鳥居強右衛門

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鳥居 強右衛門
Escape of Torii Suneemon.jpg
長篠城を密かに脱出する鳥居強右衛門(月岡芳年画)
時代 戦国時代
生誕 天文9年(1540年
死没 天正3年(1575年5月16日(もしくは17日)
別名 勝商(諱)
墓所 新昌寺および甘泉寺(共に愛知県新城市
主君 奥平貞昌
氏族 鳥居氏

鳥居 強右衛門(とりい すねえもん)は、戦国時代足軽奥平家の家臣。名は勝商(かつあき)。

生涯[編集]

鳥居強右衛門が歴史の表舞台に登場するのは、天正3年(1575年)の長篠の戦いの時だけで、それまでの人生についてはほとんど知られていない。現存する数少ない資料によると、彼は三河国宝飯郡内(現在の愛知県豊川市市田町)の生まれで、当初は奥平家の直臣ではなく陪臣であったとも言われ、長篠の戦いに参戦していた時の年齢は数えで36歳と伝わる。

奥平氏はもともと徳川氏に仕える国衆であったが、元亀年間中は甲斐武田氏の侵攻を受けて、武田家の傘下に従属していた。ところが、武田家の当主であった武田信玄が元亀4年(1573年)の4月に死亡し、その情報が奥平氏に伝わると[1]、奥平氏は再び徳川家に寝返り、信玄の跡を継いだ武田勝頼の怒りを買うこととなった。

奥平家の当主であった奥平貞能の長男・貞昌(後の奥平信昌)は、三河国の東端に位置する長篠城徳川家康から託され、約500の城兵で守備していたが、天正3年5月、長篠城は勝頼が率いる1万5,000の武田軍に攻囲された。5月8日の開戦に始まり、11、12、13日にも攻撃を受けながらも、周囲を谷川に囲まれた長篠城は何とか防衛を続けていた。しかし、13日に武田軍から放たれた火矢によって、城の北側に在った兵糧庫を焼失。食糧を失った長篠城は長期籠城の構えから一転、このままではあと数日で落城という絶体絶命の状況に追い詰められた。そのため、貞昌は最後の手段として、家康のいる岡崎城へ使者を送り、援軍を要請しようと決断した(一方、岡崎城の家康もすでに武田軍の動きを察知しており、長篠での決戦に備えて同盟者の織田信長に援軍の要請をしていた)。しかし、武田の大軍に取り囲まれている状況の下、城を抜け出して岡崎城まで赴き、援軍を要請することは不可能に近いと思われた。

この命がけの困難な役目を自ら志願したのが強右衛門であった。14日の夜陰に乗じて城の下水口から出発。川を潜ることで武田軍の警戒の目をくらまし、無事に包囲網を突破した。翌15日の朝、長篠城からも見渡せる雁峰山から烽火を上げ、脱出の成功を連絡。当日の午後に岡崎城にたどり着いて、援軍の派遣を要請した。この時、幸運にも家康からの要請を受けた信長が武田軍との決戦のために自ら3万の援軍を率いて岡崎城に到着しており、織田・徳川合わせて3万8,000の連合軍は翌日にも長篠へ向けて出発する手筈となっていた。これを知って喜んだ強右衛門は、この朗報を一刻も早く味方に伝えようと、すぐに長篠城へ向かって引き返した[2]。16日の早朝、往路と同じ山で烽火を掲げた後、さらに詳報を伝えるべく入城を試みた。ところが、城の近くの有海村(城の西岸の村)で、武田軍の兵に見付かり、捕らえられてしまった。烽火が上がるたびに城内から上がる歓声を不審に思う包囲中の武田軍は、警戒を強めていたのである。

