「サクラシンゲキ」の版間の差分

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'''サクラシンゲキ'''とは、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]である。典型的な[[脚質#逃げ|逃げ馬]]で逃げ一辺倒の戦法の個性派として人気があった。そのレーススタイルから'''日の丸特攻隊'''というニックネームがつけられた。[[1981年]]に[[JRA賞最優秀短距離馬|優駿賞スプリンター賞]]を受賞。
'''サクラシンゲキ'''(欧字名:{{Lang|en|Sakura Shingeki}}、[[1977年]][[3月5日]] - [[1994年]][[8月20日]])は、[[日本]]の[[競走馬]]、[[種牡馬]]<ref name="jbis">{{Cite web|title=サクラシンゲキ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000100485/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-06-21}}</ref>。


典型的な[[脚質#逃げ|逃げ馬]]で逃げ一辺倒の戦法の個性派として人気を集めた。[[第1回ジャパンカップ]]では、一度もハナを譲ったことのないことで評判の逃げ馬、カナダ代表のブライドルパースを上回る逃げを展開。そのレースぶりから「'''日の丸特攻隊'''」と評された。[[1981年]]の[[JRA賞最優秀短距離馬|優駿賞スプリンター賞]]。
すぐ下の半妹にあたるサクラスマイルは1981年の[[エリザベス女王杯]]に3着し、[[サクラショウリ]]との間に[[サクラスターオー]]を送り出したが、スターオー1頭のみを残して死亡した。また、[[1986年]]の[[天皇賞#天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]の優勝馬であり、種牡馬としても活動した[[サクラユタカオー]]はサクラシンゲキの半弟である。


兄弟に、[[1986年]]の[[天皇賞#天皇賞(秋)|天皇賞(秋)]]を制した[[サクラユタカオー]]、[[繁殖牝馬]]として[[サクラスターオー]]を産んだサクラスマイルがいる。
※[[馬齢]]は全て旧表記(数え年)にて表記する。


== 戦績 ==
== 生涯 ==
「サクラ」の[[冠名]]・[[境勝太郎]]厩舎・[[主戦騎手]]の[[小島太]]は、馴染みあるの組み合わせであった。ただ、3歳から4歳春クラシック前までは境厩舎所属の[[東信二]]が騎乗していた。その後は小島が主戦となったが、数回ほど東も騎乗した。


=== デビューまで ===
1979年の夏に函館競馬場でデビューし3歳時は3戦3勝、いずれも逃げ切りで勝利した。
アンジェリカは[[ネヴァービート]]産駒で、祖母に[[スターロツチ|スターロッチ]]を持ち、競走馬として21戦2勝の成績を残した<ref>{{Cite web|title=アンジエリカ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000037537/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-06-21}}</ref>。引退後は、生まれ故郷の北海道静内町藤原牧場で[[繁殖牝馬]]となった。人の背中を噛みつくほどの荒い気性であった<ref name=":0">『優駿』1989年7月号 39頁</ref>。初年度は、[[ミンシオ]]が配合され、初仔の牝馬が誕生<ref group="注釈">後の[https://www.jbis.or.jp/horse/0000090365/ マヤノポート](5戦0勝)</ref>。続く2年目には、イタリア生産の輸入種牡馬[[ドン (競走馬)|ドン]]が配合された。ドンの祖父、アンジェリカの曽祖父は共に[[ナスルーラ]]であり、その配合から産まれる仔には、ナスルーラの血が18.75パーセントを占める「[[奇跡の血量]]」であった<ref name=":0" />。


1977年3月5日、藤原牧場で2番仔である[[鹿毛]]の[[牡馬]](後のサクラシンゲキ)が誕生、牧場の種付け台帳には「骨格品位良好」と評された<ref name=":0" />。同じ年に牧場で生産された8頭の中で最も評判が高く、また生産馬[[ハードバージ]]が[[皐月賞]]優勝した直後だったこともあり、「皐月」に母名を組み合わせた「'''サツキアンジェリカ'''」という幼名が与えられた。母に似て気性が荒く、2歳時の追い運動では、先頭でいることを好んでいた<ref name=":0" />。
4歳になってクラシック制覇も期待されるも、[[弥生賞]]で6着、[[皐月賞]]は不良馬場の影響か10着と大敗、日本ダービーでは逃げ粘るも4着に敗れた。秋になって[[京成杯オータムハンデキャップ|京王杯オータムハンデ]]を逃げ切って重賞初勝利をあげた。続いて[[セントライト記念]]に出走したが5着となって、距離が伸びる[[菊花賞]]には出走せず、関東の短中距離重賞路線に参戦することとなった。4歳で[[有馬記念]]に出走して10着に敗れた。


