駿河台

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歌川広重

駿河台(するがだい)は、東京都千代田区台地秋葉原の南西、千代田区神田駿河台一丁目と二丁目に位置する[1]

元は北の本郷台地の南端に当たる部分だが、江戸幕府二代将軍徳川秀忠の命を受けた仙台藩祖・伊達政宗1620年元和6年)に仙台堀(神田川)を開削したことにより湯島台と駿河台とに分離され、孤立した高台となった[2][3][4][5][6]。神田川を挟んで北側に位置する湯島台とは、聖橋お茶の水橋により台地上端の標高で結ばれている。削って下町を埋めたために、今は台地ではないところもある。

特徴

昭和初期の駿河台の遠景(左奥にニコライ堂明治大学錦華尋常小学校

「神田四学」[要出典]という私立の法律学校4校(明治・日本・中央・専修)が明治時代に創立され[7][8][9]、以来、日本大学理工学部歯学部)や明治大学本部を初めとする私立大学駿台予備学校などの予備校専門学校が多く集まっているほか、神田川の対岸は東京医科歯科大学順天堂大学、近隣には専修大学等が存在し、国内有数の学生街となっている。かつては中央大学東京高等商工学校埼玉工業大学[10]なども駿河台に本部を置き、明治時代には法政大学の校舎もあった[11][12]。なお、明治大学、日本大学[13][14]、中央大学[15][16]はいずれも法律学校から始まっている[8][9]

キリスト教正教会の一員たる日本ハリストス正教会の本拠ニコライ堂(東京復活大聖堂)が当地にある。

駿河台日本大学病院杏雲堂病院など、病院が多く存在するほか、学生向けから発展したスポーツ用品店、楽器店なども多い。隣接する神田神保町は日本最大級の古書店街である。

1960年代後半の全共闘運動では、多くの大学が存在したことから、「神田カルチェラタン」「日本のカルチエ・ラタン」とよばれ、警察との対決の主戦場となり、一時は「神田解放区」を現出させた。(神田カルチェ・ラタン闘争

主な施設など

地名の由来

江戸時代初期に、駿府(駿河府中、現・静岡市葵区付近)から江戸東京都区部)に移住した徳川家康の家臣が居を構えたことに由来する。

最寄り駅

各地の駿河台

東京都の「駿河台」の由来になった駿河国は現在の静岡県の中部にあたり、静岡市駿河区登呂遺跡付近に、「駿河台」という住宅街がある。

静岡市以外にも、富士市藤枝市沼津市の郊外に、同じく「駿河台」という住宅街がある。

千葉県船橋市にも同様の地名がある。

脚注

  1. ^ 隣接する神田小川町三丁目から三省堂書店神田本店にかけての界隈は、駿河台の高台から下ってきた所に当たるため「駿河台下」と呼ばれる。
  2. ^ 第五章 神田川山脈「御茶ノ水の茗渓」 (PDF) (川副秀樹 著、『東京「消えた山」発掘散歩』 p.80-83)
  3. ^ 首都圏みやぎゆかりの地「仙台堀(神田川)」宮城県
  4. ^ 地下鉄の駅名に見る江戸のなごり(その2) (PDF)社団法人日本地下鉄協会「SUBWAY 日本地下鉄協会報 第194号」 2012年8月31日発行)p.48-50
  5. ^ J-BECレポート 2013 vol.8 (PDF)一般財団法人橋梁調査会) p.33
  6. ^ 緑と水のひろば No.68 SUMMER 2012 (PDF)公益財団法人東京都公園協会
  7. ^ 専修学校(専修大学の前身)は1880年に京橋で、明治法律学校(明治大学の前身)は1881年に有楽町で、英吉利法律学校(中央大学の前身)は1885年に神田錦町で、日本法律学校(日本大学の前身)は1889年に飯田町で開校した。
  8. ^ a b 東都游学学校評判記』(河岡潮風博文館1909年
    「所謂私立大学の現状は、決して多大の尊敬を、払はれて居らぬと言ふ一事である。」(127頁)
  9. ^ a b 湛山回想』(石橋湛山岩波書店1985年
    「私学出のものが、そのころの日本で、いかに冷遇されたかは、今日の私立大学の卒業生には、たぶん想像もできないことであろう。」(89頁)
  10. ^ 東京高等商工学校大学ではない。また、埼玉工業大学と駿河台との間に直接のつながりはない。
  11. ^ 1880年9月に駿河台北甲賀町で開校した東京法学社法政大学の前身校のひとつ)は同年12月に神田区神田錦町に移転した。
  12. ^ 「法政大学」と改称した後は駿河台に校舎を構えたことはない。
  13. ^ 日本法律学校が駿河台に校舎を構えたことはない。
  14. ^ 東都游学学校評判記』(河岡潮風博文館1909年
    砲兵工廠煤煙なびく、神田三崎町一番地=名も堂々たる日本大学は、その一隅にチヨツピリと置かれたるペンキ塗の建造物である。」(141頁)
  15. ^ 中央大学は1926年(大正15年)まで錦町にあった(中央大学のあゆみ |”. 中央大学. 2020年8月14日閲覧。)。
  16. ^ 大学評判記』(榛名譲、日本公論社、1933年
    「教授連の顔ぶれも、近頃でこそ新大学令によつて専任教授も置かねばならず、従って母校出身の新進学徒が相当勢威を張るやうになつて来たが、昔は帝大法学部教授連の出張所であり、判検事や弁護士試験委員の内職稼ぎのお顧客先きであつたものだ。」(93頁)

関連項目