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濱田庄司

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
はまだ しょうじ

濱田 庄司
濱田庄司(1967年または1968年)
生誕 1894年明治27年)12月9日
日本の旗 日本神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市溝ノ口
死没 (1978-01-05) 1978年1月5日(83歳没)
栃木県芳賀郡益子町
国籍 日本の旗 日本
出身校 東京高等工業学校窯業科
職業 陶芸家
時代 大正 - 昭和
配偶者 和枝[1]
子供 琉司(長男)[2]
晋作(次男)
篤哉(三男)
比路(長女)[2]
比佐(次女)[2]
能生(四男)[2][3]
家族 友緒(孫)
受賞 紫綬褒章
文化勲章
栄誉 重要無形文化財保持者
人間国宝
(工芸技術部門陶芸民芸陶器)
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濱田 庄司(はまだ しょうじ、1894年明治27年)12月9日 - 1978年昭和53年)1月5日、本名象二)は、主に昭和に活躍した日本の陶芸家民藝運動の中心的な活動家の一人であり、栃木県益子町に定住し、益子焼の中興の祖となった。

長男の濱田琉司は毎日新聞社記者[2][4][5]。次男の濱田晋作、三男の濱田篤哉、孫(晋作の次男)の濱田友緒はいずれも陶芸家、四男の濱田能生は硝子工芸家。

生涯

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神奈川県橘樹郡高津村(現在の川崎市溝ノ口で、濱田久三の子として母の実家である太田医院[注釈 1] で生まれる。東京府立一中(現東京都立日比谷高等学校)を経て、1913年(大正2年)、東京高等工業学校(現東京工業大学)窯業科に入学、板谷波山に師事し、窯業の基礎科学面を学ぶ。1期上の各務鑛三とは生涯交友を持った[6]。1916年(大正5年)同校を卒業後は、2年先輩の河井寛次郎と共に京都市立陶芸試験場にて主に釉薬の研究を行う。またこの頃、柳宗悦富本憲吉バーナード・リーチの知遇を得る。

1920年(大正9年)、イギリスに帰国するリーチに同行、共同してコーンウォール州セント・アイヴスに築窯する。1923年(大正12年)にはロンドンで個展を開催、成功する。1924年(大正13年)帰国、しばらくは沖縄壺屋窯などで学び、1930年(昭和5年)からは、それまでも深い関心を寄せていた益子焼の産地、栃木県益子町で作陶を開始する[7]。ほとんど手轆轤のみを使用するシンプルな造形と、釉薬の流描による大胆な模様を得意とした

戦後、1947年(昭和22年)、益子町に昭和天皇の戦後巡幸があり、天皇に益子焼の特質について奏上する機会を得る[8]。1952年(昭和27年)から翌53年(昭和28年)2月に柳宗悦と[9]長期の訪欧旅行を行いリーチと再会し共に帰国した。

1955年(昭和30年)2月15日には第1回の重要無形文化財保持者(人間国宝)(工芸技術部門陶芸民芸陶器)に認定。また1964年(昭和39年)に紫綬褒章、1968年(昭和43年)には文化功労者文化勲章を受章する。

柳宗悦の同志として民藝運動の興隆にあたり、1961年(昭和36年)5月の柳の没後は、日本民藝館・第2代館長に就任した、1970年大阪万博の日本民芸館パビリオンの名誉館長を経て、1972年春に新装開館した大阪日本民藝館の初代館長にも就任し、1974年(昭和49年)には松方三郎の後任で日本民藝協会会長を兼務した。なお各・後任は柳宗理(宗悦の長男)が就いた。

