越生鉄道キハ1形気動車

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越生鉄道キハ1形気動車(おごせてつどうキハ1がたきどうしゃ)は、現在の東武越生線の前身である越生鉄道が新造したガソリンカーである。

概要[編集]

1932年(昭和7年)2月17日に部分開業した越生鉄道は、暫定的に砂利輸送を目的とした貨物運輸営業のみを行っていたが、1934年(昭和9年)12月16日越生全通時に旅客運輸営業を始めることになった。

このためガソリン客車を用意することになり、1934年7月31日に、ガソリン動力併用認可申請および車両設計認可申請を行い、同年9月11日にガソリン動力併用認可、同10月25日に車両設計認可を受けた。車両製造は日本車輌製造東京支店に発注し、10月に2両(キハ1・2)が製造された。11月15日に車両竣工届を提出し、この2両体制で12月16日の越生全通に備えた。

その後乗客が増加し、車両数が不足したため1935年(昭和10年)10月5日認可申請、同年12月3日認可、同月28日竣工届でキハ3形キハ3を増備し、3両体制となった。

キハ1形、キハ3形とも全長7,370mm、車体幅2,640mm、自重6.5tの半鋼製の4輪車で、定員40人(うち座席20人)、前面は2枚窓の平妻、配置は1D5D1(D:客用扉)である。キハ1形は機関がフォードB型で装架方式が両軸支え式、軸距が3,000mmであったが、キハ3形の機関はウォーケシャ6-MS型で機関装架方式は吊り下げ式、軸距が3,500mmという違いがある。キハ3形は、貨車の牽引を狙って機関の出力を増強しており、自重も7.5tとキハ1形に比べて1t増加した。ブレーキ装置はキハ1形では手用のみであったが、キハ3形は空気ブレーキも装備した。動力伝達方式は機械式である。

同形車には、相模鉄道キハ1形高知鉄道キハ101南総鉄道キハ103があり、屋根上通風器ガラリの有無、機関が異なる程度であった。キハ3は一連のシリーズの最後の製品である。

戦時体制となりガソリン不足から1942年(昭和17年)2月16日認可申請、同年7月10日認可でキハ1・2に木炭瓦斯発生装置を取り付け、代燃車となった。しかしエンジンの始動が困難で、乗客も加わり押しがけしなければならず、延発も頻繁であった。

1943年(昭和18年)7月1日に越生鉄道が東武鉄道買収され、同社の越生線となった後も使用されたが、越生線が1944年(昭和19年)12月1日に、軍部により不要不急線とみなされ休止されると、キハ1・2は栃木県荒針の中島飛行機の工員輸送に使用されることになった。太平洋戦争が終結した1945年(昭和20年)11月30日に越生線が復活することになり、キハ1・2は再び越生線で使用された。戦後の越生線は利用客が激増し、蒸気機関車列車を投入するなど増発増結で対応していたが、1950年(昭和25年)7月24日電化され、キハ1・2は使用されなくなった。同年4月3日車両番号変更届で、キハ1形キハ1・2はキハ3形キハ3(2代)・4に改番された[1]が、川越機関区に放置されたまま、1954年(昭和29年)に廃車となった。

キハ3(初代)は、戦時中に日産自動車に譲渡され、吉原の専用線で使用されたのち、大井川鉄道(現・大井川鐵道)に転じ、キハ10形(キハ11)と称していたが、実際は客車として使用され、1956年(昭和31年)に廃車された。

参考文献[編集]

  • 矢島秀一『懐かしい沿線写真で訪ねる東武東上線 街と駅の1世紀』、彩流社、2013年 ISBN 978-4-7791-1722-0
  • 新井良輔「想い出の越生鉄道」『鉄道ファン』No.47
  • 中川浩一「多彩をきわめた気動車群」『鉄道ピクトリアル』No.115(『鉄道ピクトリアルアーカイブス』No.23に再録)
  • 白井良和「大井川鉄道」『鉄道ピクトリアル』No.436
  • 湯口徹『内燃動車発達史』上下巻、ネコ・パブリッシング、2005年 ISBN 4-7770-5087-4 / ISBN 4-7770-5118-8
  • 国立公文書館所蔵『鉄道省文書』
    • 鉄道免許・越生鉄道(東武鉄道)2・昭和7〜9年 本館-3B-014-00・平12運輸02085100
    • 鉄道免許・東武鉄道・昭和10〜17年 本館-3B-014-00・平12運輸02067100
    • 地免・東武鉄道・昭和24〜26年 本館-3B-013-00・平12運輸00146100

脚注[編集]

  1. ^ これは買収によりキハ1・2を名乗る車両が3両ずつ(他に上州鉄道からの車両、下野電気鉄道からの車両)あったためとされている