田村廿三郎
たむら はたさぶろう 田村 廿三郎 | |
---|---|
生誕 |
1890年6月13日 大日本帝国 新潟県中蒲原郡鷲巻村西笠巻 (現 新潟市南区西笠巻) |
死没 | 1961年1月6日 (70歳没) |
出身校 |
千葉医学専門学校 (現 千葉大学医学部) |
職業 |
医師、実業家、議会議員 イチジク製薬社長 江戸川区議会議員 |
著名な実績 | 「イチジク浣腸」の考案 |
田村 廿三郎(たむら はたさぶろう、1890年〈明治23年〉6月13日 - 1961年〈昭和36年〉1月6日)は、日本の内科医、小児科医、実業家。イチジク製薬創業者・初代社長。「イチジク浣腸」の考案者。
略歴
[編集]新潟県中蒲原郡鷲巻村大字西笠巻(現 新潟県新潟市南区西笠巻)の医師・田村篤司の三男として出生[1][2][注 1][注 2]。
1909年(明治42年)3月に新潟中学校を卒業[注 3]、1914年(大正3年)9月に千葉医学専門学校医学科に入学、1918年(大正7年)5月に同校を卒業[12]。
千葉県東葛飾郡市川町大字市川字上出口(現 千葉県市川市市川)の吉岡医院に勤務したのち、1920年(大正9年)に東京府南葛飾郡瑞江村大字上今井[注 4](現 東京都江戸川区江戸川)に田村医院を開業[1][13]。
1925年(大正14年)に「イチジク印輕便浣腸」を考案[1][14][15]、1926年(大正15年)に東京府東京市本所区柳島元町[注 5](現 東京都墨田区業平)に合資会社東京軽便浣腸製造所[注 6][注 7](現 イチジク製薬)を設立して初代社長に就任[15]。
1935年(昭和10年)に東北鉄道鉱業[注 8]取締役に就任、1936年(昭和11年)に東京府医師会議員に就任[16]。
1939年(昭和14年)頃にイチジク製薬会長に就任、1940年(昭和15年)に江戸川区会議員に就任[注 9]、1942年(昭和17年)に江戸川区医師会会長に就任[16][注 10]。
1950年(昭和25年)頃にイチジク製薬相談役に就任[20]。
「イチジク浣腸」の開発
[編集]大正時代、東京の開業医・田村廿三郎は昼も夜も発熱やひきつけなどを起こした子供の急患の往診に走り回っていたが、その多くが注射器で浣腸を行って排便させると治ることを見つけ、便秘で苦しむ子供を早く楽にしてあげたいという思いから、家庭で簡単に使える浣腸の開発を行った。浣腸の形状には田村廿三郎が往診の時に患者の家の番犬を沁みる液体で撃退するため考案したスポイトを採用した。素材に採用したセルロイドは硬くて割れやすいため、薬液が漏れないよう皮膜を被せた。挿入部は、長すぎると直腸の粘膜を傷付け、短すぎると薬液が直腸に届かないため、肛門から直腸までの長さにした。挿入部の先端の穴は、広すぎると薬液が勢いよく出なく、狭すぎると薬液が少ししか出ないため、ちょうどよい口径に調節した。そして、何よりも、肛門を痛めないように、挿入部を滑らかにする加工技術の向上に多くの時間と心血を注いだ。1953年(昭和28年)に同年から普及し始めたポリエチレンを素材に採用し、セルロイドの欠点を解消した[21][22][23][24][25]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 田村廿三郎の祖父の田村幸庵も越後国蒲原郡西笠巻村の医師で、自宅に寺子屋を開いて付近の子供たちに読み書きなどを教えていた[3]。
- ^ 田村廿三郎の父の田村篤司が診療していた胃癌の患者が亡くなり、田村篤司ら4人の医師が病理解剖を行った。田村篤司からその亡くなった患者への慰霊と感謝の意を込めた文が刻まれている墓碑が新潟県新潟市南区朝捲の東福寺の境内に立っている[4]。
- ^ 1905年(明治38年)10月5日に新潟市の萬代橋付近の信濃川で開催された三校端艇競漕会の判定を巡って新潟中学校と新潟商業学校の間で争いが起き、11月6日に田村廿三郎ら新潟中学校の全校生徒500人以上が新潟商業学校を襲撃した[5][6][7][8][9][10][11]。
- ^ 1932年(昭和7年)に東京府東京市江戸川区今井町に町名変更。
- ^ 1931年(昭和6年)に東京府東京市本所区平川橋に町名変更。
- ^ 1934年(昭和9年)にイチジク製薬株式会社に改組[15]。
- ^ 1947年(昭和22年)に東京都墨田区東駒形に移転[15]。
- ^ 1936年(昭和11年)に岩手炭砿鉄道に名称変更。
- ^ 田村廿三郎の父の田村篤司も新潟県中蒲原郡鷲巻村の村会議員を務めていた。任期の途中、1914年(大正3年)4月に死去した[17]。
