京極高或

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京極 高或
Kyōgoku Takamochi.jpg
京極高或像(丸亀市立資料館蔵)
時代 江戸時代中期
生誕 元禄5年1月9日1692年2月25日
死没 享保9年6月22日1724年8月10日
改名 縫殿(幼名)→高或
別名 滋賀県米原市清滝の徳源院
戒名 天祥院殿仁巌道宅大居士
官位 従五位下、若狭
幕府 江戸幕府
讃岐丸亀藩
氏族 京極氏
父母

父:京極高豊

母:市子(松壽院、酒井忠挙の娘)
兄弟 高通高或、稲子(松平信祝正室)、辨子(西尾忠尚正室)
正室:伊達宗利の娘
高矩西尾忠需高綏多賀良安高亮、常子(大久保忠胤正室)

京極 高或(きょうごく たかもち)は、江戸時代中期の大名。讃岐丸亀藩3代藩主。丸亀藩京極家5代。

生涯[編集]

2代藩主・京極高豊の五男。正嫡の兄3人が早世したため嫡子となる。元禄7年(1694年)6月18日、父の高豊が死去した時は3歳だったため、高或の夭折による家の断絶を恐れた高豊の遺言により、高或が宗家を継ぐ一方、庶兄の高通に1万石が分知され、多度津藩が立藩された。元禄15年4月15日、将軍徳川綱吉御目見した。宝永3年(1706年)12月19日、従五位下若狭守に叙任した。翌年には元服して前髪を京極家の氏神である沙沙貴神社へと納めた。

享保9年(1724年)に33歳で死去した。跡を長男の高矩が継いだ。

正室所生は長男・高矩。側室馬勢子所生は常子。側室登満子所生の次男・西尾忠需は、高或の姉妹である辨子を正室とする横須賀藩西尾忠尚の養子となり跡を継いだ。

参考文献[編集]