フィル・マンザネラ
フィル・マンザネラ | |
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デヴィッド・ギルモア「Rattle That Lock Tour」にて (2015年9月) | |
基本情報 | |
原語名 | Phil Manzanera |
出生名 | Philip Geoffrey Targett-Adams |
生誕 | 1951年1月31日(73歳) |
出身地 | イングランド ロンドン[1] |
ジャンル | |
職業 | |
担当楽器 | |
活動期間 | 1971年 - |
レーベル | |
共同作業者 | |
公式サイト |
www |
フィル・マンザネラ(Phil Manzanera、1951年1月31日 - )は、イングランドのロック・ミュージシャン、ギタリスト。ロキシー・ミュージックのメンバーとして知られる。ソロ、レコード・プロデューサーとしても活動している[1][2]。
人物・経歴
[編集]生い立ち
[編集]コロンビア人の母とイギリス人の父を持ってロンドンで生まれた。本名はフィル・ターゲット=アダムス。幼少・少年時代を家族と共にキューバやベネズエラで過ごした。キューバで暮らしていた6歳の時に母親のスパニッシュ・ギターを手にし、キューバ革命の大変動期の頃はキューバ・フォークソングを好んで演奏していた。子供時代に体験したキューバ革命の衝撃は彼の音楽性に影響を与えた[1]。
ベネズエラで暮らしていた8歳の時にエレクトリックギターを習い始めた。10代の頃は1960年代のロックンロールとラテンアメリカのリズムを融合することに夢中になっていた[1]。
黎明期
[編集]1968年、ダリッジ・カレッジに在学中、学友だったビル・マコーミック(ベース)、2年後輩のチャールズ・ヘイワード(ドラム)とプー・アンド・オーストリッチ・フェザー(Pooh and the Ostrich Feather)を結成した[4]。
カレッジを卒業したマンザネラとマコーミックは、翌年にヘイワードと再会。3人は1970年にデイヴ・ジャレット(キーボード)を迎えてジャズ・ロック・バンドのクワイエット・サンを結成した[2]。彼等は1971年の夏まで活動して、解散した[4]。
ロキシー・ミュージック
[編集]1971年、マンザネラはロキシー・ミュージックのギタリストのオーディションを受けた。ロキシー・ミュージックは同年9月に初代ギタリストのロジャー・バンが脱退したので、後任を探していた。マンザネラはオーディションでは不合格だったが、数か月後にミキシング担当として採用された[4]。その約一か月後、オーディションに合格してメンバーになっていた元ザ・ナイスのデヴィッド・オリストが脱退したので、彼は1972年初頭に3代目のギタリストとして加入した[1][5][注釈 1]。
1973年7月にはブライアン・イーノがロキシー・ミュージックを脱退した[6]。以後、マンザネラのギター演奏の風合はイーノの電子音の風合を補った[2]。サード・アルバム『ストランデッド』(1973年)で「アマゾナ」をフェリーと共作して、収録曲の作者に初めて名を連ねた。その後も「アウト・オブ・ザ・ブルー」、「プレーリー・ローズ」、「ナイチンゲール」などをフェリーと共作した。
1975年には初のソロ・アルバム『ダイアモンド・ヘッド』を発表。同アルバムにはイーノやアンディ・マッケイ、ジョン・ウェットン[注釈 2]などロキシー・ミュージックの関係者が参加した[2]。また、マッコーミックらクワイエット・サンのオリジナル・メンバーに呼びかけて、未発表のままだったオリジナル曲を録音してアルバム『メインストリーム』を発表した。・
1976年6月末にロキシー・ミュージックが解散を発表する[7]と、イーノ、マコーミック、フランシス・モンクマン(キーボード)、サイモン・フィリップス(ドラム、リズムジェネレーター)、ロイド・ワトソン(スライドギター、ボーカル)らと801を結成した。彼等は9月3日のクイーン・エリザベス・ホールでのコンサートを録音して、同年11月にアルバム『801 ライヴ』として発表した。
同年、マンザネラはニュージーランドのスピリット・エンズのセカンド・アルバムのプロデューサーを務めた[7]。
1977年2月にフェリーが開始したワールド・ツアーに参加。6月初旬には、同ツアーのメンバーとしてフェリー、ウェットン、クリス・スペディングらと共に初来日した。同年後半にはワトソンを除く801のメンバーとゲスト・ミュージシャンと共にアルバム『リッスン・ナウ』を制作して、フィル・マンザネラ / 801の名義で発表した。