全演植がオーナーである株式会社[[さくらコマース]]に購買されて「'''サクラシンゲキ'''」と命名され、全の主戦である美浦の[[境勝太郎]]厩舎に入厩した<ref name=":0" />。
5歳になって[[スプリンターズステークス]]や京王杯オータムハンデなどを勝利して、短距離路線の関東馬の大将格となった。そしてこの年に新設された[[ジャパンカップ]]に日本馬代表の一頭として出走することとなった。ジャパンカップでは人気薄のなか直線半ばまで逃げ粘ったものの9着、その後2年連続で有馬記念に出走するも15着に敗れた。


=== 競走馬時代 ===
6歳になって、スプリンターズステークス、マイラーズカップと2戦連続で2着となったあと、宝塚記念に出走して8着に敗れ、宝塚記念を最後に現役を引退した。


==== 3歳(1979年) ====
サクラシンゲキの活躍した時期は[[グレード制]]や、短距離路線が整備される前の時代で、これらの整備が始まったのは引退して2年後の[[1984年]]からであった。小島も「あと数年生まれるのが遅かったら、シンゲキは間違いなくGIを取っていたと思う」と後年語っている。
8月3日、[[函館競馬場]]の[[新馬戦]](芝1000メートル)に、境厩舎所属の[[東信二]]が騎乗し、3番人気の支持でデビューした。スタートから逃げに出て、後方に4分の3馬身の差をつけて逃げ切り先頭で入線、レコードと同じタイムでの勝利であった<ref name=":1">『優駿』1989年7月号 40頁</ref>。2戦目の[[中央競馬のオープン特別競走#すずらん賞|すずらん賞]]でも、逃げに出て7馬身差の勝利。[[キタノダイオー]]が12年間保持していたレコードを0.1秒更新して2連勝とした<ref name=":1" />。9月16日、[[函館3歳ステークス]]に、1番人気に推されて出走。スタートから単独で逃げていたが、中途で追い上げる1頭と並ぶ場面も見られた。しかし、直線コースで差を広げて再び先頭となり、後方待機の追い込み勢を1馬身封じて、3連勝とした<ref name=":1" />。


北海道から美浦トレーニングセンターに帰還したが、9月27日に[[放馬]]し転倒。左後ろ肢の[[球節]]を[[剥離骨折]]し、その後出走することなく3歳を終えた<ref name=":1" />。
== 日の丸特攻隊 ==
サクラシンゲキの「'''日の丸[[特別攻撃隊|特攻隊]]'''」というニックネームは[[第1回ジャパンカップ]]のレース振りによるものである。


==== 4歳(1980年) ====
2400メートルは本馬が実績を残していた距離ではなく、[[ホウヨウボーイ]]、[[モンテプリンス]]といったこの時代のエース格といえる日本馬が出走、さらには海外からの招待馬も実績があり、サクラシンゲキは人気薄であった。逃げを打つことを予想されてはいたが、スタートから飛ばし1000メートル通過ラップが57秒8、1600メートル通過ラップが1分34秒7という、その当時の2400メートルのレースとしては異常なハイペースで逃げている。直線に向いても逃げ粘ったが、最後は馬群に飲み込まれて9着に終わった。しかし、出走馬の多くがこのハイペースに離されずについて行くという厳しいレースで、直線で後ろから襲いかかる海外からの招待馬を相手に回して逃げ粘る姿は、サクラ「シンゲキ」という馬名と相まって「死を覚悟の上で敵艦に体当たりする[[太平洋戦争]]末期の旧日本軍の航空機」を連想させたことから、のちに「日の丸特攻隊」というニックネームが付けられた。
1月26日、[[東京競馬場]]の[[オープン競走]]で復帰。以降、弥生賞や皐月賞にも挑戦したがいずれも敗れて4連敗。その後5月3日、東京競馬場のオープン競走(芝1600メートル)で復帰後初勝利を挙げた後には、[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]にも挑戦した<ref name=":1" />。東京優駿ではハナを奪って逃げ、最後の直線半ばまで先頭を保ち続けて4着となった。騎乗した小島太は「日本中の目が逃げたオレの馬に集中したはずだ。よく粘ったよ。」と振り返った<ref name=":1" />。


一休みして秋は、9月7日の[[京王杯オータムハンデキャップ]]で復帰、1番人気で出走した。再び逃げてスローペースを演出すると、後続の追い上げなくそのまま逃げ切り勝利<ref name=":1" />。後方に2馬身半離して、1年振りの重賞勝利を果たした。快勝したことに全は、[[セントライト記念]]の結果次第で[[菊花賞]]に出走することを決意した<ref name=":1" />。しかし、セントライト記念ではキタノリキオ―にハナを奪われ逃げることができず、5着に敗退、菊花賞参戦は幻になった<ref name=":1" />。その後、[[オールカマー]]や[[ダービー卿チャレンジトロフィー]]と連戦するも、勝利には至らず<ref name=":1" />。[[中山競馬場]]のオープン競走(芝1600メートル)で逃げ切り勝利したのち、[[有馬記念]]に参戦。[[プリティキャスト]]を上回る逃げを展開したが、オーバーペースとなり10着に敗退した<ref name=":1" />。
== おもな勝ち鞍 ==
*1979年(3歳)
**[[函館2歳ステークス|函館3歳ステークス]]
*1980年(4歳)
**京王杯オータムハンデ
*1981年(5歳)
**スプリンターズステークス
**京王杯オータムハンデ


