「田岡一雄」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
関連書籍の追加
m ISBNの追加
99行目: 99行目:
* [[飯干晃一]]『山口組三代目・〈1,野望篇〉』 [[角川文庫]]1989年
* [[飯干晃一]]『山口組三代目・〈1,野望篇〉』 [[角川文庫]]1989年
* 飯干晃一『山口組三代目・〈2,怒涛篇〉』 [[角川文庫]]1989年
* 飯干晃一『山口組三代目・〈2,怒涛篇〉』 [[角川文庫]]1989年
* 田岡満『魂世紀―神界からの波動』[[学習研究社]] 1989年
* 田岡満『魂世紀―神界からの波動』[[学習研究社]] 1989年 ISBN 4051033139
* [[田岡由伎]]『お父さんの石けん箱』 [[ベストセラーズ]] 1991年 ISBN 4-584-00751-9
* [[田岡由伎]]『お父さんの石けん箱』 [[ベストセラーズ]] 1991年 ISBN 4-584-00751-9
* 田岡由伎『お父さんの石けん箱 -- 愛される事を忘れている人へ』([[角川文庫]]) [[角川書店]] 2003年 ISBN 4-04-369501-2
* 田岡由伎『お父さんの石けん箱 -- 愛される事を忘れている人へ』([[角川文庫]]) [[角川書店]] 2003年 ISBN 4-04-369501-2

2017年4月22日 (土) 12:39時点における版

たおか かずお

田岡 一雄
左から小野満、田岡、鶴田浩二
1952年昭和27年)
生誕 1913年大正2年)3月28日
日本の旗 日本 徳島県三好郡三庄村
死没 (1981-07-23) 1981年7月23日(68歳没)
日本の旗 日本 兵庫県尼崎市 関西ろうさい病院
出身校 兵庫尋常高等小学校高等科
職業 ヤクザ実業家芸能プロモーター
配偶者 田岡文子(フミ子)
子供 田岡満
田岡由伎
テンプレートを表示

田岡 一雄(たおか かずお、1913年3月28日 - 1981年7月23日)は、日本ヤクザ実業家山口組三代目組長。甲陽運輸社長芸能事務所神戸芸能社社長、日本プロレス協会会長田岡満映画プロデューサー)、田岡由伎(エッセイスト、音楽家喜多郎の元夫人)の父(子は異母兄弟)。

経歴

誕生から山口組三代目継承まで

  • 1913年(大正2年) 、徳島県三好郡三庄村(後:三加茂町、現:東みよし町)大字西ノ庄高木の貧しい小作農家に三女、二男の次男として生まれる。父はすでに病没していた。田岡家の菩提寺は四国三十六不動尊霊場第8番札所および阿波西国三十三観音霊場第11番札所の真言宗御室派駅路山長善寺[1]
  • 1919年(大正8年)、三庄村尋常小学校1年生のとき母親を過労で亡くし、一人だけ叔父の河内和四郎(鐘紡専属の荷役現場監督)に引き取られて神戸市兵庫区浜山通6丁目に転居。貰い子として叔母から冷遇され、酒飲みの叔父からは暴力を受けて育つ。
  • 1925年(大正14年)浜山小学校を卒業そして兵庫尋常高等小学校高等科へと進学した。1927年(昭和2年)卒業後、地元の川崎造船所旋盤見習工として入社するが2年後の1929年(昭和4年)に現場主任を殴打して退社した。
  • 兵庫尋常高等小学校高等科で山口組二代目組長山口登の弟秀雄と同級生だったことから、秀雄の誘いで叔父の家を出て、二代目山口組のゴンゾウ部屋に世話になり、夜警の仕事に従事しつつ、クスボリ(うだつのあがらぬ不良)グループに加わっていた[注釈 1]。仲間内では喧嘩相手の目を指で突く手口で恐れられ、「クマ」と呼ばれた。1930年(昭和5年)、山口組が用心棒を務める芝居小屋で小屋主の態度に腹を立て、芝居を上演中の舞台の花道に土足で乱入する騒動を起こす(湊座事件)。これがきっかけとなり、山口登の舎弟の古川松太郎に預けられて三下修業を積み、1936年(昭和11年)1月20日には二代目山口組の組員となる。この間、1932年(昭和7年)には、幕内力士の宝川が山口登の舎弟の大関玉錦を侮辱したとして宝川を短刀で襲撃し、右手の指2本を切断した上、額を割る事件を起こす(ただし、この逸話は山口組側の証言によるもので、その後も宝川が本場所で好成績を挙げていることや、引退後、郷里にて指圧療院を営んでいたことを考えると、少なくとも「右手の指を2本切り落とされた」という話の信憑性はかなり低い)。1934年(昭和9年)には、海員組合の労働争議に介入した山口登の舎弟・西田幸一が組合員たちに殺害されたことへの報復で争議本部を襲撃し、組合長に斬りつけて九州に逃亡。のち神戸相生橋署に出頭し、傷害罪で懲役1年の実刑判決を受け、神戸刑務所で服役している。
  • 1937年(昭和12年)2月25日山口春吉の舎弟に暴力を振るった大長政吉を福原遊廓で襲撃し、鉄瓶で殴打して頭を割る。その報復で山口組に殴り込みをかけた大長八郎(政吉の弟)を返り討ち、日本刀で刺殺。このため殺人罪で逮捕起訴され、神戸地裁懲役8年の実刑判決を受け、神戸刑務所大阪刑務所膳所刑務所京都刑務所高知刑務所で服役する。獄中では、みずから崇拝する頭山満玄洋社に関する本を読んでいた[注釈 2]皇紀2600年の恩赦で1943年(昭和18年)7月13日に出所した。二代目組長の登は前年の1942年(昭和17年)既に死亡していたので、その後 湊川で自ら田岡組を組織した。
  • 戦後の混乱で警察力が弱体化し治安の悪い神戸の町と闇市三国人から守るために自警団を組み頭角を現し、登の死後長らく空位であった三代目組長へ推す声が高まった[注釈 3]
  • 1946年(昭和21年)10月、組の長老たちの推薦により、山口組三代目組長を襲名した。

