横浜米軍機墜落事件

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ナビゲーションに移動 検索に移動
横浜米軍機墜落事件
AinoBoshizo.JPG
遺族が寄贈し1985年に設置された「愛の母子像」(山本正道作)と2006年に設置された碑文
台座には「愛の母子像 あふれる愛を子らに」と記されている。
出来事の概要
日付 1977年9月27日13時過ぎ
概要 整備中に生じたアフターバーナー部位の装着不良[1]
現場 日本の旗 日本神奈川県横浜市緑区荏田町(現・青葉区荏田北三丁目・大入公園付近)の住宅地
乗員数 2名
負傷者数
(死者除く)
一般市民6名
死者数 一般市民3名
生存者数 2名
機種 RF-4BファントムII
運用者 アメリカ海兵隊
機体記号 611号機
テンプレートを表示
RF-4Bファントム VMFP-3、アメリカ海兵隊エルトロ基地、カリフォルニア州、1982年。

横浜米軍機墜落事件(よこはまべいぐんきついらくじけん)は、1977年9月27日に発生、一般市民3名が死亡し6名が負傷した航空事故である。

事件の経緯[編集]

1977年9月27日13時過ぎ、厚木基地(厚木海軍飛行場)を離陸し、太平洋上の航空母艦ミッドウェイに向かおうとしたアメリカ海兵隊の戦術偵察機(RF-4BファントムII611号機)が、離陸直後に燃料満載の状態でエンジン火災を起こした。

乗員2名は射出座席を用いて緊急脱出し、パラシュートで神奈川県横浜市緑区(現・青葉区)鴨志田町付近に着地した[2]のち、海上自衛隊第71航空隊のヘリコプターに収容されて基地に無事帰還した(なお、下記の「パパママバイバイ」では、ごく軽い負傷の乗員たちだけを拾って帰って行ったこのヘリコプターの行動を非難している)。

一方、放棄され制御を失った機体は5kmほど離れた同区荏田町(現・青葉区荏田北三丁目・大入公園付近)の住宅地に墜落し、火だるまになった機体の破片を周囲300~400mに飛び散らせ[3]、周辺の家屋20戸[4]を炎上・全半壊させた。

事故発生から10分後の13時23分に出動した海上自衛隊のS-62J救難ヘリコプターは、13時25分頃黒煙を目撃、30分頃事故現場上空に到着した。既に消防車が来ているのを確認した上でパイロットを収容し、再度事故現場上空に状況を確認(放水が開始されていた)上で、基地に帰還した。これとは別に40名ほどの陸上救難隊が編成され事故現場へ向かう準備をしていたが、事故現場が基地から約18kmと離れていたこと、上記の通り消防などによる救難活動が開始されていたことから結局出動しなかった[5][6]

アメリカ軍関係者は約1時間後の14時20分頃に現場に到着し、真っ先に現場周囲の人たちを締め出したのち、エンジンなどを回収。この作業の際には笑顔でピースサインを示して記念撮影をおこなう兵士もいた[7][8]

墜落地周辺では、火災により一般市民9名が負傷、周辺の人々により次々に車で病院に搬送されるも、うち3歳と1歳の男児2名の兄弟は、全身火傷により、翌日の未明までに相次いで死亡した。また兄弟の母親である26歳の女性も全身にやけどを負い、70回にも及ぶ皮膚移植手術を繰り返しながら長期間にわたり入退院を繰り返した。移植する皮膚は夫と父親の提供する分だけではとても足りず、新聞で提供者を募ったところ約1,500人[2]から応募があり、実際に42人から皮膚の移植を受けた[3]。一時はリハビリを行なえるまでに肉体的には回復するものの、精神的なダメージは計り知れず(夫[9]とはリハビリを巡って関係が悪化し、離婚した[8])、最終的には精神科単科病院に転院したが、女性の転院に関して、遺族は「半ば強制的」であったと主張している[7][8]。 女性はその後、事故から4年4ヶ月後の1982年1月26日に、心因性の呼吸困難により死亡した。NHKアナウンサーの加賀美幸子は、涙ながらにこのニュースを伝えた。我が子に会いたい一心で懸命にリハビリに励む母親に2人の子供は事故翌日に死亡したことは伝えられず、真実を知らされたのは事故から1年3ヶ月後であった[2]

被害者女性の名をつけた「カズエ」というバラが、園芸品種名として登録されている[10]

原因究明[編集]

墜落機のエンジンは事故当日にアメリカ軍によって回収され、10月にはアメリカ本国へ送られたことが判明した。事実を知った横浜市長飛鳥田一雄は抗議声明を発表、カーター大統領宛に電報を打つも返還までには1ヶ月を要した。

原因調査は日米委員会の事故分科委員会によって行われたとはいえ、日本独自の調査は行えなかった。1978年1月、事故分科委員会は日米委員会に調査結果を報告、原因はエンジンの組み立てミスで乗員に過失はないと結論づけた[3]

