劇団民藝
外観 | |
種類 | 株式会社 |
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市場情報 | 非上場 |
本社所在地 |
日本 〒215-0035 神奈川県川崎市麻生区黒川649-1 |
設立 | 1959年3月 |
業種 | サービス業 |
法人番号 | 3020001065153 |
代表者 | 代表取締役 奈良岡朋子 |
資本金 | 16496千円 |
外部リンク | 劇団民藝 公式サイト |
特記事項:2013年12月現在の指標。同月現在の所属劇団員は164名。 |
劇団民藝(げきだんみんげい)は、神奈川県川崎市麻生区に本拠を置く新劇団のひとつ。「株式会社劇団民藝」が運営している。
概要
東京芸術劇場(1945年12月14日結成、1947年3月に分裂)にいた滝沢修が中心となって1947年、東京芸術劇場の脱退メンバーの森雅之らと新協劇団にいた宇野重吉が参加して結成された民衆芸術劇場(第一次民藝ともいう)を前身とし、1950年、宇野重吉[1]、滝沢修、北林谷栄らによって創立された劇団。特に宇野は終世劇団の顔として牽引役を果たした。1951年の「炎の人ヴァン・ゴッホの生涯」では、女優が背中を見せるなどの熱演を演じた。
1959年に法人化し、株式会社劇団民藝による運営形態となった。現在の劇団代表は奈良岡朋子。法人役員は、奈良岡が代表取締役、常勤・非常勤の監査役が1名ずつ(2013年12月時点)で構成されている。
歩み
民衆芸術劇場(第一次民藝)
- 1947年7月28日、滝沢修、宇野重吉らが民衆芸術劇場として結成。
- 1948年1月、民衆芸術劇場第1回公演「破戒」(島崎藤村原作、村山知義脚色)を有楽座で上演。
- 1948年 8月、山田時子作「女子寮記」(三越劇場)。
- 1949年4月、木下順二作「山脈」(三越劇場)。
- 1949年7月12日、解散。
劇団民藝(第二次)
1950年12月22日、劇団民藝として、創立された。第1回公演はチェーホフの『かもめ(岡倉士朗演出)』。翌1951年には『炎の人-ゴッホ小伝(三好十郎作)』が上演された。
その後、久保栄、木下順二らの創作劇からアーサー・ミラーの『セールスマンの死』、F&Aハケット『アンネの日記』、サルトルの『汚れた手』などの翻訳劇まで数多くの作品を上演し、新劇界の中心的役割を果たす劇団として多くの人々に親しまれている。日活が1954年に映画製作を再開した際、五社協定により他社の映画俳優を一切使えなかったため民藝と提携。一般作品の制作を断念する1971年にかけて多くの俳優が日活映画に出演している。1960年代には樫山文枝[2]、日色ともゑらがNHK朝の連続テレビ小説で人気となった。米倉斉加年、高田敏江、吉行和子らも過去に所属していたことがある。
1971年には内部で対立が起こり、佐野浅夫・佐々木すみ江・下條正巳・鈴木瑞穂らが退団。
2005年から2006年には、奈良岡朋子が無名塾の仲代達矢との共演で、『ドライビング・ミス・デイジー』を上演している。
2020年1月に篠田三郎が青山事務所所属となった。
主な劇団員
青山事務所
過去に所属していた俳優
- 宇野重吉
- 滝沢修
- 大滝秀治(在籍中に死去)
- 米倉斉加年
- 高田敏江
- 吉行和子
- 中尾彬
- 新田昌玄
- 北林谷栄
- 森雅之
- 多々良純
- 望月優子
- 加藤嘉
- 山内明
- 清水将夫
- 細川ちか子
- 小夜福子
- 芦田伸介
- 大森義夫
- 嵯峨善兵
- 佐野浅夫
- 下條正巳
- 下元勉
- 庄司永建
- 信欣三
- 赤木蘭子
- 大町文夫
- 伊達信
- 鶴丸睦彦
- 鈴木瑞穂
- 内藤武敏
- 松下達夫
- 佐々木すみ江
- 富田浩太郎
- 垂水悟郎
- 三崎千恵子
- 有馬稲子
- 加地健太郎
- 草薙幸二郎
- 斎藤美和
- 春日俊二
- 長浜藤夫
- 長浜忠夫
- 岡村春彦
- 真野響子
- 南風洋子
- 山田康雄(テアトル・エコーに移籍後、死去)
- 綿引勝彦
- 麦人[3]
- 鈴木林蔵
- 石井敏郎
- 瀬戸口夏
- 水原英子
- 津田京子
- 里居正美
- 三浦威
- 山根久幸
- いっこく堂
- 福島資剛
- 花村さやか
- 鈴木智 (俳優)
- 梅野泰靖(在籍中に死去)
- 林摩理子
- 館敬介