城中に援軍が来ることを伝える鳥居強右衛門
楊洲周延画)明治26年(1893年

強右衛門への取り調べによって、織田・徳川の援軍が長篠に向かう予定であることを知った勝頼は、援軍が到着してしまう前に一刻も早く長篠城を落とす必要性に迫られた。そこで勝頼は、命令に従えば強右衛門の命を助けるばかりか武田家の家臣として厚遇することを条件に、援軍は来ないからあきらめて城を明け渡すべきと虚偽の情報を城に伝えるよう、強右衛門に命令した。こうすれば城兵の士気は急落して、城はすぐにでも自落すると考えたのである。強右衛門は勝頼の命令を表向きは承諾し、長篠城の西岸の見通しのきく場所へと引き立てられた。しかし、最初から死を覚悟していた強右衛門は、あと二、三日で援軍が来るからそれまで持ちこたえるようにと城に向かって叫んだ。これを聞いた勝頼は怒り、その場で部下に命じて強右衛門を殺した。しかし、強右衛門の報告のおかげで「援軍近し」の情報を得ることができた貞昌と長篠城の城兵たちは、強右衛門の死を無駄にしてはならないと士気を奮い立たせ、援軍が到着するまでの2日間、武田軍の攻撃から城を守り通すことに成功した。援軍の総大将であった信長も、長篠城の味方全員を救うために自ら犠牲となった強右衛門の最期を知って感銘を受け、強右衛門の忠義心に報いるために立派な墓を建立させたと伝えられている。

逸話[編集]

  • 強右衛門の死は「斬られて死んだ[3]」「にされた[4]」の2種類が伝わっている。なお、強右衛門の記録のうち最も古いものは『甫庵信長記』、次いで『三河物語』で、それ以前の『信長公記』などには全く登場しない。また上記の死以外にも、『甫庵信長記』と『三河物語』では内容に異なる部分がある。
  • 強右衛門が長篠城を脱出する際、鈴木 金七郎 重政(すずき きんしちろう しげまさ)という名の足軽が同行、または第二の使者として続いたとする説がある。『総見記』『常山紀談』『長篠日記』には、金七郎が強右衛門と共に長篠城を脱出し、岡崎城への使者となった旨が記されている。新城市所在の禅源寺の古文書にも同様の記述があり、川路村(現・新城市川路)にも同様の伝承がある。『四戦紀聞』『武徳大成記』には強右衛門の後を追う形で金七郎が派遣されたことが記されている。しかし、『寛永諸家系図伝』『寛政重修諸家譜』の奥平家系図の記載や『三河物語』には金七郎についての記述は見られない[5]。また、強右衛門と共に金七郎が使者になったとする上記の各資料においても、援軍要請の役目を果たした後に長篠城へ向かって引き返したのは強右衛門だけで、金七郎はそのまま岡崎城に残り、強右衛門のように英雄として名を残すことはなかったとされている。
  • 強右衛門は死を覚悟で長篠城を脱出する際、「我が君の命に代わる玉の緒の何いとひけむ武士(もののふ)の道」という辞世の句を残したと伝えられる。主君を助けるためには自分の命を犠牲にすることもいとわない武士道の理想を象徴する和歌とされているが、この和歌の原文が刻まれている新昌寺の強右衛門の墓碑は、強右衛門の死から200年近くも経った宝暦13年(1763年)に新しく建立されたものであり、この和歌が実際に強右衛門本人の作であるという保証はない。
  • 強右衛門が磔にされるまでのわずかな間、強右衛門の監視をしているうちに親しくなったという武田家の家臣・落合左平次道久が、強右衛門の忠義心に感動し、磔にされている強右衛門の姿を絵に残して、これを旗指物として使ったという。これを描き直した物が現存している[6]
  • 強右衛門の主家である奥平家では、家運を高めたこの戦を後に「開運戦」と呼び、家康の縁者となった貞昌は岡崎譜代の家臣に引けをとらぬ待遇を獲得した。
  • 強右衛門の子孫は、高名となった強右衛門の通称を代々受け継いだ。強右衛門勝商の子・信商は、父の功により100石を与えられ、貞昌の子・松平家治に付属した。家治が早世すると貞昌の許に戻り、関ヶ原の戦いに従軍、京都で安国寺恵瓊を捕縛する大功により200石に加増された。その後、貞昌の末子・松平忠明が家康の養子として分家(奥平氏の支流。現埼玉県行田市にあった忍藩で明治維新を迎えた奥平松平家)を興すに至り、信商を家臣にもらい受けている。また、13代目の商次家老になるなど、子孫は家中で厚遇された。強右衛門の家系は現在も存続している。
  • 強右衛門の命を賭して主君への忠義を尽くした行為は、太平洋戦争中には『戦陣訓』と関連付けて評価された。
  • JR東海飯田線鳥居駅は、強右衛門の最期の地にちなんでの命名である。また、強右衛門の妻の故郷である作手村(新城市作手)の甘泉寺には、織田信長が強右衛門を弔うために建立させたと伝えられる墓が今でも残っている。

