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浅野長治

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浅野 長治
時代 江戸時代前期
生誕 慶長19年3月26日1614年5月4日
死没 延宝3年1月19日1675年2月13日
別名 又六郎(通称)
戒名 俊岳了英鳳源院
墓所 広島県三次市鳳源寺比熊山城跡山麓
官位 従五位下因幡守
幕府 江戸幕府
主君 徳川家光家綱
備後三次藩
氏族 浅野氏
父母 浅野長晟:お岩(日下秀柴の娘)
正室浅野長重の娘
瑤泉院
養子長尚長照
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浅野 長治(あさの ながはる)は、江戸時代前期の大名通称又六郎(またろくろう)。備後国三次藩の初代藩主官位従五位下因幡守

略歴

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広島藩の初代藩主・浅野長晟庶長子として山城国にて誕生。元和5年(1619年)に2代将軍徳川秀忠御目見する。寛永7年(1630年)に従五位下・因幡守に叙任された。

寛永9年(1632年)11月2日に父の遺領のうち備後国三次郡恵蘇郡に5万石を分けられ、三次藩を立藩してその初代藩主となる。11月6日に領地三次に入った。三次藩の基礎を築いた名君であった。寛永10年(1633年)、高家畠山義真より『上杉流之軍配免許』「九重巻号令幕之巻」を相伝する[1]

男子がなかったため、本家を継いだ弟・光晟の次男長尚明暦3年(1657年)に養子に迎え入れたが、まもなく死去したため、3男の長照を新たに養子に迎えて家督を継がせた。また、娘に赤穂事件で有名な播磨赤穂藩浅野長矩の正室・阿久里がいる。

延宝3年(1675年)1月19日に死去した。墓所は広島県三次市にある鳳源寺のある比熊山城跡山麓。法名は俊岳了英鳳源院。

系譜

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脚注

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  1. ^ 三次藩文書『鳳源君御伝記』

関連項目

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