==== 5歳 - 6歳(1981 - 82年) ====
== 種牡馬として ==
1月25日、ダートのオープン競走3着を叩き台として、2月22日の[[スプリンターズステークス]]に出走、単枠指定制度の対象となる中、1番人気に推された。逃げに出て、先頭で直線に入ると、再び加速。後方に6馬身差をつけて先頭で入線して勝利した<ref name=":1" />。騎乗した東は「僕はただつかまっていただけです。今のサクラシンゲキならだれが乗っても勝てますね」と振り返っていた<ref name=":1" />。その後、4月26日の[[京王杯スプリングハンデキャップ]]では、残り200メートルでシンボリフレンドにかわされて2着敗退。6月7日の安田記念では、トップハンデを担ったが、タケデンとジュウジアローにかわされ3着敗退。どちらも1番人気に推されたが、2連敗となった<ref name=":1" />。
引退後は種牡馬となった。複数の重賞馬を輩出した。


夏休みの後、9月6日の京王杯オータムハンデで復帰。1番人気に推されて変わらず逃げに出て、失速することなく逃げ切りを果たした<ref name=":2">『優駿』1989年7月号 41頁</ref>。外から追い上げたメジロクラウンをアタマ差退けての勝利、2連覇を果たした<ref name=":2" />。10月17日のオープン競走でも逃げ切り勝利を果たすと、[[第1回ジャパンカップ]]の日本代表に選出された<ref name=":2" />。
父親と同様に、短距離戦やマイル戦を得意とした逃げ馬が多い。内国産種牡馬として残した実績は、評価のあった自身のスピードに負うところが大きい<ref>当時の内国産種牡馬代表格であった[[アローエクスプレス]]、[[ハイセイコー]]は「スピードが売りの先行馬」である。</ref>。


ジャパンカップ参戦に当たり、騎乗する小島は「たとえ勝てなくても日本の快速馬の面目をかけてハナを切っていく」と逃げ宣言。カナダ代表でこれまで出走したすべてでハナを切るブライドルパースとの逃げ対決となった<ref name=":2" />。スタートから先手を主張するブライドルパースを抑え、単独で飛ばし前半の1000メートルを57.8秒で通過するなど、超ハイペースを刻んだ。最後の直線に入っても先頭であり続け、直線中間でアメリカ代表の[[メアジードーツ]]、カナダ代表のフロストキングなどにかわされたものの9着となった<ref name=":2" />。[[ホウヨウボーイ]]や[[モンテプリンス]]など日本代表の凡走ぶりに対して、ハイペースで豪快に逃げ外国調教馬相手に食い下がった唯一の日本代表として、サクラシンゲキに称賛が集まり「'''日の丸[[特別攻撃隊|特攻隊]]'''」と表された<ref name=":2" />。続いて有馬記念に出走し、再び逃げたものの、直線で伸びず9着に敗れた。
代表産駒としては、ヒデリュウオー、ユーワビーム、アドバンスモア、ニシヤマショウらがいる。とくにアドバンスモアはスタートから飛ばして無茶とも思われるペースで大逃げを打つことが多かった。


スプリンターズステークスを制した成績面に、逃げたジャパンカップという話題性も加えて、年度代表馬選考委員会から[[JRA賞最優秀短距離馬|優駿賞スプリンター賞]]が進呈された<ref name=":2" />。
その他、映画「[[三本木農業高校、馬術部]]」のモデルとなった元競走馬で馬術競技馬の[[タカラコスモス]]は、当馬の産駒である。


6歳も現役を続行し、連覇を狙ってスプリンターズステークスで始動。単枠指定の1番人気に支持され、逃げに出たが[[桜花賞]]優勝馬[[ブロケード]]にかわされ2着敗退<ref name=":2" />。マイラーズカップでも単枠指定の1番人気の支持だったが、カズシゲにクビ差かわされ再び2着に敗退。続く宝塚記念でも8着となった<ref name=":2" />。
こうして同期の馬たちの中では厚遇を受けていたサクラシンゲキであったが、カイバ食いの悪さから1994年[[8月17日]]に検査を受けることとなった。この時点では「猛暑の影響から腸の働きが悪い」と思われたが、翌日から容態が急変した<ref>死後の解剖で判明したことだが、このときサクラシンゲキの盲腸は破裂していた。</ref>。ところが、運が悪いことにお盆休みに発症したために保険会社との連絡が取れず<ref>サクラシンゲキはシンジケート種牡馬ゆえに、保険会社の許可なしには安楽死処置が出来ない。</ref>、痛み止めで急場を凌ぐ羽目となった。結局安楽死処置ができぬまま、サクラシンゲキは苦しみながら[[8月20日]]の晩に死亡している。