鳥居強右衛門を題材とした作品[編集]

  • 「炎の武士」(池波正太郎著、角川文庫『炎の武士』表題作、ISBN 978-4-04-132340-3
  • 鳥居強右衛門 (1942年, 監督:内田吐夢, 鳥居強右衛門役:小杉勇)

関係史料[編集]

参考文献[編集]

  • 金子拓 「鳥居強右衛門の虚像と実像」(『iichiko』110号、2011年春)
  • 平山優 『敗者の日本史9 長篠合戦と武田勝頼』(吉川弘文館、2014年)
  • 丸山彭編 『烈士鳥居強右衛門とその子孫』( 愛知県鳳来町立長篠城趾史跡保存館、1973年)
  • 小島道裕「「落合左平次背旗」はどう見えるか ─上か下か─」(展図録『天下統一と城』国立歴史民俗博物館、2000年)
  • 黒田日出男「鳥居強右衛門はどう見えるか」(『一冊の本』2002年)、のちに『黒山に龍はいた』2004年に再録
  • 藤本正行「鳥居強右衛門の旗について」(『武田氏研究会』26号、2002年)

脚注[編集]

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  1. ^ 武田信玄は、息子の勝頼が次期当主として十分に成長するまで、自分の死を少なくとも3年間は秘匿するよう遺言していたにも関わらず、信玄死亡の情報は本人の死後わずか1ヵ月足らずで織田氏や徳川氏などの諸大名にも伝わっていた。
  2. ^ 信長と家康はこの時、武田軍が包囲している長篠城へ一人で戻るのは危険だから援軍と共に明日出発するよう勧め、強右衛門に休息を与えようとしたが、強右衛門はこれを断り、ほとんど休みもせずに長篠へ戻って行ったという。なお、当時の長篠城から岡崎城までの行程は片道約65kmであり、強右衛門は往復で約130kmの山道をわずか1日余で走り通したことになる。
  3. ^ 甫庵信長記
  4. ^ 三河物語など
  5. ^ 新城地区郷土研究会編『郷土』〜「強右衛門と金七郎、二人脱出の説検証」〜夏目利美
  6. ^ 東京大学史料編纂所蔵『落合左平次道次背旗 鳥居強右衛門勝高逆磔之図』
  7. ^ 小島道裕は、この旗の箱書きに「逆磔之図」とあることなどを根拠に、上下逆の逆磔の図だと論じた(「「落合左平次背旗」はどう見えるか ─上か下か─」『天下統一と城』展図録、国立歴史民俗博物館、2000年)。しかし、黒田日出男藤本正行などは、原本が徳川家に献上された時の由緒書や、旗指物一般の構造からこれに反論している(黒田日出男「鳥居強右衛門はどう見えるか」『一冊の本』2002年。のち『黒山に龍はいた』、2004年に再録)(藤本正行「鳥居強右衛門の旗について」『武田氏研究会』26号、2002年)。また、明治5年(1872年)に取られた現在の軸装以前の写真(『東京国立博物館所蔵幕末明治期写真資料目録1 図版編』国書刊行会、1999年、p.154、ISBN 978-4-336-04154-8)では、名称こそ「鳥居強右衛逆磔圖指物」となっているが、向かって左と上部に袋乳と思しき生地が見られ、逆磔では有り得ないと確認できる。
  8. ^ 当初、強右衛門の墓は新昌寺に建立されたが、慶長8 (1603) 年に甘泉寺へ移設された。写真の新昌寺の墓碑(中央奥)は宝暦13 (1763) 年に新しく建立されたもので、大正8 (1919) 年に墓所の大規模な拡張工事が行われている。

外部リンク[編集]