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真宗大谷派広島別院明信院

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真宗大谷派広島別院明信院
所在地

〒730-0044

広島市中区宝町4-16
院号 明信院
宗旨 浄土真宗
宗派 真宗大谷派
寺格 別院
本尊 阿弥陀如来
正式名 真宗大谷派広島別院明信院
公式サイト 広島別院明信院
法人番号 8240005000245 ウィキデータを編集
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真宗大谷派広島別院明信院(しんしゅうおおたにはひろしまべついんみょうしんいん)は広島市中区にある浄土真宗寺院である。

概要

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広島別院明信院は真宗本廟(東本願寺)を本山とする真宗大谷派の別院である。広島など中国地方は本願寺派(西本願寺)の寺院や門徒[1]が多いなか、中国地方唯一の大谷派の別院である[2]


歴史

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別院ホームページ[3][4]による。

石山合戦で和睦後も最後まで籠城していた教如は、織田信長の圧倒的武力に耐えきれず1580年に大坂を退去し、約2年間全国各地を転々としたが、一時期毛利氏を頼って広島にも留したという。『大谷嫡流実記』には「毛利家をたのみ、中国に住し所々御経回あり」とあるし、『東本願寺家譜』には「明年(1581年)、安芸に赴き、円澄寺[5]に住す」と見られる。この時滞在したのが、初め一心寺(一信寺)、後に円証寺と改められた寺で、同寺が広島別院の母体となった。

寺伝によれば、この時教如は近江堅田慈敬寺証智教智父子を伴っていたが、帰京に際して教智にこの寺を託したという。教智は院号を「明信院」といったことから、広島別院は現在も明信院と号している。

1647年に本堂が再建されたが、同年教智が没し、教智に後継者がなかったため、翌1648年、本山の掛所[6]となった。この時、常念寺・万休寺・因伝寺の三カ寺が役僧列座に申し付けられ、一年替わりに輪番を勤めることになった。この教智の墓は別院の旧地である大手町にいまも残っている。

以後、本願寺派が優勢な中国地方唯一の御坊として、安芸・備後の大谷派寺院を統括する重要な役割を負った。

1741年にも本堂が再建されているが、その規模は梁行七間半、桁行九間半の堂々たる御堂であった。また、安芸・備後はもとより、近隣の石見・周防などから参詣する門徒の数も年ごとに増えていき、1822年には境内が狭小になったため拡張するなど、江戸時代を通じて繁栄した。

戦前までは、広島城正面の大手町六丁目にあったが、1945年8月6日の原爆投下によって全壊焼失し、しばらくの間再建は成らなかった。

1951年に現在地である宝町に寺地を得て再建されることとなる。当時再建された本堂・庫裏は木造平屋建てで、近代建築が建ち並ぶ広島市内では珍しい存在であり、広島県下の寺院の集会や研修会などに利用されてきた。

境内の石灯籠は、由緒来歴は定かでないものの、被爆の跡がくっきりと残されている。

2014年に現在の2階建ての本堂が新築される。



境内

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  • 本堂 - 2014年建立

脚注

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  1. ^ 特に広島など安芸の本願寺派門徒を安芸門徒と称し、篤信の地域で知られる。
  2. ^ ただし、大谷派の教区としては山陰は京都教区に、山陽は山陽教区と区分され、広島別院明信院は山陽教区にあたる。また、山陽教務所は姫路船場別院本徳寺にある。
  3. ^ 広島別院 明信院について”. 広島別院明信院 (2015年3月20日). 2021年9月20日閲覧。
  4. ^ 広島別院 明信院(みょうしんいん)”. 広島別院明信院 (2015年3月13日). 2021年9月20日閲覧。
  5. ^ 澄は証(證)の誤字か。
  6. ^ かけしょ。法主(門首)が住職を務める寺院。現在でいう別院にあたる。


外部リンク

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