夏休みの後、調整を続けて秋シーズンを戦うはずだったが、静内町の牧場がサクラシンゲキの種牡馬[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]を結成したため、10月初旬に引退を発表。10月31日、[[天皇賞(秋)]]当日の東京競馬場、昼休みに[[引退式]]が行われた<ref name=":3">『優駿』1989年7月号 42頁</ref>。1980年の京王杯オータムハンデキャップ優勝時のゼッケン「10」を着用し、小島太が騎乗して直線コース600メートルを駆け、中でも最後の200メートルは10.8秒で走った<ref name=":3" />。
北海道[[新ひだか町]]の桜舞馬公園(オーマイホースパーク)にはサクラシンゲキの祈念碑が建てられている[http://kankou.hokkaido-np.co.jp/cont/kankoudata/8778.php]。


=== おもな産駒 ===
=== 種牡馬時代 ===
競走馬引退後は、北海道静内町の[[アロースタッド]]で種牡馬となった<ref name=":3" />。サクラシンゲキ会というシンジケートは、50株総額1億5000万円で結成された<ref name=":3" />。かつて藤原牧場でサクラシンゲキの育成を担当した本間一幸が、アロースタッドに戻っても担当した<ref name=":3" />。

1994年[[8月17日]]、カイバ食いの悪さから検査を受け、「猛暑の影響から腸の働きが悪い」と診断されていた。しかし、翌日から容態が急変<ref group="注釈">死後の解剖で判明したことだが、このときサクラシンゲキの盲腸は破裂していた。</ref>。ところが、運が悪いことにお盆休みに発症したために保険会社との連絡が取れず<ref group="注釈">シンジケート種牡馬ゆえに、保険会社の許可なしには安楽死処置が出来なかった。</ref>、痛み止めで対処するしかなかった。結局安楽死処置ができぬまま、サクラシンゲキは苦しみながら[[8月20日]]の晩に死亡した。

北海道[[新ひだか町]]の桜舞馬公園(オーマイホースパーク)にはサクラシンゲキの祈念碑が建てられている<ref>{{Cite web|url=http://kankou.hokkaido-np.co.jp/cont/kankoudata/8778.php|title=北海道新聞 観光地情報「サクラシンゲキ号祈念塔」|accessdate=2021-6-22|publisher=北海道新聞|archiveurl=https://web.archive.org/web/20070926215621/http://kankou.hokkaido-np.co.jp/cont/kankoudata/8778.php|archivedate=2007-9-26}}</ref>。

== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web|title=サクラシンゲキの競走成績 {{!}} 競走馬データ|url=https://db.netkeiba.com/horse/1977106464/|website=netkeiba.com|accessdate=2021-06-21|language=ja}}</ref>、JBISサーチ<ref>{{Cite web|title=競走成績:年度別累計成績/主な成績|サクラシンゲキ|JBISサーチ(JBIS-Search)|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000100485/record/|website=www.jbis.or.jp|accessdate=2021-06-21}}</ref>の情報に基づく。
{| style="border-collapse: collapse; font-size: 90%; text-align: center; white-space: nowrap;"
!競走日
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|-
|[[1979年|1979]].{{0}}[[8月3日|8.{{0}}3]]
|[[函館競馬場|函館]]
|[[新馬|3歳新馬]]
|芝1000m(良)
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|52
|(ホースメンボールド)
|-
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|函館
|[[中央競馬のオープン特別競走#すずらん賞|すずらん賞]]
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|52
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|-
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|函館
|[[函館3歳ステークス|函館3歳S]]
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|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
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|52
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|-
|[[1980年|1980]].{{0}}[[1月26日|1.26]]
|[[東京競馬場|東京]]
|[[オープン競走|4歳オープン]]
|芝1600m(良)
|6
|3
|3
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|コンパニオン
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[2月10日|2.10]]
|東京
|[[東京4歳ステークス|東京4歳S]]
|芝1800m(良)
|9
|7
|7
|{{00}}8.2{{0}}(3人)
|{{0}}4着
|{{0}}1:51.5
|{{0}}東信二
|56
|リンドタイヨー
|-
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|[[弥生賞]]
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|10
|6
|6
|{{00}}7.0{{0}}(2人)
|{{0}}6着
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|{{0}}東信二
|55
|トウショウゴッド
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[4月13日|4.13]]
|中山
|[[皐月賞]]
|芝2000m(不)
|16
|8
|15
|{{0}}28.2(11人)
|10着
|{{0}}2:14.5
|{{0}}[[小島太]]
|57
|[[ハワイアンイメージ]]
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[5月3日|5.{{0}}3]]
|東京
|4歳オープン
|芝1600m(稍)
|5
|1
|1
|{{00}}5.2{{0}}(2人)
|{{Color|darkred|{{0}}1着}}
|{{0}}1:36.3
|{{0}}小島太
|56
|(サーペンプリンス)
|-
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|東京
|[[東京優駿]]
|芝2400m(良)
|28
|2
|6
|{{0}}20.0{{0}}(7人)
|{{0}}4着
|{{0}}2:28.7
|{{0}}小島太
|57
|[[オペックホース]]
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[9月7日|9.{{0}}7]]
|中山
|[[京王杯オータムハンデキャップ|京王杯AH]]
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|11
|8
|10
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|{{0}}小島太
|54
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|-
|{{0|0000.}}[[9月28日|{{0}}9.28]]
|中山
|[[セントライト記念]]
|芝2200m(稍)
|11
|4
|4
|{{00}}5.9{{0}}(3人)
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|12
|8
|11
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|{{0}}5着
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|56
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|-
|{{0|0000.}}[[11月16日|11.16]]
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|芝1800m(良)
|11
|5
|5
|{{00}}4.7{{0}}(2人)
|{{Color|darkblue|{{0}}2着}}
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|{{0}}小島太
|54
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|-
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|中山
|4歳上オープン
|芝1600m(良)
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|2
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|中山
|[[有馬記念]]
|芝2500m(良)
|12
|8
|11
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|3
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|-
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|4
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|56
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|東京
|[[京王杯スプリングハンデキャップ|京王杯SH]]
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|[[アンバーシャダイ]]
|-
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|[[阪神競馬場|阪神]]
|[[マイラーズカップ|マイラーズC]]
|芝1600m(稍)
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|58
|カズシゲ
|-
|{{0|0000.}}{{0}}[[6月6日|6.{{0}}6]]
|阪神
|[[宝塚記念]]
|芝2200m(良)
|15
|6
|11
|{{0}}23.9{{0}}(6人)
|{{0}}8着
|{{0}}2:13.6
|{{0}}小島太
|57
|[[モンテプリンス]]
|}