三代目組長襲名後

  • 三代目襲名時の組員は三十数人だった。
  • 賭博のテラ銭は、競輪競馬 及び競艇公営競技の隆盛によって、主要な収入源ではなくなり、別のしのぎを模索することになり、戦前からある浪曲興行からその他の演芸興行全般に手を広げ、平行して神戸港の港湾荷役にも進出した。
  • 港湾荷役と神戸芸能社は組の二大収入源となり、山口組のその後の全国的な活動を支えた。
  • 1953年(昭和28年)1月17日、全国港湾荷役振興協議会(全港振)設立には会長の藤木幸太郎を助け、自らも副会長に就任した。
  • 芸能プロダクション神戸芸能社は、美空ひばり田端義夫などトップ・スターの興行を手がけた。
    酒席で田岡の顔に接吻する榎本健一
    1951年昭和26年)
  • 1953年(昭和28年)[注釈 4]山本健一らによる鶴田浩二襲撃事件で鶴田襲撃を命じた張本人とされて全国指名手配を受け、同年4月20日、天王寺署に出頭、逮捕される。同年5月4日、処分保留で釈放され、不起訴処分となる。
  • 青田昇によれば、戦後の混乱期においてはプロ野球の試合は、地回りの興行組織の機嫌を伺わなければ開催できずに嫌がらせを受けていたが、プロ野球ファンであった田岡は、野球は国民的娯楽だからと山口組の全国進出以後はそのような慣習なしでも開催できるよう取り計らいをしたという[2]
  • 1968年(昭和43年)1月11日には吉本興業林正之助社長と共に、「レコード会社乗っ取り容疑」で兵庫県警に逮捕されている。(不起訴)
  • 組員に合法的な収入元を持つように勧めた。
  • それまでのヤクザ組織には無かった合法事業を持つ舎弟若衆には、非合法な事業を扱わせずに、組織の分業化を進め、結果として組の運営を合法事業と非合法事業に分けることにより、安定した資金元と、非合法な力を持つことになった。
  • 1950年代から60年代にかけて傘下の団体が全国へ進出、各地で抗争事件を引き起こした。
  • 1963年(昭和38年)には田中清玄菅原通済と連携した麻薬追放国土浄化同盟を結成し、市川房枝らとともに麻薬撲滅運動を展開しているが、横浜に支部(益田組)を出した時には地元勢力とトラブルとなった[注釈 5]
  • 山口組を全国規模の組織に育て、警察庁から広域暴力団[注釈 6]の指定を受けた。

第一次頂上作戦以降

  • 1964年(昭和39年)の山口組を壊滅する為の「第一次頂上作戦」においては、資金源の要であった神戸港の港湾事業に司直のメスが入り、傘下の甲陽運輸が業務監査を受け、山口組は港湾業務から撤退した。
  • 1966年(昭和41年)12月28日、自らが経営する甲陽運輸の脱税容疑で神戸地検に起訴される。
  • 1968年(昭和43年)12月、職業安定法違反で神戸地検に起訴される。
  • 1969年(昭和44年)4月25日、恐喝威力業務妨害で神戸地検に起訴される。
  • 若頭地道行雄(地道組組長)が山口組解散へと動くが、幹部会で山本健一山健組組長)、菅谷政雄菅谷組組長)、梶原清晴(梶原組組長)、山本広(山広組組長)ら若頭補佐が反対。この結果、地道は失脚し山本健一の力増し、1965年(昭和40年)に田岡が心筋梗塞で病床にあった事もあり集団指導体制へ移行した。
  • 自伝(昭和49年発行の初版)によると、神戸水上署一日署長をした経験を持つ[注釈 7]
  • 「第一次頂上作戦」後も勢力の拡張を続けるが、1978年(昭和53年) 7月11日には京都のクラブ「ベラミ」で、傘下の佐々木組と対立していた二代目松田組系大日本正義団の組員・鳴海清に撃たれ負傷した(これにより「第3次大阪戦争」と呼ばれる大規模な拳銃乱射事件が始まり、同年11月に山口組が終結の記者会見を開くまで続いた)。
  • 1981年(昭和56年)急性心不全により68歳で死去、戒名は永照院仁徳一道義範大居士。若頭の山本健一が跡目に決まっていたが、その後の死亡により、跡目相続には長い年月と争いが起こることになった(山口組四代目跡目問題)。また、四代目の跡目争いには妻で未亡人であった文子の意向が強く働いている。
  • 2013年(平成25年)7月23日、神戸市灘区の自宅に於いて三十三回忌法要が弔い上げとして執り行われる。 施主は長女田岡由伎、司会は長沢純

