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李球

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南延君李球
宗親世
正一品君
顕禄大夫[1]
本貫氏派 全州李氏延齢君派
続柄 李秉源第2子
初諱 寀重
爵号 南延君
諡号 忠正
現墓所 忠清南道礼山郡伽倻山報徳寺
義父 恩信君
義母 郡夫人南陽洪氏
配偶者 郡夫人驪興閔氏
子女 興寧君李昌応
興完君李晸応
興寅君李最応
興宣大院君李昰応
  1. ^ 大典会通では上輔国崇禄大夫。官位は正一品上階。
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李 球(イ・グ、1788年 - 1836年5月5日)は、李氏朝鮮の宗親。本貫氏派全州李氏延齢君派。李秉源第2子。初諱は「寀重」。諱は「球」。字は「時伯」。諡号は「忠正」。爵号は「南延君」。第4子は興宣大院君

曽祖父安興君以降は王位承継権はなく、誕生から約30年間は貧困生活であった。延齢君派家督となり、爵位を叙爵されて、官職を歴任した。当時は勢道政治により宗親没落期で、当時の宗親代表格が南延君であり、純祖から保護された。一方で無勤務・不適切行為・職権乱用などで批判・弾劾が多数なされており、純祖実録では不適切人物としての記述が多いが、哲宗実録には模範的人物としての記述がなされた。

卒去後にドイツ連邦商人エルンスト・ヤーコプ・オッペルトが引き起した忠清南道礼山郡での副葬品破損事件は有名であり、当時の鎖国政策を強硬化させた。

生涯

背景

1788年李秉源第2子として誕生。系統は仁祖第3子で6代祖麟坪大君にあたる。5代祖福寧君粛宗時期の熾烈な党争のなか爵位を維持したが、曽祖父安興君以降は王位承継権はなかった。祖父李鎮翼は蔭位制により高官になるも、実父李秉源は生員どまりで貧困生活を過ごすが、李秉源は南延君に学問教育をした。興宣大院君がこれらの先祖を追贈している。

宗親期

1816年1月17日敦寧府判事李彦植と親戚の会談で延齢君派家督となり、諱号を「寀重」から「球」に改諱して、南延君に叙爵、昭義大夫[1] に叙位[2]1月18日昌徳宮大造殿純祖に謁見して、永祐園移転案の議論後に[3][4][5]、永祐園守園官に任官[6]8月6日李履熙上疏は南延君が不適切人物であり免官すべきとすると、純祖は李履熙上疏を否認した[7]8月8日南延君が李履熙上疏について席藁待罪をすると、純祖は免責した[8]。李履熙上疏では倫理違反事案、また永祐園参奉人事事案は吏曹礼曹管轄であり、問題視された。

李履熙上疏

もし倫理違反事案で罪状を議論するなら、南延君こそ当該人物です。在野時から軽薄的性格で人々に見捨てられていました。ところが宗親になっても改心せず、永祐園守園官に任官されてから、勤務中にも関わらず、龍珠寺庭園で泥酔して帽子を脱用・逆用すること、常駐用寝室で売春婦を呼出しては淫行すること、園内で輿を下車せず移動すること、仮病を理由に休暇を不正取得すること、民衆のように焼肉賭博すること、民衆に暴力団を集合させると嘘をついて民衆が被害に恐怖して百里以内を閉店・逃亡させたことなど、ますます凶悪的・背徳的行為で驕り高ぶっています。永祐園参奉人事事案でも、1カ月前に当該官職の強制的人事変更では、指名者を任官させたという、朝廷を無視する一大事案です。このような不適切人物は永祐園守園官そして宗親にしておいてはいけません。


純祖教書

李履熙上疏には疑問点がある。また事案があれば、私に通知されるはずなので、これは虚偽事案だと判断した。仮に事実でも緊急事態に該当せず、李履熙上疏は妄想・虚偽も甚だしい。李履熙の官職を剥奪して、上疏を返却せよ。

— 『純祖実録』第19巻 16年(1816年丙子/嘉慶21年) 旧暦7月13日(庚午)1項目[7]