最晩年の1977年(昭和52年)4月には自ら蒐集した日本国内外の民芸品を展示する益子参考館を開館。

1978年(昭和53年)1月益子にて没。享年83。従三位と銀杯一組を没後追賜された[10][11]墓所は川崎市の宗隆寺

弟子

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著書

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関連文献

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  • 青山二郎編『濱田庄司陶器集』工政會出版部、1933年4月。 NCID BA69287789国立国会図書館サーチR100000002-I000000770500, R100000001-I1422001493891 :「国会図書館デジタルコレクション 個人向けデジタル化資料送信サービス」で閲覧可。|『浜田庄司陶器集』- 国立国会図書館デジタルコレクション
  • 水尾比呂志編・解説『近代日本の陶匠 濱田庄司 京都で道を見つけ、英国で始まり、沖縄で学び、益子で育った』講談社〈カルチャーブックス 66〉、1992年11月。ISBN 9784061980549 
  • 丸山茂樹『陶匠濱田庄司 青春轆轤』(里文出版、2007年) ISBN 9784898062746
  • 丸山茂樹『柳宗悦河井寛次郎・濱田庄司の民芸なくらし』(社会評論社、2015年)
  • 坂井基樹・竹見洋一郎・則武優『理想の暮らしを求めて 濱田庄司スタイル』美術出版社、2011年7月、162頁。ISBN 9784568103960 
  • 誠文堂新光社 編『スリップウェア Slipware 英国から日本へ受け継がれた民藝のうつわ その意匠と現代に伝わる制作技法』誠文堂新光社、2016年1月、19-21,138,142-144,164-165,229,236頁。ISBN 9784416615980 
  • 志賀直邦『民藝の歴史』(ちくま学芸文庫、2016年5月) ISBN 9784480097347
  • 小林真理『至高の名陶を訪ねる 陶芸の美』株式会社芸術新聞社、2022年8月、16-17頁。ISBN 9784875866503 

「壷屋焼」に関する文献

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  • 那覇市立壷屋焼物博物館 編『民藝と壺屋焼 その影響と現在  那覇市立壺屋焼物博物館開館20周年記念/河井寛次郎・濱田庄司来沖100周年記念 平成30年度那覇市立壺屋焼物博物館特別展』那覇市立壷屋焼物博物館、2018年11月23日、3,7,31,40-50,53-56,64,66,77-80,82頁。 NCID BB2783655X国立国会図書館サーチR100000002-I029537572, R100000001-I31111120254084, R100000001-I46111111816570 :展覧会カタログ/会期・会場: 2018年11月3日-12月27日 那覇市立壺屋焼物博物館3階企画展示室

脚注

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注釈

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  1. ^ 母方祖父の太田東海は種痘所設立者83名の一人、東海の叔母は手塚光照夫人で子孫が手塚治虫である。
  2. ^ 約一年半ほど師事を受けた経験もあり、濱田庄司の影響を受けた。

出典

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  1. ^ 人間国宝濱田庄司の妻和枝さんが47年前に漬けた梅”. 真岡新聞. 2023年5月21日閲覧。
  2. ^ a b c d e 『大衆人事録 第23版 東日本篇』「はの部」P562 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2023年5月21日、 国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
  3. ^ a b 「下野新聞」2007年(平成19年)7月8日付 21面「審美の蔵 県内美術家収集品から 25」「ガラス工芸家 濱田能生さん」「縄文土器のかけら」
  4. ^ お別れ : その便り、2023年4月23日閲覧。
  5. ^ 濱田琉司 - 国立国会図書館サーチ
  6. ^ 各務鑛三 かがみ こうぞう東京工業大学130年史
  7. ^ 没後も窯元・濱田窯として引き継がれ、濱田晋作と濱田友緒の陶芸家としての仕事と職人による窯ものと呼ばれる普段使いの器の制作が行われている(『浜田窯』)。
  8. ^ 宮内庁『昭和天皇実録第十』東京書籍、2017年3月30日、424頁。ISBN 978-4-487-74410-7 
  9. ^ 民藝協会のあゆみ 昭和20年〜昭和39年(1945年~1964年)”. 日本民芸協会. 2023年9月30日閲覧。
  10. ^ 「官報」昭和53年1月18日 水曜日 本紙15302号「濱田 象二」「従三位に叙する」「銀杯一組を賜る」(一月五日)
  11. ^ 「官報」昭和53年1月18日 水曜日 本紙15302号「故 濱田 象二」「特旨を以て位記を追賜せられる」(一月十三日)
  12. ^ a b c d e f g h i 「下野新聞」2007年(平成19年)5月26日付 4面「私の生きた刻」「陶芸家 島岡達三さん 7」「濱田庄司」「大事な人時に教え受けた」
  13. ^ 『現代陶芸食器図鑑』「121 阿部祐工」 - 国立国会図書館デジタルコレクション 2024年11月23日、国会図書館デジタルコレクション デジタル化資料個人送信サービスにて閲覧。
  14. ^ a b 下野新聞社 1984, p. 130.
  15. ^ 「下野新聞」1989年(平成元年)1月16日付 14面「新・陶源境」「大山 隆(益子)」「塩釉使い 刷目の作風」
  16. ^ 下野新聞社 1984, p. 133.
  17. ^ a b 下野新聞社 1984, p. 135.
  18. ^ 公益財団法人 濱田庄司記念益子参考館
  19. ^ スリップウェア,誠文堂新光社 2016, p. 164-165.
  20. ^ 藤井佐知 作品集
  21. ^ 藤井佐知 作品集 - 藤井佐知(旧名 幸子)

関連項目

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外部リンク

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