== 種牡馬成績 ==

=== 主な産駒 ===
*1984年産
*1984年産
**ヒデリュウオー([[ファルコンステークス|中日スポーツ賞4歳ステークス]]、ほか重賞2着6回)
**ヒデリュウオー([[ファルコンステークス|中日スポーツ賞4歳ステークス]]、ほか重賞2着6回)
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**フレアリングルーラ([[ヤングチャレンジカップ]])
**フレアリングルーラ([[ヤングチャレンジカップ]])


=== ブルードメアサイアーとしてのおもな産駒 ===
==== ブルードメアサイアーとしての産駒 ====
*[[サカモトデュラブ]]([[東京盃]])
*[[サカモトデュラブ]]([[東京盃]])
*ゴーテンジョウ([[プリンセス特別|サラ・プリンセス特別]]、[[東海クイーンカップ]])
*ゴーテンジョウ([[プリンセス特別|サラ・プリンセス特別]]、[[東海クイーンカップ]])
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== 脚注 ==
== 脚注 ==

=== 注釈 ===
<references group="注釈" />

=== 出典 ===
{{Reflist}}
{{Reflist}}


== 関連項目 ==
== 参考文献 ==

*[[三本木農業高校、馬術部]] - この映画で取り上げられている[[タカラコスモス]]は本馬の産駒である。
* 『[[優駿]]』([[日本中央競馬会]])
** 1989年7月号
*** 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 41】潔い進撃者 サクラシンゲキ」


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
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2021年6月21日 (月) 16:24時点における版

サクラシンゲキ
欧字表記 Sakura Shingeki[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 鹿毛[1]
生誕 1977年3月5日[1]
死没 1994年8月20日(18歳没)
ドン[1]
アンジェリカ[1]
母の父 ネヴァービート[1]
生国 日本の旗 日本北海道静内町[1]
生産者 藤原牧場[1]
馬主 (株)さくらコマース[1]
調教師 境勝太郎[1]美浦
競走成績
タイトル 優駿賞スプリンター賞[1](1981年)
生涯成績 26戦9勝[1]
獲得賞金 1億9366万3600円[1]
勝ち鞍
オープン スプリンターズステークス 1981年
オープン 京王杯オータムハンデキャップ 1980-81年
オープン 函館3歳ステークス 1979年
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サクラシンゲキ(欧字名:Sakura Shingeki1977年3月5日 - 1994年8月20日)は、日本競走馬種牡馬[1]

典型的な逃げ馬で逃げ一辺倒の戦法の個性派として人気を集めた。第1回ジャパンカップでは、一度もハナを譲ったことのないことで評判の逃げ馬、カナダ代表のブライドルパースを上回る逃げを展開。そのレースぶりから「日の丸特攻隊」と評された。1981年優駿賞スプリンター賞

