載された「発音に就て」という文章は、我流の誤った英語発音というのは耳障りなものだと指摘し、日本の議員が矛盾をホコトンと読んだり日本の大臣が枚挙まいきょをボクキョ[注釈 4]と読んだりするのが耳障りであるのと同様だと述べている[86]

1892年4月15日発行の雑誌『葦分船』第10号には、「ほことん居士」というペンネームの人物による小噺「弁士の頓智」が掲載されている[87][注釈 7]

脚注[編集]

注釈[編集]

ソールズベリー侯爵
  1. ^ a b c d e f 引用に当たり、漢字カタカナ交じり文となっていた原文を漢字ひらがな交じり文に変更し、原文のひらがな部分はカタカナに置き換え、旧字旧かな遣い新字新かな遣いに改め、一部の難読漢字をひらがなに置き換えて送りがなを補った。文字強調は引用者。
  2. ^ 長谷川のいう「日進医学」とは西洋医学のこと。
  3. ^ a b c d e f g 引用に当たり、旧字旧かな遣いを新字新かな遣いに改め、一部の難読漢字をひらがなに置き換えて送りがなや読点を振り直した。文字強調は引用者。
  4. ^ a b ボクキョ[76][77][78][79]あるいは「ボッキョ[80][81][38][82]とは、松方正義による失言で[83][78][79][84]、演説原稿に出てきた「枚挙」(マイキョ)という単語の「」の字(木偏)を「」(牛偏に攵)に見間違え、「牧挙」という単語だと思い込んで読み上げたというものである[83][78][79][84]。この「ボクキョ」(ボッキョ)は、無知による誤読の例として、しばしば「ホコトン」と並んで言及された(ボクキョ/ボッキョとホコトンの両方に言及している文献は、例えば[76][85][80][77][81][79][38][84][82])。
  5. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 引用に当たり、旧字旧かな遣いを新字新かな遣いに改めた。
  6. ^ 「牟盾」は原文ママで正しくは「矛盾」。
  7. ^ 『葦分船』第10号掲載の小噺「弁士の頓智」[87]の内容は、政治演説会で弁士が演説中にイギリスの首相の名前を「ハイスベリー」と言い間違えて聴衆に笑われ、「あの首相はハゲで有名だから私はわざとそう言ったのだ」と主張して取り繕ったというものである。本文に明記されていない部分を補足すると、当時(1892年4月)のイギリス首相ソールズベリー侯爵[88](明治時代のカタカナ転写では「サリスベリー[89][90])であった。また「はいすべり」あるいは「はえすべり」(漢字表記は「蠅滑」・「蠅辷」)とは、頭にとまろうとしたが滑ってとまれないという意味で、「ハゲ頭」のことを指す[91][92][93]

出典[編集]

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  93. ^ コトバンク.

参考文献[編集]

議事録・講演録・新聞・雑誌[編集]

長谷川発言[編集]

