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広島タクシー運転手連続殺人事件

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広島タクシー運転手連続殺人事件
場所 日本の旗 日本 広島県広島市中区
日付 1996年平成8年)
4月18日 – 9月13日
概要 借金返済に追われていた男が、初めは強盗目的で、後に快楽目的も加わり、5か月間で4人の女性を殺害した。
攻撃側人数 1人
死亡者 4人
犯人 タクシー運転手の男H(犯行当時34歳)
動機 強盗快楽殺人
謝罪 あり
賠償 死刑執行済み
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広島タクシー運転手連続殺人事件(ひろしまタクシーうんてんしゅれんぞくさつじんじけん)とは1996年平成8年)に広島県広島市中区で、犯行当時34歳だったタクシー運転手の男Hが、4月から9月の約5か月間に、売春を通じて知り合った4人の女性を殺害した連続殺人事件[1]

その凶悪さから広島市繁華街をパニックに陥れ[2]、後に丸山佑介の著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』では「タクシードライバーによる殺人行脚」「誰もが利用する交通機関であるタクシーの運転手が突然襲い掛かる恐ろしい事件」と形容された[1]

事件の概要

宮崎県出身のHは高校時代まではスポーツ万能の優等生として地元では名が知られており、県有数の進学校を卒業したが、大学受験で志望大学の推薦入試、第二志望の大学にも不合格と立て続けに失敗し、滑り止めのつもりで受けた福岡県内の大学にしか合格できなかった[1]。進学した大学も4年生の時に留年して中退し、親には「司法試験に失敗したから退学した」と嘘をついて宮崎の実家に逃げ戻り、嘱託公務員として働き始めた[1]。しかし大学時代に酒や女に溺れて荒れた生活は容易には治らず、ひったくりなどを重ねて逮捕され、強盗罪で有罪判決確定刑務所に服役した[1]

Hは出所後、親族を頼って広島県に移住し、タクシー運転手として働き始めたが、相変わらず酒や女にのめり込む荒れた生活をつづけ、借金を重ねていった[1]。しかし1992年、当時29歳の時に父親の紹介した30歳の女性と結婚したことが転機となり、生活は徐々に改善していった[1]。このまま人並みの生活を手に入れられると思われたが、結婚から2年後の1994年、妻が長女を出産した直後に精神疾患を発症し、幸せな結婚生活は崩壊した[1]。Hは絶望し、妻を精神科病院に入院させると長女を実家に預け、再び以前の荒れた生活に戻っていき、1996年4月当時は消費者金融(サラ金)などから抱えた多額の借金の返済が迫り追い詰められていた[1]