田岡を支えた主な山口組最高幹部

戦後・昭和20年代

昭和30年代から頂上作戦

頂上作戦以降

田岡を題材にした作品

  • 山口組三代目(1973年、東映) - 演:高倉健
  • 三代目襲名(1974年、東映) - 演:高倉健
    • 田岡と高倉とは親しく[3]、田岡はこれら作品の撮影現場を訪ねており、高倉を激励していた[4]。田岡は高倉と江利チエミの結婚披露宴にも招待され、清川虹子の自宅で美空ひばり小林旭夫妻と共に高倉・江利夫妻と一時を過ごした[5]。酔っていた小林が高倉に自分の腕時計をプレゼントしようとしたが、高倉は丁重に断るものの、当時の小林は映画スターとして高倉より格上だったこともあり、受け取れと強引に迫られ、困り果てていた高倉をその場にいた田岡が「健さん、もらっとき。気にせんでええ。旭にはワイのをやるよってな」と助け舟を出し、険悪になりかかった雰囲気を丸く収めた[5]。田岡が1965年(昭和40年)に心筋梗塞危篤に陥り面会謝絶だったが、高倉は江利を伴い見舞いに訪れていた[6]
  • 制覇 (映画)(1982年、東映) - 演:三船敏郎
    • 原作は志茂田景樹、実際に起こった三代目山口組と二代目松田組との抗争事件、「大阪戦争」がモデルとなっている。
  • 美空ひばり物語(1989年、TBS) - 演:ビートたけし

脚注

注釈

  1. ^ これに対して、硬派の不良学生は「バラケツ」と呼ばれた。「わたしが若いころバラケツ団に入団していたと書いている本があるが、そういう事実はない。わたしはクスボリであった」と、田岡は『山口組三代目 田岡一雄自伝』p.47(徳間書店、2006年)で書いている。
  2. ^ デイビッド・E・カプラン、アレック・デュブロ『ヤクザが消滅しない理由。』p.53(不空社、2003年)。後には頭山の名を取って、長男にと命名するに至る。
  3. ^ 自警団時代に、菅谷政雄と知り合い、後に親子の杯を交わした。
  4. ^ 『田岡一雄自伝』巻末年表では1951年としている。理由は不明。
  5. ^ この関東とのトラブルで、山口組は力で“多摩川を越えない”という約束が、児玉誉士夫の調停により関根賢松葉会)・阿部重作住吉一家)・並木量次郎並木一家)・稲川角二錦政会)との間で交わされた。
  6. ^ 現在は指定暴力団として各都道府県の公安委員会が指定出来る。
  7. ^ 昭和35年9月23日付神戸新聞に「消防」との記事がある。

出典

  1. ^ 第十二番酒蔵札所 「可楽智酒造」
  2. ^ 青田昇『ジャジャ馬一代 遺稿・青田昇自伝」』P316-317
  3. ^ 山平重樹「第五章 落日の「栄光」」『実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界』取材・写真協力 田岡満(第1刷)、双葉社(原著2009年11月22日)、259-325頁。ISBN 4575301728 
  4. ^ 実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界、第五章 落日の「栄光」、323ページ。
  5. ^ a b 実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界、第五章 落日の「栄光」、262-263ページ。
  6. ^ 実録 神戸芸能社 山口組・田岡一雄三代目と戦後芸能界、第五章 落日の「栄光」、298ページ。

著書

  • 『田岡一雄自伝 -- 山口組 電撃篇』 徳間書店 1973年10月 ISBN 4-19-132335-0
  • 『田岡一雄自伝 -- 山口組三代目 迅雷篇』 徳間書店 1974年  ISBN 4-19-132336-9
  • 『田岡一雄自伝 -- 山口組三代目 仁義篇』(トクマドキュメントシリーズ) 徳間書店 1974年6月 ISBN 4-19-132337-7
  • 『山口組三代目 田岡一雄自伝<電撃篇>』 徳間文庫、1982年6月 ISBN 4-19-597322-8
  • 『山口組三代目 田岡一雄自伝<迅雷篇>』 徳間文庫、1982年7月 ISBN 4-19-597334-1
  • 『山口組三代目 田岡一雄自伝<仁義篇>』 徳間文庫、1982年7月 ISBN 4-19-597335-X
  • 『山口組三代目 田岡一雄自伝』 徳間書店 2006年10月 ISBN 4-19-862238-8 (『週刊アサヒ芸能』創刊50周年特別企画)、徳間文庫全3巻、2009年1-3月

関連書籍

関連項目

外部リンク

先代
山口 登
山口組組長
3代目: 1946-1981
次代
竹中正久