兄弟に、1986年天皇賞(秋)を制したサクラユタカオー繁殖牝馬としてサクラスターオーを産んだサクラスマイルがいる。

生涯

デビューまで

アンジェリカはネヴァービート産駒で、祖母にスターロッチを持ち、競走馬として21戦2勝の成績を残した[2]。引退後は、生まれ故郷の北海道静内町藤原牧場で繁殖牝馬となった。人の背中を噛みつくほどの荒い気性であった[3]。初年度は、ミンシオが配合され、初仔の牝馬が誕生[注釈 1]。続く2年目には、イタリア生産の輸入種牡馬ドンが配合された。ドンの祖父、アンジェリカの曽祖父は共にナスルーラであり、その配合から産まれる仔には、ナスルーラの血が18.75パーセントを占める「奇跡の血量」であった[3]

1977年3月5日、藤原牧場で2番仔である鹿毛牡馬(後のサクラシンゲキ)が誕生、牧場の種付け台帳には「骨格品位良好」と評された[3]。同じ年に牧場で生産された8頭の中で最も評判が高く、また生産馬ハードバージ皐月賞優勝した直後だったこともあり、「皐月」に母名を組み合わせた「サツキアンジェリカ」という幼名が与えられた。母に似て気性が荒く、2歳時の追い運動では、先頭でいることを好んでいた[3]

全演植がオーナーである株式会社さくらコマースに購買されて「サクラシンゲキ」と命名され、全の主戦である美浦の境勝太郎厩舎に入厩した[3]

競走馬時代

3歳(1979年)

8月3日、函館競馬場新馬戦(芝1000メートル)に、境厩舎所属の東信二が騎乗し、3番人気の支持でデビューした。スタートから逃げに出て、後方に4分の3馬身の差をつけて逃げ切り先頭で入線、レコードと同じタイムでの勝利であった[4]。2戦目のすずらん賞でも、逃げに出て7馬身差の勝利。キタノダイオーが12年間保持していたレコードを0.1秒更新して2連勝とした[4]。9月16日、函館3歳ステークスに、1番人気に推されて出走。スタートから単独で逃げていたが、中途で追い上げる1頭と並ぶ場面も見られた。しかし、直線コースで差を広げて再び先頭となり、後方待機の追い込み勢を1馬身封じて、3連勝とした[4]

北海道から美浦トレーニングセンターに帰還したが、9月27日に放馬し転倒。左後ろ肢の球節剥離骨折し、その後出走することなく3歳を終えた[4]

4歳(1980年)

1月26日、東京競馬場オープン競走で復帰。以降、弥生賞や皐月賞にも挑戦したがいずれも敗れて4連敗。その後5月3日、東京競馬場のオープン競走(芝1600メートル)で復帰後初勝利を挙げた後には、東京優駿(日本ダービー)にも挑戦した[4]。東京優駿ではハナを奪って逃げ、最後の直線半ばまで先頭を保ち続けて4着となった。騎乗した小島太は「日本中の目が逃げたオレの馬に集中したはずだ。よく粘ったよ。」と振り返った[4]

一休みして秋は、9月7日の京王杯オータムハンデキャップで復帰、1番人気で出走した。再び逃げてスローペースを演出すると、後続の追い上げなくそのまま逃げ切り勝利[4]。後方に2馬身半離して、1年振りの重賞勝利を果たした。快勝したことに全は、セントライト記念の結果次第で菊花賞に出走することを決意した[4]。しかし、セントライト記念ではキタノリキオ―にハナを奪われ逃げることができず、5着に敗退、菊花賞参戦は幻になった[4]。その後、オールカマーダービー卿チャレンジトロフィーと連戦するも、勝利には至らず[4]中山競馬場のオープン競走(芝1600メートル)で逃げ切り勝利したのち、有馬記念に参戦。プリティキャストを上回る逃げを展開したが、オーバーペースとなり10着に敗退した[4]

5歳 - 6歳(1981 - 82年)

1月25日、ダートのオープン競走3着を叩き台として、2月22日のスプリンターズステークスに出走、単枠指定制度の対象となる中、1番人気に推された。逃げに出て、先頭で直線に入ると、再び加速。後方に6馬身差をつけて先頭で入線して勝利した[4]。騎乗した東は「僕はただつかまっていただけです。今のサクラシンゲキならだれが乗っても勝てますね」と振り返っていた[4]。その後、4月26日の京王杯スプリングハンデキャップでは、残り200メートルでシンボリフレンドにかわされて2着敗退。6月7日の安田記念では、トップハンデを担ったが、タケデンとジュウジアローにかわされ3着敗退。どちらも1番人気に推されたが、2連敗となった[4]

夏休みの後、9月6日の京王杯オータムハンデで復帰。1番人気に推されて変わらず逃げに出て、失速することなく逃げ切りを果たした[5]。外から追い上げたメジロクラウンをアタマ差退けての勝利、2連覇を果たした[5]。10月17日のオープン競走でも逃げ切り勝利を果たすと、第1回ジャパンカップの日本代表に選出された[5]