愛の母子像[編集]

1985年、遺族の要望により、横浜市へ寄贈する形で港の見える丘公園フランス山地区に犠牲者をモデルとした「愛の母子像」というブロンズ像が設置された。

行政側は当初、都市公園法の解釈を理由に、本件に関わる説明の設置を認めず、遺族側が「あふれる愛をこの子らに」と予定していた台座の文に関しても、同法に抵触すると主張。妥協として「この」を削った「あふれる愛を子らに」とされ、予備知識がない限り本件の記念碑であるという認識が困難な状態が続いていた。 そのため一部市民から疑問の声が相次ぎ、2005年2月、当時の横浜市長中田宏が定例記者会見の中での回答以降、翌2006年1月に事件の概要を簡潔に記述した碑文が設置されたが、像設置から碑文設置まで約21年の歳月が費やされた[11][12]

この事件を題材にした作品[編集]

テレビドラマ
アニメーション映画

参考文献[編集]

  • 早乙女勝元:作 門倉さとし:作詩 鈴木たくま:作画『パパ ママ バイバイ』(1979年、草土文化)[16]
  • 河口栄二『米軍機墜落事故』(1981年9月、朝日新聞社
  • 土志田和枝『あふれる愛に』(1982年5月、新声社)[17]
  • 早乙女勝元:編『「パパ ママ バイバイ」ノート』(1984年8月、草土文化)
  • 土志田勇『「あふれる愛」を継いで-米軍ジェット機が娘と孫を奪った』(2005年9月、七つ森書館
  • 斎藤淑子『ウワーッ! 飛行機が落ちてくる―横浜米軍ジェット機墜落』(2006年9月、光陽出版社)ISBN 9784876624393
  • 斎藤真弘:編『「愛の母子像」ものがたり』(2007年9月、横浜・緑区米軍機墜落事故平和資料センター)- 自費出版冊子
  • 土志田勇『米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ』〈改題『「あふれる愛」を継いで』〉(2007年、七つ森書館)ISBN 978-4822807566

脚注[編集]

  1. ^ 横浜市緑区への米軍機墜落事故への取組(PDF形式)
  2. ^ a b c 吉岡まちこ (2013年2月18日). “事故から35年。青葉区の母子3人が亡くなった横浜米軍機墜落事件って?”. はまれぽ.com. https://hamarepo.com/story.php?story_id=1654 2019年8月13日閲覧。 
  3. ^ a b c 近藤正高 (2017年9月27日). “ご存知ですか? 9月27日は横浜米軍機墜落事件が起こった日です”. 文春オンライン. https://bunshun.jp/articles/-/4269 2019年8月13日閲覧。 
  4. ^ 町田市周辺で発生した米軍・自衛隊機の事故
  5. ^ 昭和53年4月14日参議院決算委員会、防衛庁(当時)伊藤圭一防衛局長の答弁より。
  6. ^ 神奈川県知事からの災害派遣出動要請は出ていない。負傷者は事故直後、救急車が到着する以前に一般人の車で病院に搬送されていた。
  7. ^ a b 土志田勇『「あふれる愛」を継いで ―米軍ジェット機が娘と孫を奪ったー』(2005年、七つ森書館)
  8. ^ a b c 『米軍ジェット機事故で失った娘と孫よ』〈改題『「あふれる愛」を継いで』〉(2007年、七つ森書館)
  9. ^ 妻子に加え、妹も被害に遭った。
  10. ^ 平和の願い広げる 社会 寺家町でバラまつり”. 神奈川県全域・東京町田市の地域情報紙タウンニュース. 2015年2月21日閲覧。
  11. ^ その他 - 市長定例記者会見” (2005年2月25日). 2007年9月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年9月26日閲覧。なお、この会見以前は市民の疑問に対し市側の見解は“説明板設置の予定はない”としていた。
  12. ^ 港の見える丘公園 愛の母子像 説明板 について - 市長定例記者会見” (2006年1月11日). 2007年9月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2011年9月26日閲覧。
  13. ^ 横浜米軍機墜落事件 - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇”. テレビドラマデータベース. 2019年8月13日閲覧。
  14. ^ あふれる愛に! - ドラマ詳細データ - ◇テレビドラマデータベース◇”. テレビドラマデータベース. 2019年8月13日閲覧。
  15. ^ 放送ライブラリ公式ページ”. 放送ライブラリ公式ページ. 2019年8月13日閲覧。
  16. ^ 本件を題材にした早乙女勝元原作の絵本。
  17. ^ 土志田 和枝(どしだ かずえ、1950年 - 1982年、本件被害者である母親)による手記。

関連項目[編集]

外部リンク[編集]

座標: 北緯35度33分35.53秒 東経139度32分42.09秒 / 北緯35.5598694度 東経139.5450250度 / 35.5598694; 139.5450250