1817年2月2日中義大夫[9] に叙位[10]1818年1月21日承憲大夫[11] に叙位[12]1820年8月29日医女への強姦罪で永祐園守園官に免官[13]10月13日五衛都摠府都摠管に任官[14]12月13日崇憲大夫[15] に叙位[16]1821年2月3日嘉徳大夫[17] に叙位[18]4月11日孝懿王后薨去で健陵守陵官に任官[19]1822年5月3日宜徳大夫[20] に叙位[21]12月15日事故を理由に辞官[22]12月25日健陵守陵官に免官[23]1823年4月1日義禁府は健陵破損による不敬罪で、南延君を笞刑100回と三千里先[24] に流配を求刑。しかし柳諫は南延君の母親が70歳を超えることを理由に罰金刑を主張して、罰金刑で釈放された[25][26]1825年3月1日興禄大夫[27] に叙位[28]7月26日六代祖麟坪大君遺稿の松渓集を、追記された正祖祭文とあわせて出版する認可を求めて、純祖が承認した[29]1826年3月15日先農壇初献官を務めたが、不手際により、官位が宜徳大夫[20] に降位した[30]3月21日五衛都摠府都摠管に任官[31]1828年4月13日進賀使謝恩使正使に任官[32]5月26日午前8時頃に進賀使兼謝恩使正使として昌徳宮熙政堂で純祖[33][34]、昌徳宮重熙堂孝明世子に謁見してからに赴いた[34]7月20日北京に到着して南小館に滞在した[35]9月21日北京を出発した[36]11月10日正午昌徳宮熙政堂で純祖[37]、午後2時頃昌徳宮暎花堂で孝明世子に謁見して[38]、進賀使・謝恩使の行状を語った。1829年4月9日純祖に宗親府謄録を編纂するよう進言して承認される[39]1831年8月9日郡夫人驪興閔氏が卒去した[40]1834年12月13日に宗戚執事に任官された[41]1835年1月4日顕禄大夫[42] に昇格した[43]11月24日五衛都摠府都摠管を免官[44]1836年5月5日卒去[45]

卒去後

1837年1月31日諡号を「栄僖」に追贈[46]1864年9月22日興宣大院君は南延君を不祧の祖先[47] であるとして、諡号を「忠正」に改号[48]京畿道漣川郡に埋葬されて、喪服期間後に風水師が興宣大院君に子孫から帝王が出る場所があると進言した出来事で忠清南道礼山郡伽倻山の石塔に移転された。後日に高宗により伽倻山に報徳寺が建立された。1865年2月9日宗廟に純祖配享功臣として遺棺と位牌が設置された[49]ドイツ連邦商人エルンスト・ヤーコプ・オッペルト1866年3月27日忠清南道瑞山市海美邑鳥島に接近して、3月28日忠清南道唐津市大湖芝面調琴里に船舶して、金泳駿金膺集鄭在箕に筆談して交渉したが退去勧告に至って挫折した[50]8月22日仁川広域市江華郡江華邑月串里に船舶して李寅夔に交渉したが再挫折した[51]。そのためフランス帝国宣教師スタニラス・フェロンに会い、貿易のために開国するよう仕向けるべく、南延君の遺骨を掘り出し、朝鮮より持ち去る計画を立てた。アメリカ人フレデリック・H・B・ジェンキンスの資金と協力を得て、1868年4月30日に出発した。南延君墓に到着して発掘を試みたが、副葬品を毀損したが、遺骨には巨大な切り石に阻まれて、計画は失敗した。帰路に軍卒に巡り合わせて、朝鮮から脱出した。この事件は興宣大院君を激昂させて、鎖国・攘夷政策を強化するに至った。南延君墓は1989年12月29日忠清南道記念物第80号に指定された。

経歴

西暦 月日 内容
1816年 1月17日 南延君
昭義大夫(従二品下階)
1月18日 永祐園守園官
1817年 2月2日 中義大夫(従二品上階)
1818年 1月21日 承憲大夫(正二品下階)
1820年 8月29日 免官(強姦罪
10月13日 五衛都摠府都摠管
12月13日 崇憲大夫(正二品上階)
1821年 2月3日 嘉徳大夫(従一品下階)
4月11日 健陵守陵官
1822年 5月3日 宜徳大夫(従一品上階)
12月15日 辞官(五衛都摠府都摠管)
12月25日 免官(健陵守陵官)
1825年 3月1日 興禄大夫(正一品下階)
1826年 3月15日 宜徳大夫(降位)
1828年 3月21日 五衛都摠府都摠管
4月13日 進賀使謝恩使正使
1834年 12月13日 宗戚執事
1835年 1月4日 顕禄大夫(正一品上階)
11月24日 免官(五衛都摠府都摠管)
1837年 1月31日 諡号を「栄僖」
1864年 9月22日 諡号を「忠正」(改号措置)
1865年 2月9日 宗廟純祖配享功臣

家門

尊属
続柄 諱号 備考
実父 李秉源
実母 延日鄭氏 本貫延日鄭氏鄭義煥の娘。
継母 広州金氏 本貫広州金氏金鎮九の娘。
義父 恩信君李禛
義母 郡夫人南陽洪氏 本貫は南陽洪氏洪大顕の娘。
卑属
続柄 諱号 備考
正室 郡夫人驪興閔氏 本貫驪興閔氏閔景爀の娘。
  一子 興寧君李昌応
二子 興完君李晸応
三子 興寅君李最応
四子 興宣大院君李昰応 高宗の実父。