ジャパンカップ参戦に当たり、騎乗する小島は「たとえ勝てなくても日本の快速馬の面目をかけてハナを切っていく」と逃げ宣言。カナダ代表でこれまで出走したすべてでハナを切るブライドルパースとの逃げ対決となった[5]。スタートから先手を主張するブライドルパースを抑え、単独で飛ばし前半の1000メートルを57.8秒で通過するなど、超ハイペースを刻んだ。最後の直線に入っても先頭であり続け、直線中間でアメリカ代表のメアジードーツ、カナダ代表のフロストキングなどにかわされたものの9着となった[5]ホウヨウボーイモンテプリンスなど日本代表の凡走ぶりに対して、ハイペースで豪快に逃げ外国調教馬相手に食い下がった唯一の日本代表として、サクラシンゲキに称賛が集まり「日の丸特攻隊」と表された[5]。続いて有馬記念に出走し、再び逃げたものの、直線で伸びず9着に敗れた。

スプリンターズステークスを制した成績面に、逃げたジャパンカップという話題性も加えて、年度代表馬選考委員会から優駿賞スプリンター賞が進呈された[5]

6歳も現役を続行し、連覇を狙ってスプリンターズステークスで始動。単枠指定の1番人気に支持され、逃げに出たが桜花賞優勝馬ブロケードにかわされ2着敗退[5]。マイラーズカップでも単枠指定の1番人気の支持だったが、カズシゲにクビ差かわされ再び2着に敗退。続く宝塚記念でも8着となった[5]

夏休みの後、調整を続けて秋シーズンを戦うはずだったが、静内町の牧場がサクラシンゲキの種牡馬シンジケートを結成したため、10月初旬に引退を発表。10月31日、天皇賞(秋)当日の東京競馬場、昼休みに引退式が行われた[6]。1980年の京王杯オータムハンデキャップ優勝時のゼッケン「10」を着用し、小島太が騎乗して直線コース600メートルを駆け、中でも最後の200メートルは10.8秒で走った[6]

種牡馬時代

競走馬引退後は、北海道静内町のアロースタッドで種牡馬となった[6]。サクラシンゲキ会というシンジケートは、50株総額1億5000万円で結成された[6]。かつて藤原牧場でサクラシンゲキの育成を担当した本間一幸が、アロースタッドに戻っても担当した[6]

1994年8月17日、カイバ食いの悪さから検査を受け、「猛暑の影響から腸の働きが悪い」と診断されていた。しかし、翌日から容態が急変[注釈 2]。ところが、運が悪いことにお盆休みに発症したために保険会社との連絡が取れず[注釈 3]、痛み止めで対処するしかなかった。結局安楽死処置ができぬまま、サクラシンゲキは苦しみながら8月20日の晩に死亡した。

北海道新ひだか町の桜舞馬公園(オーマイホースパーク)にはサクラシンゲキの祈念碑が建てられている[7]

競走成績

以下の内容は、netkeiba.com[8]、JBISサーチ[9]の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 距離

(馬場)

オッズ

(人気)

着順 タイム 騎手 斤量

[kg]

