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小林 政一(こばやし まさいち、1891年2月14日 - 1973年12月25日)は、日本の建築家、教育者。明治神宮外苑の建設に関わり、日本建築学会会長、千葉大学学長などを務めた。
経歴
1891年(明治24年)、茨城県稲敷郡の豪農の家に生まれる。竜ヶ崎中学校、第二高等学校を経て、1916年(大正5年)、東京帝国大学工学部建築学科卒業(高橋貞太郎、伊部貞吉、小倉強らと同年)。卒業後、大蔵省臨時建築局嘱託。
1919年、恩師佐野利器の推薦で明治神宮造営局技師(高橋貞太郎の後任)に就任、神宮外苑の施設建設(絵画館、競技場、水泳場、日本青年館など)に従事。関東大震災を乗り越え、外苑の整備に尽力する[1]。
1926年に東京高等工業学校教授。1929年、同校の大学昇格に伴い東京工業大学教授。1929年、論文「明治神宮外苑工事に就て」で工学博士号取得。1930年1月より文部省の派遣で欧米に出張[2]。1943・1944年に日本建築学会会長を務めた。
1951年、東京工業大学を退官。その後も武蔵工業大学教授、千葉大学工学部長・学長などを歴任。また、日本英霊奉賛会会長も務めた。1966年、勲二等旭日重光章を受章[3]。1973年逝去。
主な作品
著書
- 「美術館」(『高等建築学』第21巻、常磐書房、1933年)
- 「運動場」「体育館及演武場」(『高等建築学』第23巻、常磐書房、1934年)
その他
栄典
- 勲章
脚注
- ^ 高杉造酒太郎『建築人国雑記』(日刊建設工業新聞社、1973年)p55-56。同「脱建築家志士小林政一先生」(『建築雑誌』1974年5月)。
- ^ 『建築雑誌』1930.2 会員動静。
- ^ 『読売新聞』1973年12月27日。
- ^ 『官報』第5029号「叙任及辞令」1943年10月15日。
関連項目
千葉大学学長(第2代:1957年 - 1961年) 東京工業専門学校長(1951年 - 1952年) |
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- 初代 小池敬事 1949-1957
- 第2代 小林政一 1957-1961
- 第3代 荒木直躬 1961-1962
- 事務取扱/第4代 谷川久治 1962/1962-1968
- 第5代 川喜田愛郎 1968-1969
- 事務取扱 湊顕 1969
- 事務取扱 香月秀雄 1969-1970
- 第6代 相磯和嘉 1970-1976
- 第7代 香月秀雄 1976-1982
- 第8代 井出源四郎 1982-1988
- 第9代 吉田亮 1988-1994
- 第10代 丸山工作 1994-1998
- 第11代 磯野可一 1998-2005
- 第12代 古在豊樹 2005-2008
- 第13代 齋藤康 2008-2014
- 第14代 徳久剛史 2014-2021
- 第15代 中山俊憲 2021-2023
- 代行 中谷晴昭 2023-2024
- 第16代 横手幸太郎 2024-
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前身諸学校・大学長 |
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| | 千葉医科大学附属薬学専門部長 ※1923-1944主事 |
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| 千葉医科大学附属医学専門部長 |
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千葉医科大学臨時附属医学専門部主事 | |
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千葉医科大学附属医学専門部長 | |
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第一高等中学校医学部主事 |
- 学部長/主事 長尾精一 1887-1890/1890-1894
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第一高等学校医学部主事 | |
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千葉医学専門学校長 |
- 心得/校長 長尾精一 1901/1901-1902
- 心得/校長 荻生録造 1902/1902-1914
- 三輪徳寛 1914-1923
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千葉医科大学附属医学専門部主事 | |
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千葉医科大学長 |
- 三輪徳寛 1923-1924
- 松本高三郎 1924-1929
- 高橋信美 1929-1940
- 小池敬事 1940-1949
- 加賀谷勇之助 1949-1952
- 赤松茂 1952-1955
- 荒木直躬 1955-1958
- 谷川久治 1958-1960
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