  • 第2回帝国議会 衆議院 予算委員会 第26号 明治24年12月10日」(PDF)『帝国議会会議録』1891年(明治24年)12月10日、3頁。 
  • 第3回帝国議会 衆議院 本会議 第15号 明治25年5月31日」(PDF)『帝国議会会議録』1892年(明治25年)5月31日、7頁。 
  • 第4回帝国議会 衆議院 予算委員会 第18号 明治25年12月9日」(PDF)『帝国議会会議録』1892年(明治25年)12月9日、4頁。 
  • 第4回帝国議会 衆議院 本会議 第16号 明治25年12月19日」(PDF)『帝国議会会議録』1892年(明治25年)12月19日、9-10頁。 
  • 第4回帝国議会 衆議院 本会議 第20号 明治25年12月23日」(PDF)『帝国議会会議録』1892年(明治25年)12月23日、2-4頁。 
  • 第6回帝国議会 衆議院 予算委員会総会 第4号 明治27年5月26日」(PDF)『帝国議会会議録』1894年(明治27年)5月26日、12, 36頁。 
  • 「長谷川泰氏」『東京日日新聞』、1892年(明治25年)6月1日、3面。(毎日新聞社データベース『毎索』にて閲覧)
  • 「満場願を解く」『東京朝日新聞』、1892年(明治25年)6月1日、1面。(朝日新聞社データベース『朝日新聞クロスサーチ』にて閲覧)
  • 「長谷川氏しきりに『ホコトン』を疑う」『読売新聞』、1892年(明治25年)6月1日、2面。(読売新聞社データベース『ヨミダス』にて閲覧)
  • 「就中」『郵便報知新聞』、1892年(明治25年)6月1日、2面。(復刻版: 『郵便報知新聞』第75巻、柏書房、1993年、154頁。ISBN 4-7601-0960-9
  • 「ホコトン也」『毎日新聞』、1892年(明治25年)6月1日、5面。(復刻版: 『毎日新聞』第70巻、不二出版、1994年、321頁。NCID AN10406224
  • 「ホコトン〱」『時事新報』、1892年(明治25年)6月1日、7面。(復刻版: 『時事新報(明治前期編)』第11巻-(3)、龍溪書舎、1988年(昭和63年)、253頁。NCID BA59516132
  • 「昨日の衆議院」『都新聞』、1892年(明治25年)6月1日、2面。(復刻版: 『都新聞 復刻版 明治二十五年①』、柏書房、2000年(平成12年)、158頁。ISBN 4-7601-1866-7NCID BC13014028
  • 「議事進行」『日本』、1892年(明治25年)6月1日、附録35。(復刻版: 『日本』第11巻、ゆまに書房、1988年(昭和63年)、177頁。NCID BN02593521
  • 「長谷川泰進退たにまる」『中央新聞』、1892年(明治25年)6月1日、2面。国立国会図書館書誌ID:000000105679
  • 長谷川泰(述)『漢方医継続ニ就テ 明治廿六年一月廿八日東京厚生館ニ於ケル大日本私立衛生会月次常会演説』柳下釧之助(筆記・発行)、1893年(明治26年)3月11日、6頁。doi:10.11501/833183 オンライン版、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 長谷川泰(述)『伝染病研究所ハ市内ニ置クモ妨ゲナシ 明治廿六年五月廿一日大日本私立衛生会臨時会ニ於テ』柳下釧之助(筆記・発行)、1893年(明治26年)6月11日、54-55, 59, 66頁。doi:10.11501/835317 オンライン版54-55頁59頁66頁、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 長谷川泰(述)『在朝及在野の政事家は何を以て赤痢の流行を度外視するか 明治廿六年九月三十日大日本私立衛生会常会ニ於テ』依田恭助(筆記・発行)、1894年(明治27年)3月24日、26, 31-32頁。doi:10.11501/835251 オンライン版26頁31頁、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 測奇生「帝国議会特別語彙」『速記彙報』第58号、1895年(明治28年)2月12日、163-166頁、doi:10.11501/1512183 オンライン版、凍区立国会図書館デジタルコレクション)

長谷川発言以外[編集]

  • 牛力ぎゅうりょく議員」『読売新聞』、1890年(明治23年)8月11日、3面。(『ヨミダス』にて閲覧)
    • (上記記事の再録)明治編年史編纂会 編「タニマル議員 ホコトン議員 更に又 牛力議員」『新聞集成明治編年史 第7巻 憲法発布期』林泉社、1940年(昭和15年)、476頁。doi:10.11501/1920380 オンライン版、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 「無学の議員」『小国民』第18号、1890年(明治23年)9月3日、15頁。 (復刻版:『小国民』復刻版第2巻、不二出版、1998年。NCID BA39470039
  • 「議員の異名」『少年園』第45号、1890年(明治23年)9月3日、23頁、doi:10.11501/1784208 オンライン版、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 「国会議員と新聞の材料」『国本』第6号、金港堂、1890年(明治23年)9月5日、28-29頁、doi:10.11501/1539456 オンライン版、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 「質朴なる議員」『天則』第3巻第3号、哲学書院、1890年(明治23年)9月17日、51頁、doi:10.11501/1571425 オンライン版、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 紅葉堂主人「あざな」『教育報知』第243号、東京教育社、1890年(明治23年)11月22日、12頁、doi:10.11501/3546168 オンライン版、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 蜃気楼主人「好笑(一)」『婦女雑誌』第1巻第9号、博文館、1891年(明治23年)6月10日、41-43頁、doi:10.11501/1580017 オンライン版、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 城山静一(述)、荒浪市平(筆記)『米商会所演説筆記』国友清人(出版)、1891年(明治24年)8月31日、2, 5, 10-11, 19, 61, 68頁。doi:10.11501/804014 オンライン版、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • 「総理大臣の新熟語」『毎日新聞』、1891年(明治24年)12月1日、5面。(復刻版: 『毎日新聞』第68巻、不二出版、1994年、235頁。NCID AN10406224
  • 「発音に就て」『日本英学新誌』第1号、東京英語専修学校出版部、1892年(明治25年)4月2日、43-44頁、doi:10.11501/1575988 NCID AN10032714。(オンライン版、国立国会図書館デジタルコレクション)
  • ほことん居士「弁士の頓智」『葦分船』第10号、蕙心社、1892年(明治25年)4月15日、8頁。 (復刻版:葦分船』関西大学出版部〈関西大学出版部影印叢書第1期第8巻〉、1998年、198頁。ISBN 4-87354-267-7NCID BA3991941X 

辞典類[編集]

書籍[編集]

長谷川発言[編集]

長谷川発言以外[編集]