アフガニスタン国民議会

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国民議会
شورای ملی‎
種類
種類 両院制
議院 長老議会
人民議会
役職
構成
定数 352
102(長老議会)
250(人民議会)
議事堂
カーブル
ウェブサイト
wj.parliament.af
mj.parliament.af

国民議会(こくみんぎかい、パシュトー語: شورای ملی, ‎シューラーイ・メリ)は、アフガニスタン・イスラム共和国立法府である。

議会構成[編集]

二院制で、下院に相当する人民議会(ウラスィー・ジルガ又はシュライ・ナマヤンダガン)と、上院に相当する長老議会(メシュラーノ・ジルガ)で構成される。

概要[編集]

2003年、ロヤ・ジルガにおいて採択された基本法(憲法)に従い、人民議会(下院)と長老議会(上院)から成る国民議会の設置が規定された。

人民議会[編集]

人民議会は、249議席以下と規定され、議員は国民の直接選挙で選出される。任期は5年。議会は、各々4ヵ月半の冬季会期と夏季会期、計9ヶ月間活動する。会議の議事録は、「ジャリアジ・ラスミ=イエ・ヴルシ・ジルガ」に掲載される。

人民議会は、政府閣僚の承認、並びに閣僚、最高裁判所の所長、副所長、裁判官、検事総長、国家保安局長官、アフガニスタン中央銀行総裁、アフガニスタン赤新月総裁の信任(不信任)の権限を有する。また、その活動を説明させるために、政府閣僚を議会に招請する権限も有する。

第1期人民議会[編集]

2005年9月18日、最初の人民議会選挙が行われた。選挙結果は、以下の通り。

その他は、無党派。

議員は、会派を形成する権利を有し、現在、国家独立会派(ムスタファ・カーゼミー)、国家監督会派(ムハンマド・アシム)、発展会派(ムハンマド・ナイム・ファラヒ)、アフガニスタンの今日会派(ミールワイス・ヤーシーニー)の4会派が活動している。


出自で見れば、元ムジャーヒディーンと民主主義者が35%を占め、元ターリバーン、共産主義者、テクノクラートが各々5%を占めた。

民族的構成は、パシュトゥーン人111人、タジク人69人、ハザーラ人26人、ウズベク人20人、トルクメン人4人、アラブ人4人、キジルバシ人2人、パシャイ人2人、ヌーリスターン人1人、ベルジ人1人、その他9人だった。

人民議会議長には、ユーヌス・カーヌーニーが選出された。

長老議会[編集]

長老議会(ミシュラノ・ジルガ)は、定数102議席で、5年任期議員(大統領の任命)、4年任期議員(各州議会の選出)、3年任期議員(各郡議会の選出)が3分の1ずつを占める。

長老議会議長は、シブガトゥッラー・ムジャッディディー

歴史[編集]

アフガニスタン史全般に渡り、ロヤ・ジルガが社会的・政治的に重要な問題を解決するに当たって、重要な意義を有している。

バーラクザイ朝[編集]

近代的な議会は、アマーヌッラー・ハーンの治世(1919年 - 1929年)に設置された。1928年、ロヤ・ジルガにおいて、国家評議会を国民議会に改編する決定が採択された。

ムハンマド・ナーディル・シャーの治世(1929年 - 1933年)では、1931年に二院制の議会が設置された。議会は、住民から選出される下院(人民議会)と、国王が任命する上院から成った。しかしながら、議員は選出というよりは、事実上、国王の任命により決まることが多かった。

第7期(1949年 - 1952年)議会では、若干の自由が認められ、反体制的な政治家も議員に選出された。この時、50人(当時の議会定数は181人)から成る野党議員は、議会会派「統一国民戦線」を結成した。統一国民戦線の圧力により、強制労働、低価格での穀物の強制買い上げ、不法な税金の徴収等が禁止された。また、1951年には、民間出版物の発展を促進する出版法が制定された。

1964年10月、ザーヒル・シャー国王(1933年 - 1973年)により、新憲法が承認され、下院選挙において、自由・普通・秘密・直接選挙が導入された。議員の任期は、4年とされた。上院議員の選出も改革され、3分の1が各州のジルガから選出され(任期3年)、3分の1が同じく各州ジルガから選出され(任期4年)、残り3分の1が国王により任命された。新憲法により、三権分立の原則も確立された。

アフガニスタン共和国 (第1次)[編集]

1973年7月14日のムハンマド・ダーウードのクーデター後、アフガニスタンは共和国となった。新体制は、1964年の憲法を廃止し、議会を解散した。この時から2005年に至るまで、全国民的に選出される議会は消滅した。

1977年2月、ロヤ・ジルガにおいて、新憲法が採択され、一院制の議会が設置されたが、その権限は、予算の承認、国際条約の批准、軍の国外派遣等に限定された。議会選挙は、1979年を予定していたが、1978年4月27日のクーデターによりダーウード体制は倒された。

アフガニスタン民主共和国[編集]

アフガニスタン人民民主党政権においては、議会は存在しなかったが、ムハンマド・ナジーブッラーの権力掌握後、国民への懐柔策として若干の自由化が認められた。1986年12月、ロヤ・ジルガにおいて、基本的権利と自由、政党の創設・活動を保障する新憲法が採択され、二院制の議会が制定されることとなった。

アフガニスタン共和国 (第2次)[編集]

1988年4月、新憲法に従い、多党制に基づく議会選挙が実施された。この選挙で、アフガニスタン人民民主党は22.6%、他の政党は9%を得票し、残りは無党派だった。両院の議長は無党派から選ばれ、上院議長にはM.ハビビ、人民議会議長にはA.A.アバヴィが選出された。この時、国土の80%以上は、ムジャーヒディーン勢力が既に支配下に置いていた。

アフガニスタン・イスラム国[編集]

議会は存在しなかった。

アフガニスタン・イスラム首長国[編集]

ターリバーンを参照。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]