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:片膝をついている状態の相手に向かってのジャンピングニー。
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*葉隠Ⅱ(ツナミ)
*葉隠Ⅱ(ツナミ)
:アイアンクローをかけた状態からさらに[[STO]]の要領で相手の後頭部をマットに叩き付ける技。[[WWE]]時代はクローホールドSTOと称していた
:アイアンクローをかけた状態からさらに[[STO]]の要領で相手の後頭部をマットに叩き付ける技。[[WWE]]時代はクローホールドSTOと称していた
*垂直落下式ブレーンバスター
:現在のフィニッシュムーブ。
*ダブルニードロップ
*ダブルニードロップ
:相手がリング中央でダウン時に合掌からのダブルニードロップは[[WWE]]時代からの得意ムーブ。
:相手がリング中央でダウン時に合掌からのダブルニードロップは[[WWE]]時代からの得意ムーブ。

2008年6月14日 (土) 05:35時点における版

鈴木健想
プロフィール
リングネーム 鈴木健想
ケンゾー・スズキ
鈴木健三
本名 鈴木健三
ニックネーム ライジング・サン
身長 191cm
体重 118kg
誕生日 (1974-07-25) 1974年7月25日(49歳)
出身地 愛知県碧南市
所属 フリー
スポーツ歴 ラグビー
トレーナー 坂口征二
佐々木健介
デビュー 2000年1月4日
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鈴木 健想(すずき けんぞう、1974年7月25日 - )は、愛知県碧南市出身のプロレスラーである。本名および旧リングネームは鈴木健三

経歴

刈谷北高校を経て、帝京大学から英国留学を挟んで明治大学編入明治大学ラグビー部に在籍し大型ロックとして活躍。1995年より2年連続で大学日本一を経験し、1997年にはラグビー日本代表チームの一員に選出されたというのが一般的に表記されることが多いがこれは、日本代表A(日本代表の予備軍、通称ジャパンA)である)の合宿に呼ばれたものである。大学卒業後は、東海テレビにUターン就職営業部勤務)したが退社し、1999年4月1日新日本プロレスに入団した。東海テレビが深く関与していたハッスル参戦の際には、営業部時代に共に勤務した人々と再会した。

2000年1月4日中西学戦でデビュー。坂口征二の後輩であり、また当時の現場監督だった長州力のプッシュを受けたこともあり、同年、第8回ヤングライオン杯をデビューわずか4ヶ月にして制し、プロレス大賞新人賞を受賞した。しかし、入団直後にカナダ修行に出されるなど会社側の露骨なプッシュにも関わらず、実力が伴わず(受け身の失敗で骨折等)人気は低迷。

WWE時代

2001年に、棚橋弘至とともにタッグチーム「キング・オブ・ザ・ヒルズ(King Of The Hills)」(略称:KOTH)を結成。棚橋(タナハシ)と健三(ケンゾウ)で「タナケン」コンビと呼ばれた。さらにはキング・オブ・ザ・ヒルズに佐々木健介ブルー・ウルフを加えたメンバーで「スウィング・ロウズ(SWING-LOWS)」を結成。さらにはリングネームを鈴木健三から「鈴木健想(スズキ ケンゾウ)」に改名。
2003年WJプロレスに移籍。

2003年には浩子夫人と結婚。

2004年からは活動拠点をアメリカに移し、TNAにスポット参戦した後WWEに登場する。WWEでは当初「ヒロヒト」というリングネームで、アメリカに太平洋戦争の復讐をしようとする日本人のギミックが与えられる予定であった。当初は北斎・海舟・尊氏・雷電が用意されていたがビンス・マクマホンが「ヒロヒト」に決めてしまった。その後、登場予定のスマックダウンではこの名前で登場予告プロモが流された。昭和天皇を連想させるようなこのギミックに対し浩子がWWE首脳部に抗議したことからギミックは変更になり、「ケンゾー・スズキ」としてリングに立つことになった。

また抗議した浩子もWWE首脳に注目され、結果ディーバ「ゲイシャガール」として共にデビュー、活躍することとなった。

スマックダウンでは、フランス系カナダ人(ギミック上はフランス人)のレネ・デュプリーとの異色タッグチーム(レネ&ケンゾー)で活躍。また反米ギミックから親米ギミックに変わったり、トリー・ウィルソンに熱をあげて浩子とトリー・ウィルソンの対決ストーリーを演出したりもした。

2005年7月にロウに移籍するが、以前から健想サイドが要求していた、年間120日の休暇+賃上げ交渉が決裂。ケガも負ってしまい、WWEを解雇された。

鈴木浩子(ゲイシャガール・ヒロコ)