- ^ 田村廿三郎の弟の田村致道は歯科医師で、1925年(大正14年)に東京府南葛飾郡瑞江村大字上今井に田村歯科医院を開業し、のちに神奈川県横浜市鶴見区鶴見町に移転した[18]。1943年(昭和18年)に死去。田村致道の次女の田村尚子は現代舞踊家である[19]。
出典
[編集]- ^ a b c 田村医院の歴史|江戸川区内科|田村医院
- ^ 『日本醫籍錄』第1版。『日本醫籍錄』第4版。『日本醫籍錄』第7版。『日本醫籍錄』第11版。『日本醫籍錄』第17版。
- ^ 『中蒲原郡誌 上編』「鷲卷村誌」8頁。『中蒲原郡誌 上編』612頁。『中蒲原郡誌 白根市編』58頁。『新潟県 精髄 中蒲原郡誌〈上編〉』72頁。『白根市史 巻七 通史』475頁。
- ^ 『白根市史 巻七 通史』752頁。
- ^ 田村廿三郎は新潟中学校の教員について「少しの怒気も含まず、諄々と諭すやうな声で帰校を促している様は興奮している僕さへも気の毒な感じがした」と述べている。— 田村廿三郎「新潟商業学校襲撃事件の思い出」『半世紀』1959年。『青山百年史』106頁。
- ^ 田中耕太郎(第2代最高裁判所長官)や田中利助(2代目三遊亭円歌)らも襲撃している。『青山百年史』126頁。『青陵回顧録』65頁。『私の履歴書』14頁。『私の履歴書 第十三集』311頁。『私の履歴書 文化人 15』311頁。『青山同窓会會報』第2号、4面。
- ^ 鈴木良治(洋画家)ら首謀者の6名は放校処分となり(のちに再入学許可)、伊藤武夫(新潟大学名誉教授)、真保一輔(新潟大学名誉教授)、富田温一郎(洋画家)、米山久馬(陸軍少将)など66名は無期停学となった。『新潟新聞』1905年11月13日、2面。
- ^ 新潟中学校の校長の多田綱宏は11月24日に辞職し、12月5日に家族と共に東京へ去った。次男の多田武雄(海軍中将)は東京府立第一中学校へ転校した。『青山百年史』87・110頁。『新潟新聞』1905年11月29日、3面。『新潟新聞』1905年12月6日、2面。
- ^ 『新潟新聞』1905年10月6日、1面 - 『新潟新聞』1905年11月7日、2面。
- ^ 『新潟県大百科事典 上巻』610頁。『新潟県大百科事典』復刻デスク版、845頁。『新潟県体育協会五十年史』28-29頁。『新潟県教育百年史 明治編』847-853頁。『信濃川百年史』320-321頁。『葦原百年史』29-34頁。『青山百年史』100-112頁。
- ^ 三校ボートレース事件│新潟商業歴史図説│電子校歴室│新潟商業高等学校 葦原同窓会
- ^ 『日本醫籍錄』第1版。『日本醫籍錄』第4版。『日本醫籍錄』第7版。『日本醫籍錄』第11版。『日本醫籍錄』第17版。『日本醫籍錄』第19版。『日本醫籍錄』第24版。『日本醫籍錄』第26版。
- ^ 『日本醫籍錄』第4版。『日本醫籍錄』第7版。『日本醫籍錄』第11版。『日本醫籍錄』第17版。
- ^ 『日本醫籍錄』第4版。『日本醫籍錄』第7版。『日本醫籍錄』第11版。『日本醫籍錄』第17版。『日本醫籍錄』第19版。『日本醫籍錄』第24版。
- ^ a b c d 会社沿革 | 便秘解消にイチジク浣腸 | イチジク製薬株式会社
- ^ a b 『日本醫籍錄』第17版。
- ^ 『白根市史料 第六集』29頁。
- ^ 『日本醫籍錄』第2版。『日本齒科醫籍錄』211頁。
- ^ 「現代舞踊家 田村尚子」『私の半生』第11号、田村尚子[話]、佐藤文子[記]、信濃毎日新聞松本専売所、松本タウン情報社、2003年。
- ^ 『日本醫籍錄』第19版。『日本醫籍錄』第24版。
- ^ 会社歴史 | イチジク浣腸情報サイト | イチジク製薬株式会社
- ^ イチジク浣腸|家庭薬ロングセラー物語|日本家庭薬協会
- ^ 躍進する企業を訪ねて vol.134 イチジク製薬株式会社: 株式会社 日立産機システム
- ^ 「イチジク浣腸の歴史」「子どもの急病で困ったときは、浣腸を!」『Happy-Note』2014年夏号、草刈章[著]、ミキハウス子育て総研、2014年。
- ^ 『餅屋の論理』22-26頁。『家庭薬ロングセラーの秘密』14頁。『ファルマシア』第50巻第2号、154-155頁。『VoltAge21』第92号、1-2頁。
参考文献
[編集]- 「田村廿三郞」『日本醫籍錄』第1版、「東京府」169頁、医事時論社[編]、医事時論社、1925年。
- 「田村廿三郞」『日本醫籍錄』第4版、「東京府」138頁、医事時論社[編]、医事時論社、1929年。