外部リンク

脚注

  1. ^ 大典会通では嘉善大夫。官位は従二品下階。
  2. ^ 『純祖実録』第18巻 15年(1815年乙亥/嘉慶20年) 旧暦12月19日(己巳)5項目
  3. ^ 荘祖の陵墓。大韓帝国時代に隆陵に改名。
  4. ^ 『純祖実録』第18巻 15年(1815年乙亥/嘉慶20年) 旧暦12月20日(庚午)1項目
  5. ^ 『承政院日記』(1815年乙亥/嘉慶20年) 旧暦12月20日(庚午)
  6. ^ 『純祖実録』第18巻 15年(1815年乙亥/嘉慶20年) 旧暦12月20日(庚午)5項目
  7. ^ a b 『純祖実録』第19巻 16年(1816年丙子/嘉慶21年) 旧暦7月13日(庚午)1項目
  8. ^ 『純祖実録』第19巻 16年(1816年丙子/嘉慶21年) 旧暦7月15日(壬戌)2項目
  9. ^ 大典会通では嘉義大夫。官位は従二品上階。
  10. ^ 『承政院日記』(1816年丙子/嘉慶21年) 旧暦12月17日(辛卯)
  11. ^ 大典会通では資憲大夫。官位は正二品下階。
  12. ^ 『純祖実録』第20巻 17年(1817年丁丑/嘉慶22年) 旧暦12月15日(甲申)2項目
  13. ^ 『承政院日記』(1820年庚申/嘉慶25年) 旧暦7月21日(乙亥)
  14. ^ 『承政院日記』(1820年庚申/嘉慶25年) 旧暦9月7日(庚申)
  15. ^ 大典会通では正憲大夫。官位は正二品上階。
  16. ^ 『承政院日記』(1820年庚申/嘉慶25年) 旧暦11月8日(辛酉)
  17. ^ 大典会通では崇政大夫。官位は従一品下階。
  18. ^ 『承政院日記』(1821年辛巳/道光1年) 旧暦1月1日(癸丑)
  19. ^ 『純祖実録』第23巻 21年(1821年辛巳/道光1年) 旧暦3月9日(己未)4項目
  20. ^ a b 大典会通では崇禄大夫。官位は従一品上階。
  21. ^ 『承政院日記』(1822年壬午/道光2年) 旧暦3月12日(丁巳)
  22. ^ 『純祖実録』第25巻 22年(1822年壬午/道光2年) 旧暦11月13日(癸未)1項目
  23. ^ 『承政院日記』(1822年壬午/道光2年) 旧暦12月25日(癸未)
  24. ^ 11781.8182km
  25. ^ 『承政院日記』(1823年癸未/道光3年) 旧暦2月20日(庚申)
  26. ^ 『承政院日記』(1823年癸未/道光3年) 旧暦2月20日(庚申)
  27. ^ 大典会通では輔国崇禄大夫。官位は正一品下階。
  28. ^ 『承政院日記』(1825年乙酉/道光5年) 旧暦1月12日(庚子)
  29. ^ 『純祖実録』第27巻 25年(1825年乙酉/道光5年) 旧暦6月11日(丁卯)3項目
  30. ^ 『承政院日記』(1826年丙戌/道光6年) 旧暦2月7日(己未)
  31. ^ 『承政院日記』(1828年戊子/道光8年) 旧暦2月2日(庚申)
  32. ^ 『承政院日記』(1828年戊子/道光8年) 旧暦2月29日(己亥)
  33. ^ 『純祖実録』第30巻 (1828年戊子/道光8年) 旧暦4月13日(壬午)1項目
  34. ^ a b 『承政院日記』(1828年戊子/道光8年) 旧暦4月13日(壬午)
  35. ^ 『承政院日記』(1828年戊子/道光8年) 旧暦8月12日(己卯)
  36. ^ 『承政院日記』(1828年戊子/道光8年) 旧暦9月8日(乙巳)
  37. ^ 『承政院日記』(1828年戊子/道光8年) 旧暦10月4日(庚午)
  38. ^ 『承政院日記』(1828年戊子/道光8年) 旧暦10月4日(庚午)
  39. ^ 『純祖実録』第30巻 29年(1829年己丑/道光9年) 旧暦3月6日(庚子)2項目
  40. ^ 『承政院日記』(1831年辛卯/道光11年) 旧暦7月2日(壬子)
  41. ^ 『純祖実録』第34巻 34年(1834年甲午/道光14年) 旧暦11月13日(甲戌)19項目
  42. ^ 大典会通では上輔国崇禄大夫。官位は正一品上階。
  43. ^ 『承政院日記』(1834年甲午/道光14年) 旧暦12月16日(丙午)
  44. ^ 『承政院日記』(1835年乙未/道光15年) 旧暦10月5日(丙午)
  45. ^ 『承政院日記』(1836年丙申/道光16年) 旧暦3月20日(癸卯)
  46. ^ 『承政院日記』(1836年丙申/道光16年) 旧暦12月24日(癸酉)
  47. ^ 永遠に尊敬される高宗の始祖
  48. ^ 『承政院日記』(1864年甲子/同治3年) 旧暦8月22日(甲寅)
  49. ^ 『承政院日記』(1865年乙丑/同治4年) 旧暦1月14日(庚戌)
  50. ^ 『純祖実録』第3巻 3年(1866年丙寅/同治5年) 旧暦2月18日(戊申)3項目
  51. ^ 『純祖実録』第3巻 3年(1866年丙寅/同治5年) 旧暦7月13日(己巳)2項目