京極高陳
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時代 | 江戸時代後期 - 明治時代 |
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生誕 | 天保9年9月22日(1838年11月8日) |
死没 | 明治26年(1893年)5月13日? |
別名 | 采女、右近(通称) |
官位 | 従五位下・備中守 |
主君 | 明治天皇 |
藩 | 丹後峰山藩主 |
氏族 | 京極氏 |
父母 | 京極高紀、京極高富 |
妻 | 笹田氏 |
京極 高陳(きょうごく たかのぶ)は、丹後国峰山藩第12代(最後)の藩主。通称は采女、右近。官位は従五位下・備中守。
経歴
[編集]幕臣京極高紀の次男として誕生した。
慶応4年(1868年)2月12日、11代峰山藩主京極高富の養子となり、同年3月20日に京都で養父の名代として明治天皇に拝謁し、同年5月28日に家督を相続した。同年6月14日に従五位下・備中守に叙任される。明治2年(1869年)6月23日に峰山藩知事に任命され、明治4年(1871年)7月14日に廃藩置県により罷免され、同年9月28日に東京へ移った。明治6年(1873年)3月28日、海軍省に出仕し、水兵本部課所属となる。同年5月30日、海軍少尉に任命される。明治9年(1876年)9月30日に隠居。明治14年(1881年)7月9日に離縁となる(実家へ復籍か?)。
明治26年(1893年)5月13日に56歳で死去したとされるが、異説もある。「峰山郷土史」(上)には先述の年月日に没し、墓所は峰山町吉原の安泰山常立寺とあって、『三百藩藩主人名事典』3もこの記述を引用している。しかし『平成新修旧華族家系大成』によると、1893年5月13日に死去したのは高陳の2代後の当主高致(高富のもう1人の養子)で、高陳の没年は記述されていない。
系譜
[編集]参考文献
[編集]- 「江戸幕臣人名辞典」2より「京極靭負」項。
- 「華族明細短冊」東京大学史料編纂所蔵。これには「旧幕府小姓京極淡路守亡次男」(実祖父の記述なし)
- 「丹後峰山京極家譜」東京大学史料編纂所蔵。これには「靭負高興弟」
- 「平成新修旧華族家系大成」上(1996年 霞会館)には「京極高紀二男」とある。
- 「峰山郷土史」上(1963年 同町、1985年 臨川書店復刊)にも「靭負高興弟」
- 「峯山旧記・御料所日記」(1940年 龍灯社、1979年 世界聖典刊行協会復刊)にも「靭負高興弟」
- 「峰山藩知事京極高陳他履歴」(京都府立京都学・歴彩館蔵「宮津藩政記録」383)には「実父末家故京極蓬山源高記」(実祖父の記述なし)とある。