最初の事件
1996年4月18日、Hは勤務中に売春目的で援助交際のメッカとして知られていた広島市中区新天地公園を訪れたところ、1人でいた広島県呉市在住の当時16歳の高校生の少女(1人目の被害者)を見つけ、遊ばないかと声を掛けた[1]。少女が料金2万円で応じ、ラブホテルに入ってHが金を払ったが、少女が「大阪出身で、父親の借金のために売春をしている。今日はその返済日だから10万円を用意して、これから呉に行く」と身の上話をした[1]。それを聞いてやる気がなくなったHは「セックスするの悪いね」と苦笑いをし、少女に「送っていく」と声を掛け、少女をタクシーの助手席に乗せた[1]
気前よく少女に2万円を払ったHだったが、呉市方面に少女を連れて行く途中で「少女の話通りなら、彼女の財布には12万円ほどあるはずだ。それだけあれば今月の支払いは賄える。いっそ殺して奪ってしまおうか」と考えつき、突然タクシーを人気のない空き地に駐車し「エンジンの調子が悪いようだ。後部座席に行って配線を調べるのを手伝ってほしい」と少女に指示した[1]。少女が後部座席に回ったところHは運転席を降り、その背後に立ち、手にしたネクタイで少女の首を絞めて殺害した[1]。「とっさの判断でやったにしてはうまくいった」とHは思い、少女の所持品を漁ったが、出てきた現金は12万円ではなく5万円程度だった[1]。「話が違うじゃないか」と思いつつHはタクシーを走らせて広島市内に戻り、少女の遺体を水路に投げ捨てて遺棄した[1]
前述のように少女はHに大阪在住と言っていたため、Hは殺してもバレないと思っていたが、殺害から18日後の5月6日に少女の遺体が発見されたことをニュースで知り、「同じ県内に住んでいたとなると自分も疑われるかもしれない」と、それ以降逮捕されることばかり考えていた[1]しかしHは少女とそれまで面識がなかったため足がつかず、また警察は暴走族が関係する事件として捜査を行ったため、Hは「売春婦ならば自分に嫌疑がかけられない」と考えるようになる。[要出典]
第2の事件
逮捕を恐れ、警察の陰に怯えて暮らしていたHだったが、最初の事件が発覚してから3か月後の8月になっても全く捕まる気配はなく、「俺は絶対に捕まらない」と自信を持ち、次の標的を求めて再び新天地に向かった[1]。新天地公園には男から声を掛けられるのを待つ売春婦が何人もいたため、Hにとっては好都合な場所だった[1]
8月13日夜、Hは飲食店従業員の当時23歳女性(2人目の被害者)に援助交際を持ちかけて自分のタクシーに誘い、金を渡しホテルでセックスした後、「家まで送る」と言ってタクシーに乗せ、人気のない場所で首を絞めて殺害した[1]。女性から現金5万2000円を奪い、遺体を道路脇の斜面に投げ捨てた[1]
第3の事件
9月7日、Hは顔見知りの当時45歳ホステス女性(3人目の被害者)をタクシーに誘い出し、金を渡して車内で性行為をしたいと持ち掛けた[1]。女性が承諾して性交をしていた最中、Hは女性の首を背後から絞めて殺害し、現金8万2000円を奪って遺体を遺棄した[1]Hは以前このホステスの売春の客となった際、ホステスに金を盗まれていたため、その腹いせだった。[要出典]
第4の事件
9月13日夜、Hは以前から面識のあった知人の当時32歳女性(4人目の被害者)に、第3の事件同様に声を掛けて誘い出した[1]。4万円を渡して援助交際を持ちかけたが、女性はその態度を不審に思ってタクシーから逃げ出そうとしたため、Hは刃物を取り出して女性を脅し、無理矢理車内に連れ込んだ[1]。Hは女性の顔面を激しく殴打して首を絞めて殺害し、これ前と同様に所持金を奪ってから遺体を山中に埋めて遺棄し、逃走した[1]
逮捕・起訴
Hは金を奪うことよりも、次第に人を殺す快楽に惹かれるようになっていき、一連の4件の殺人は事件を重ねるごとに間隔が短くなっていった[1]
しかし、4人目の被害者の遺体が発見されて事態は急展開した[1]。遺体の身元が確認されるや否や、女性がHのタクシーに乗り込む姿を目撃したという証言が寄せられ、広島県警察殺人死体遺棄容疑でHの逮捕状を請求した[1]
追い詰められたHは自殺を考えたが、結局死にきれずに広島から逃亡した[1]9月20日早朝、Hは山口県防府市内の国道2号で、当時「秋の全国交通安全運動」のために夜間・早朝の取り締まり強化のため行われていた交通検問を突破しようとしたことから山口県警察防府警察署に任意同行され、同日未明に広島市中区幟町の路上で盗まれた乗用車を運転していたことから窃盗容疑で逮捕された[3]。その後の取り調べで、Hは32歳女性を殺害したことを自供し[3]、翌9月21日、広島県警捜査本部に殺人・死体遺棄容疑で逮捕された[1][3]
その後の取り調べで、Hは第2の事件についても「8月中旬の夜、広島市中心部の繁華街で顔見知りの中年女性を運転するタクシーに乗せ、金銭上のトラブルから広島県山県郡加計町(現・安芸太田町)加計で女性の首を絞めて殺害し、遺体を遺棄した」と自供し、その自供に基づいて広島県警が同地の滝山川沿いのコンクリート製の溝を捜索したところ、10月1日正午過ぎに女性の白骨死体を発見した[4]
Hは観念して他3人の殺害も自白し、2人目・3人目の被害女性の遺体も発見された[1]
いずれの事件も被害者を殺害後にその所持金を盗んでいるため強盗殺人での逮捕・起訴となったが4人の被害者から盗んだ計24万円の金銭のうち、その半分は男が売春のために被害者に渡したものであり、また公判での「殺人に快感を覚えていた」との旨の男の証言から快楽殺人とも報道され、[要出典]丸山佑介の著書『判決から見る猟奇殺人ファイル』でも「シリアルキラー」と表現された[1]。前述のようにHは高校時代は優等生だったが、大学受験時に推薦入試で受けた大学に合格できず、また性格的に挫折しやすく楽な方に流されやすい面があり、別の大学に進学して以降は滑り落ちるような人生で、警察での取調べ中も「どうせ、おれなんか」と投げやりで自暴自棄な態度だった[1]

刑事裁判

1997年2月10日に広島地方裁判所でHの初公判が開かれ、冒頭の罪状認否でHは起訴された4件の強盗殺人・死体遺棄容疑をすべて「間違いありません」と認めた[1]。Hが事実認定を争わなかったため、弁護人には刑法第39条に基づく心神喪失・心神耗弱による無罪・減軽を狙う他に手段はなかった[1]