1着馬(2着馬)
1979.08.03 函館 3歳新馬 芝1000m(良) 8 5 5 005.30(3人) 01着 00-58.2 0東信二 52 (ホースメンボールド)
0000.08.24 函館 すずらん賞 芝1200m(良) 10 7 7 003.20(2人) 01着 R1:10.8 0東信二 52 (リンドタイヨー)
0000.09.16 函館 函館3歳S 芝1200m(良) 8 6 6 001.30(1人) 01着 01:11.8 0東信二 52 (リンドタイヨー)
1980.01.26 東京 4歳オープン 芝1600m(良) 6 3 3 001.80(1人) 03着 01:39.3 0東信二 56 コンパニオン
0000.02.10 東京 東京4歳S 芝1800m(良) 9 7 7 008.20(3人) 04着 01:51.5 0東信二 56 リンドタイヨー
0000.03.02 中山 弥生賞 芝1800m(重) 10 6 6 007.00(2人) 06着 01:54.0 0東信二 55 トウショウゴッド
0000.04.13 中山 皐月賞 芝2000m(不) 16 8 15 028.2(11人) 10着 02:14.5 0小島太 57 ハワイアンイメージ
0000.05.03 東京 4歳オープン 芝1600m(稍) 5 1 1 005.20(2人) 01着 01:36.3 0小島太 56 (サーペンプリンス)
0000.05.25 東京 東京優駿 芝2400m(良) 28 2 6 020.00(7人) 04着 02:28.7 0小島太 57 オペックホース
0000.09.07 中山 京王杯AH 芝1800m(良) 11 8 10 003.20(1人) 01着 01:47.6 0小島太 54 (ホクトダンデイ)
0000.09.28 中山 セントライト記念 芝2200m(稍) 11 4 4 005.90(3人) 05着 02:17.4 0小島太 56 モンテプリンス
0000.10.12 東京 オールカマー 芝2000m(良) 12 8 11 006.90(4人) 05着 02:01.1 0小島太 56 ブルーマックス
0000.11.16 東京 ダービー卿CT 芝1800m(良) 11 5 5 004.70(2人) 02着 01:48.5 0小島太 54 ニチドウアラシ
0000.12.06 中山 4歳上オープン 芝1600m(良) 6 2 2 002.00(1人) 01着 01:34.9 0小島太 55 (ニットウフレッシュ)
0000.12.21 中山 有馬記念 芝2500m(良) 12 8 11 025.30(9人) 10着 02:36.3 0東信二 55 ホウヨウボーイ
1981.01.25 東京 5歳上オープン ダ1600m(良) 10 3 3 003.80(1人) 03着 01:38.3 0小島太 57 キタノリキオー
0000.02.22 中山 スプリンターズS 芝1200m(稍) 10 4 4 001.80(1人) 01着 01:09.5 0東信二 56 (コンパニオン)
0000.04.26 東京 京王杯SH 芝1400m(稍) 9 4 4 002.00(1人) 02着 01:23.5 0小島太 59 シンボリフレンド
0000.06.07 東京 安田記念 芝1600m(良) 13 7 11 002.70(1人) 03着 01:37.2 0小島太 59 タケデン
0000.09.06 中山 京王杯AH 芝1800m(良) 8 3 3 002.60(1人) 01着 01:48.4 0小島太 59 (メジロクラウン)
0000.10.17 東京 4歳上オープン 芝1400m(良) 10 2 2 002.30(1人) 01着 02:21.6 0三浦繁美 56 (コンパニオン)
0000.11.22 東京 ジャパンC 芝2400m(良) 15 5 8 029.7(12人) 09着 02:26.9 0小島太 57 メアジードーツ
0000.12.20 中山 有馬記念 芝2500m(良) 16 3 6 035.20(9人) 14着 02:38.8 0小島太 57 アンバーシャダイ
1982.02.28 中山 スプリンターズS 芝1200m(良) 9 6 6 002.60(1人) 02着 01:09.3 0小島太 59 ブロケード
0000.03.14 阪神 マイラーズC 芝1600m(稍) 14 6 10 002.00(1人) 02着 01:34.7 0東信二 58 カズシゲ
0000.06.06 阪神 宝塚記念 芝2200m(良) 15 6 11 023.90(6人) 08着 02:13.6 0小島太 57 モンテプリンス

種牡馬成績

主な産駒

ブルードメアサイアーとしての産駒

血統表

サクラシンゲキ血統グレイソヴリン系 / Nasrullah3×4=18.75%) (血統表の出典)

*ドン
Don
1966 芦毛
父の父
Grey Sovereign
1948 芦毛
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Blue Gem Baytown
Clang
父の母
Diviana
1957 黒鹿毛
Toulouse Lautrec Dante
Tokamura
Desublea Niccolo Dell'Arca
Durera

アンジェリカ
1970 黒鹿毛
*ネヴァービート
Never Beat
1960 栃栗毛
Never Say Die Nasrullah
Singing Grass
Bride Elect Big Game
Netherton Maid
母の母
スターハイネス
1964 鹿毛
*ユアハイネス
Your Highness
Chamossaire
Lady Grand
スターロツチ *ハロウェー
コロナ F-No.11-c


脚注

注釈

  1. ^ 後のマヤノポート(5戦0勝)
  2. ^ 死後の解剖で判明したことだが、このときサクラシンゲキの盲腸は破裂していた。
  3. ^ シンジケート種牡馬ゆえに、保険会社の許可なしには安楽死処置が出来なかった。

出典

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p サクラシンゲキ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年6月21日閲覧。
  2. ^ アンジエリカ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年6月21日閲覧。
  3. ^ a b c d e 『優駿』1989年7月号 39頁
  4. ^ a b c d e f g h i j k l m n 『優駿』1989年7月号 40頁
  5. ^ a b c d e f g h i 『優駿』1989年7月号 41頁
  6. ^ a b c d e 『優駿』1989年7月号 42頁
  7. ^ 北海道新聞 観光地情報「サクラシンゲキ号祈念塔」”. 北海道新聞. 2007年9月26日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年6月22日閲覧。
  8. ^ サクラシンゲキの競走成績 | 競走馬データ”. netkeiba.com. 2021年6月21日閲覧。
  9. ^ 競走成績:年度別累計成績/主な成績|サクラシンゲキ|JBISサーチ(JBIS-Search)”. www.jbis.or.jp. 2021年6月21日閲覧。

参考文献

  • 優駿』(日本中央競馬会
    • 1989年7月号
      • 横尾一彦「【サラブレッド・ヒーロー列伝 41】潔い進撃者 サクラシンゲキ」

外部リンク