ロキシー・ミュージックは1978年夏に再結成され、マンザネラはアルバム『マニフェスト』(1979年)の発表に伴なったツアーの一環として同年4月末に行なわれたロキシー・ミュージック初の日本公演で、再来日した。彼等は1983年2月にアルバム『アヴァロン』(1982年)のツアーで2度目の来日し、ツアー終了後に解散した。
その後
[編集]マンザネラは『リッスン・ナウ』に続いて、『K-スコープ』(1978年)、『プリミティヴ・ギターズ』(1982年に)、『サザンクロス』(1990年)を発表した[2]。1987年にはウェットンとの共作アルバム『ウェットン・マンザネラ』も発表した。
1985年、マッケイらとエクスプローラーズ(The Explorers)を結成し、アルバム"Explorers"(1985年)を発表するが商業的な成功には至らなかった。1988年と1989年にマンザネラ & マッケイとしてアメリカでアルバムを2作発表。1990年にもマッケイと組んでクリスマスソング"Christmas"を発表した。
1990年代は世界中で活動する。スペインのセビリアで開催された「Guitar Legends」では音楽監督を務め、またギタリストとしてボブ・ディランやキース・リチャーズらと共演した[1]。1999年に発表したソロ・アルバム『ヴォゼロ』はラテンアメリカ色の強い作品となった[2]。
2001年、フェリー、マッケイとロキシー・ミュージックの再結成を主導してワールド・ツアーを行った[8]。
2005年に発表したアルバム『50ミニッツ・レイター』にはイーノも参加した[2]。
この頃よりデヴィッド・ギルモアのソロ・ライブのツアー・メンバーとなり、多くのライブ活動に参加し、その映像も多く残っている。
2019年、ロキシー・ミュージックがロックの殿堂入りを果たした。マンザネラは8人の受賞者[注釈 3]の一人に選ばれた。
ディスコグラフィ
[編集]スタジオ・アルバム
[編集]- 『ダイアモンド・ヘッド』 - Diamond Head (1975年)[9]
- 『K-スコープ』 - K-Scope (1978年)
- 『プリミティヴ・ギターズ』 - Primitive Guitars (1982年)
- 『ウェットン・マンザネラ』 - Wetton Manzanera (1986年) ※with ジョン・ウェットン、『ワン・ワールド』 - One Worldとして改題再発あり
- 『ウェイステッド・ランズ (廃墟の街)』 - The Wasted Lands (1988年) ※with ノヴァ・モヴァ
- 『サザンクロス』 - Southern Cross (1990年) ※『ア・ミリオン・リーズンズ・ホワイ』 - A Million Reasons Whyとして改題再発あり
- Mato Grosso (1990年) ※with Sergio Dias
- Boleros Hoy (1991年) ※with Tania Libertad
- 『ヴォゼロ』 - Vozero (1999年)
- 『6PM』 - 6PM (2004年)
- 『50ミニッツ・レイター』 - 50 Minutes Later (2005年)
- 『ファイアーバード V11』 - Firebird V11 (2008年)
- 『コーロンチョ紀行』 - Corroncho (2008年)
- 『ザ・サウンド・オブ・ブルー - 蒼の追憶』 - The Sound of Blue (2015年)
- 『続コーロンチョ紀行』 - Corroncho 2 (2017年)
ライブ・アルバム
[編集]- 『ライヴ・アット・ザ・カール・マルクス』 - Live at the Karl Marx (1992年) ※with モンカダ (Moncada)
- 『ライヴ・アット・ザ・キュリアス・アーツ・フェスティヴァル2015』 - Live at the Curious Arts Festival (2016年)[10]
- 『ライヴ・イン・ジャパン2017』 - Live In Japan (1992年) ※with ザ・サウンド・オブ・ブルー・バンド
コンピレーション・アルバム
[編集]- 『ギタリシモ』 - Guitarissimo 75–82 (1986年)
- 『ザ・マンザネラ・コレクション』 - The Manzanera Collection (1995年)
- 『アーカイヴス・レア・ワン』 - Manzanera Archives: Rare One (2000年) ※1975年–1991年のレア音源集
- 『エクスプレッション・サンプラー』 - The Manzanera Archives Sampler/Expression Sampler (2000年)
- 『ベスト・オブ・1972-2008』 - The Music 1972-2008 (2011年)
ロキシー・ミュージック
[編集]クワイエット・サン