- 「田村廿三郞」『日本醫籍錄』第7版、「東京府」165頁、医事時論社[編]、医事時論社、1932年。
- 「田村廿三郞」『日本醫籍錄』第11版、「東京府」154頁、医事時論社[編]、医事時論社、1936年。
- 「田村廿三郞」『日本醫籍錄』第17版、「東京府」279頁、医事時論社[編]、医事時論社、1942年。
- 「田村廿三郞」『日本醫籍錄』第19版、「東京都」156頁、医学公論社[編]、医学公論社、1951年。
- 「田村廿三郎」『日本醫籍錄』第24版、「東京都」271頁、医学公論社[編]、医学公論社、1956年。
- 「田村廿三郎」『日本醫籍錄』第26版、「東京都」320頁、医学公論社[編]、医学公論社、1958年。
- 「田村致道」『日本醫籍錄』第2版、「齒科醫師之部」「東京府」72頁、医事時論社[編]、医事時論社、1926年。
- 「田村致道」『日本齒科醫籍錄』211頁、日本歯科医師会[編]、歯苑社、1930年。
- 「田村幸庵」『中蒲原郡誌 上編』「鷲卷村誌」8頁、新潟県中蒲原郡役所[編]、新潟県中蒲原郡役所、1918年。
- 「田村幸庵」『中蒲原郡誌 上編』612頁、新潟県中蒲原郡役所[編]、名著出版、1973年。
- 「田村幸庵」『中蒲原郡誌 白根市編』58頁、新潟県中蒲原郡役所[編]、臨川書店、1986年。
- 「田村幸庵」『新潟県 精髄 中蒲原郡誌〈上編〉』72頁、新潟県中蒲原郡役所[編]、千秋社、2000年。
- 『白根市史 巻七 通史』白根市教育委員会[編]、白根市教育委員会、1989年。
- 『白根市史料 第六集』白根市史編さん室[編]、白根市史編さん室、1980年。
- 「三校レースに就ての紛爭」『新潟新聞』1905年10月6日、1面、新潟新聞社、1905年。
- 「三校レース紛爭の結果」『新潟新聞』1905年10月9日、2面、新潟新聞社、1905年。
- 「縣立両校の紛騷 事態愈よ重大」『新潟新聞』1905年10月11日、2面、新潟新聞社、1905年。
- 「中學 商業 兩校生徒の爭鬪」『新潟新聞』1905年11月5日、3面、新潟新聞社、1905年。
- 「中學生大擧して商業學校を襲ふ」『新潟新聞』1905年11月7日、2面、新潟新聞社、1905年。
- 「中學生の處分」『新潟新聞』1905年11月13日、2面、新潟新聞社、1905年。
- 「中學校長事務取扱」『新潟新聞』1905年11月29日、3面、新潟新聞社、1905年。
- 「多田元新潟中學校長」『新潟新聞』1905年12月6日、2面、新潟新聞社、1905年。
- 『新潟県大百科事典 上巻』新潟日報事業社[編]、新潟日報事業社、1977年。
- 『新潟県大百科事典』復刻デスク版、新潟日報事業社出版部[編]、新潟日報事業社出版部、1984年。
- 『新潟県体育協会五十年史』新潟県体育協会[編]、新潟県体育協会、1982年。
- 『新潟県教育百年史 明治編』新潟県教育百年史編さん委員会[編]、新潟県教育庁、1970年。
- 『信濃川百年史』建設省北陸地方建設局[編]、北陸建設弘済会、1979年。
- 『葦原百年史』新潟県立新潟商業高等学校内創立100周年記念事業実行委員会[編]、新潟県立新潟商業高等学校内創立100周年記念事業実行委員会、1983年。
- 『青山百年史』新潟県立新潟高等学校[編]、新潟高等学校創立百周年記念実行委員会、1992年。
- 『青陵回顧録』小林力三・武田慎三郎[編]、新潟県立新潟高等学校、1952年。
- 『私の履歴書』田中耕太郎[著]、春秋社、1961年。
- 『私の履歴書 第十三集』田中耕太郎・ほか[著]、日本経済新聞社、1961年。
- 『私の履歴書 文化人 15』田中耕太郎・ほか[著]、日本経済新聞社、1984年。
- 「円歌師匠と語る(思い出) (PDF) 」『青山同窓会會報』第2号、4面、田中利助[話]、湊元克巳[記]、青山同窓会、1966年。
- 「イチジク浣腸」『餅屋の論理』19-27頁、TBS[編]、ザ・ワークス[監修]、ワニブックス、1992年。
- 「イチジク浣腸」「家庭薬ロングセラー物語」『家庭薬ロングセラーの秘密』14-15頁、家庭薬研究会[編著]、全国家庭薬協議会[協力]、薬事日報社、2010年。
- 「イチジク浣腸」『ファルマシア』第50巻第2号、154-155頁、三宅貴子[著]、日本薬学会、2014年。
- 「イチジク製薬株式会社 (PDF) 」『VoltAge21 (PDF) 』第92号、1-5頁、日立産機システム、2017年。