2005年11月3日ハッスルマニアにて試合を行い、日本マットに復帰を果たす。「アメリカでホウキを相手にしてもプロレスがやれることを学んできた」の言葉通り、和泉元彌の空中元彌チョップの前に破れるも、よく対戦相手をつとめた。その後同年12月のハッスルハウスでは、AKIRA&ミスター鬼瓦、ライオセイザーライザーグレンと対戦するも、いずれも敗北。

2006年2月にようやく藤井軍鶏侍相手にハッスルでの初白星を挙げた。3月シリーズでは川田利明に負けたことにより、モンスター軍入り。お笑いタレントのRGと対戦、2分ほどで勝利を収めるも、最終戦では、HG相手のタッグマッチで妻の浩子ともども下着姿にされた上に敗れるという屈辱的な姿を晒す。4月のハッスル16でも坂田亘を終始圧倒しながらリングサイドの浩子にエアプレーンスピンで回している坂田の足が当たり、呆然としている隙に丸め込まれ、浩子はサゲマン呼ばわりされてしまう。古典的なプロレス的価値観では考えられない自虐的な姿勢とも言えるが、むしろ芸人としての肝の据わった姿勢として評価する声も高い。

WWE時代から続くウルティモ・ドラゴンとの関係からDRAGON DOORにも登場。ドイツのローカル団体で試合を行い、メキシコのCMLLにも参戦するなど、世界各地で活躍している。プロレスラーとしての「魅せる」実力は新日本~WJ時代とは比較にならないほど向上している。

ハッスルとの契約も切れ、CMLLを中心に活動しながら、インディー団体の祭典"レッスルエクスポ2006"でDDTプロレスリング高木三四郎との電流爆破マッチが決定する。元祖電流爆破大仁田厚への訪問、ユニオンプロレス、大日本プロレスなどのマットに参上。停電等のアクシデントもありながらも高木から勝利をとる。

2006年11月にはメキシコの英雄ミル・マスカラスの復活祭で、名誉ある対戦相手に選ばれた。

2007年3月、CMLLからライバル団体であるAAAに移籍。7月15日に行われたAAA最大のイベントトリプレマニアでは、日本人としては初めてメイン戦を務め、名実ともにメキシコのトップレスラーとして活躍している。

2007年11月DRAGON GATEマッスル・アウトローズの一員として短期間参戦。ファイトスタイルが違いすぎるため全体的に不評だったが、ヘビー級レスラーでありながらドラゴン・キッドの飛び技を受けきる等、メキシコのルチャドーラ達を相手に磨いた能力を見せた。

逸話・エピソード

  • 2002年2月1日 北海道立総合体育センターで、猪木が新日本の現状を問いた際、鈴木健想が発した 「僕には自分の明るい未来が見えません!」は失笑をかった、迷セリフとして有名。猪木からは「自分で見つけろ」とあしらわれ、しばしネタにされる。
  • WWEへの参戦は、新日本入団直後のカナダ修行でWWEを観て以来の憧れだったからだと語る。なお、WJプロレスへの移籍はアメリカに行かせてもらう約束をしてくれたからだったが、給料未払いをきっかけに夫婦で渡米することになる。
  • リングネームの件では鈴木も日本の背景を説明しながら、「ヒロヒト」でショーを行ったら誰かに刺されるのでは、とビンスに語ったところ「世界にニュースになるな。お前はもっとスターになる。お金も使わなくていい。」と答えたという。しかし最終的には鈴木夫妻の主張を取り入れた。なお、プロモ放送の次の日には日本の政府関係筋からもストップがかかったとか。
  • 雑誌「TIME」で「世界で活躍する日本人」の中で唯一のプロレスラーとして掲載されたこともある(ちなみに鈴木の上に掲載されていた日本人は葛飾北斎だった)。
  • 浩子ともども、浩子の実家に彼女の両親と同居していたため、リングでファンからマスオさんコールがおこることもしばしばあった。
  • 師の坂口征二は新日本の会長を退く際「心残りは北尾光司小川直也、鈴木健想を育てきれなかったこと」と新聞社のインタビューで発言している。
  • 尊敬している外国人レスラーはミック・フォーリーとコメントしている。

得意技

片膝をついている状態の相手に向かってのジャンピングニー。
  • 葉隠Ⅱ(ツナミ)
アイアンクローをかけた状態からさらにSTOの要領で相手の後頭部をマットに叩き付ける技。WWE時代はクローホールドSTOと称していた。
  • 垂直落下式ブレーンバスター
現在のフィニッシュムーブ。
  • ダブルニードロップ
相手がリング中央でダウン時に合掌からのダブルニードロップはWWE時代からの得意ムーブ。

タイトル履歴

WWE
新日本プロレス
プロレス大賞
  • 2000年プロレス大賞新人賞

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