弁護側はHの精神鑑定を要求し、広島地裁はこれを認めて審理が一時中断した[1]。その後1999年2月23日、1年3か月ぶりに再開された公判でHの精神鑑定の結果が報告されたが、鑑定結果は弁護側の狙いはと裏腹に「責任能力が認められる」というものだった[1]。鑑定を担当した精神科医は「人格に著しい隔たりがあるが、責任能力に影響を及ぼしうるような病的なものとはみなされない」という結論だった[1]。また、精神鑑定ではHが殺人に至った動機についての解明が試みられ、「Hは男性としての自身に欠けたとする挫折感を抱き、暴力犯罪の空想などで強い男性像を示したいという性癖があった。犯行はこの空想を実際に移したものである」とされた[1]。Hの挫折感は青春時代に経験した大学受験の失敗などの挫折に端を欲しており、そこで自分自身に失望した半面、絶えず「自分はこんなものではない」という自負心を抱き続けており、自分の力を証明する方法として思いついたのが女性を殺害することだった[1]

連続殺人鬼として広島地裁の法廷に立ったHは、法廷で涙を流しながら「私は許されるなら、今すぐ死んでお詫びしたいと思いますが、それだけではとても罪の償いには足りません。死刑が執行されるまで、死の恐怖と向かい合い、惨めな姿を晒してのたうち回り、被害者の味わった死の恐怖、その苦痛の何分の一かを味わうことができたら、初めてひとつの償いになると思います」「願わくば、一日も早く被害者の下へ言って謝りたいと思います。自分はいったい、何のためにこの世に生まれてきたのか、どのような生き方をしてきたのか、それを考えると辛く、悲しい気持ちでいっぱいです」と懺悔した[2]。1999年、Hはこの事件の刑事裁判を取材し、その懺悔を目の当たりにして聞いていた、作家の永瀬隼介(当時は「祝康成」名義)は、広島拘置所に収監されていたHから「(逮捕されてから)これまでの3年間、何回となく、否、何百回と想い悩み、そして苦しんで、眠れぬ夜も幾多あったかわかりません。しかし、事、ここに至っては、もう何も申し上げることはありません」と綴られた手紙を受け取っていた[2]。永瀬は後に市川一家4人殺人事件犯行当時少年の死刑囚を追ったノンフィクション小説『19歳 一家四人惨殺犯の告白』の中で、「市川一家4人殺人事件の死刑囚は分かりにくい奴だが、Hは分かりやすい男だった」と述べている[2]

1999年10月、広島地方検察庁は論告求刑公判で「被害者4人の強盗殺人事件であり、死刑以外の求刑は考えられない」としてHに死刑を求刑した[1]

弁護側は最終弁論で、精神鑑定結果に異議を唱え「Hは最初の犯行の際、妻の病気や消費者金融の借金の返済などで自暴自棄の心理状態にあった」として情状酌量を求め、死刑回避を訴え結審した[1]。しかしそれはHの望むところではなく、Hは「すべて自己中心的な犯行で、一切弁解の余地はありません。一日も早く被害者のところへ行ってお詫びしたい」と、自ら死刑になることを望んでいた[1]

2000年2月9日、広島地裁(戸倉三郎裁判長)で検察側の求刑通り死刑判決が言い渡された[5][1]。裁判官は判決を言い渡した後、Hに「殺される理由のなかった被害者への謝罪の気持ちを持ち続けてください」と声を掛けた[1]

Hは控訴期限の2月23日までに広島高等裁判所に控訴しなかったため、そのまま死刑判決が確定した[6][1][2]

死刑執行

2006年12月25日広島拘置所においてHの死刑が執行された[7]。享年44(歳)。

脚注

  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au 丸山佑介『判決から見る猟奇殺人ファイル』彩図社、2010年1月20日、52-61頁。ISBN 978-4883927180 「6【連続殺人】広島タクシー運転手連続殺人事件」
  2. ^ a b c d e 『19歳 一家四人惨殺犯の告白』永瀬隼介・著(角川文庫)2004年8月25日出版、ISBN 978-4043759019 p.217-218
  3. ^ a b c 『朝日新聞』1996年9月22日広島県版朝刊「『金銭上のトラブル』 湯来町の女性殺人事件容疑者を逮捕 /広島」
    『朝日新聞』1996年9月21日夕刊第一社会面15面「女性絞殺容疑で運転手を逮捕 広島県警【大阪】」
  4. ^ 『朝日新聞』1996年10月2日夕刊第一社会面13面「加計町で別の女性遺体発見 容疑者自供通り 広島の女性殺人」
  5. ^ 『朝日新聞』2000年2月10日広島県版朝刊23面「『娘に報告できる』 4女性殺害のH被告に地裁が死刑判決/広島」
  6. ^ 『朝日新聞』2000年2月24日夕刊12面「死刑判決が確定 広島の4女性殺害【大阪】」
  7. ^ 『朝日新聞』2006年12月25日夕刊1面「4人に死刑執行 1年3カ月ぶり」