[編集]- 『メインストリーム』 - Mainstream (1975年)
801
[編集]- 『801 ライヴ』 - 801 Live (1976年)
- 『リッスン・ナウ』 - Listen Now (1977年) ※フィル・マンザネラ / 801名義
- 『ライヴ・アット・マンチェスター』 - 801 Manchester (1997年) ※1977年録音
- 『ラティーノ』 - 801 Latino (2001年) ※1999年録音
- 『ライヴ・アット・ハル』 - Live at Hull (2001年) ※1977年録音
エクスプローラーズ
[編集]- 『エクスプローラーズ』 - Explorers (1985年)
- 『ライヴ・アット・パラス』 - Live At The Palace (1997年) ※1985年ライブ録音
マンザネラ & マッケイ
[編集]- Crack The Whip (1988年)
- Up In Smoke (1989年)
- Manzanera - Mackay (1990年)
- 『ロキシンフォニー - ロキシー・ミュージックへの新たな憧憬』 - Roxymphony (2019年)
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ それまで彼は出生名を使って活動していたが、ロキシー・ミュージックに加入したのをきっかけに、母親の姓を採用してフィル・マンザネラと名乗るようになった。
- ^ 元キング・クリムゾン。キング・クリムゾンが1974年に解散した後、同じEGレコードに所属していたロキシー・ミュージックのツアーに準メンバーとして参加していた。
- ^ マンザネラの他、フェリー、マッケイ、イーノ、ポール・トンプソン、グラハム・シンプソン、エディ・ジョブソン、ジョン・ガスタフソン。
出典
[編集]- ^ a b c d e f g h 「The Official Roxy Music Tour 2001 Phil Manzanera Biography」より。
- ^ a b c d e f g h 『ストレンジ・デイズ』(2007年11月号、p38)より。
- ^ マンザネラ自身のレーベルで、ウェブサイト www.manzanera.comによりインターネット通信販売を行っている -「The Official Roxy Music Tour 2001 Phil Manzanera Biography」より。
- ^ a b c Buckley (2004), p. 62.
- ^ Buckley (2004), p. 61.
- ^ Buckley (2004), p. 131.
- ^ a b Buckley (2004), p. 201.
- ^ 「Roxy Music World Tour 2001」より。
- ^ 『ストレンジ・デイズ』(2007年11月号、p39)より。
- ^ Note that the CD cover and its manifesto designed by Italian artist Silvia Vacca
引用文献
[編集]- Buckley, David (2004). The Thrill of It All: The Story of Bryan Ferry & Roxy Music. London: Andre Deutsch. ISBN 0-233-05113-9
参考文献
[編集]- Manzanera.com (2001), The Official Roxy Music Tour 2001 Phil Manzanera Biography 2009年12月31日(木)閲覧。
- Manzenera.com (2001), Roxy Music World Tour 2001 2009年12月30日(水)閲覧。
出版物
- 松井巧「フィル・マンザネラのソロ活動」『ストレンジ・デイズ』No.98 2007年11月号、ストレンジ・デイズ、p38, p39。
- 鈴木祐「アンディ・マッケイのソロ活動」『ストレンジ・デイズ』No.98 2007年11月号、ストレンジ・デイズ、p40, p41。
関連文献
[編集]- Bracewell, Michael (April 2008), Re-make/Re-model: Becoming Roxy Music, USA: Da Capo Press, ISBN 978-0306814006
外部リンク
[編集]- john@vivaroxymusic.com, VIVA ROXY MUSIC.com > Phil Manzanera's Solo Work 2010年9月7日(火)閲覧。
- フィル・マンザネラ - Discogs