桜 (松型駆逐艦)
桜 | |
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基本情報 | |
建造所 | 横須賀海軍工廠 |
運用者 | 大日本帝国海軍 |
級名 | 松型駆逐艦 |
艦歴 | |
発注 | 1942年戦時建造補充(改⑤)追加計画 |
起工 | 1944年6月2日 |
進水 | 1944年9月6日 |
竣工 | 1944年11月25日 |
最期 | 1945年7月11日、大阪港中突堤灯台256度5.6マイル地点にて戦没 |
除籍 | 1945年8月10日 |
要目 | |
基準排水量 | 1,262t |
公試排水量 | 1,530t |
全長 | 100.00m |
最大幅 | 9.35m |
吃水 | 3.30m |
ボイラー | ロ号艦本式缶 2基 |
主機 | 艦本式タービン 2基2軸 |
出力 | 19,000hp |
速力 | 27.8kt |
燃料 | 重油370t |
航続距離 | 18ktで3,500浬 |
乗員 | 211名 / 252名[1] |
兵装 |
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レーダー | |
ソナー |
桜(櫻、さくら)は、大日本帝国海軍の駆逐艦。松型の13番艦である。日本海軍の艦名としては、桜型駆逐艦「桜」に続いて2代目。
艦歴[編集]
丁型一等駆逐艦第5496号として計画され、1944年(昭和19年)6月2日に横須賀海軍工廠で起工。8月25日に「櫻」と命名され、9月6日に進水した。11月25日に竣工し、訓練部隊の第十一水雷戦隊(高間完少将・海軍兵学校41期)に編入された。東京湾で慣熟航海を行った後、12月8日に横須賀を出港して瀬戸内海に向かう[2]。潜水艦の襲撃を警戒し、初日は遠州灘沿岸沿いを経て伊勢湾で仮泊、二日目には大阪湾に入って瀬戸内海を西航する計画が立てられた[3]。航海初日は平穏無事に伊勢湾に入って仮泊を行ったが、翌日早朝に出港して大王埼沖を通過して尾鷲沖のあたりから異様な光景が「桜」の目の前に広がるようになる[3]。「櫻」が横須賀を出港した12月7日の午後、昭和の東南海地震が発生。津波で押し流された屋根や流木などの漂流物が海上いっぱいに広がり、「桜」はこれら漂流物を回避して航行を続けた[4]。漂流物は潮岬付近に差し掛かるころには姿を消していた[4]。その後は紀淡海峡、明石海峡を経て11月10日に呉に到着した[5]。
瀬戸内海に到着後は更なる訓練を行い、1945年(昭和20年)2月15日には「櫻」と「楢」「椿」「欅」「橘」「柳」で第五十三駆逐隊(豊嶋俊一大佐)を編成[6]。その直前の2月13日、「桜」は軽巡洋艦「鹿島」および第14号海防艦、第16号海防艦および第46号海防艦とともに基隆行きのモタ36船団(「日昌丸」(南洋海運、6,526トン)、「めるぼるん丸」(大阪商船、5,423トン))を護衛するため門司を出撃した[7][8]。モタ36船団は2月14日深夜から翌15日未明にかけて朝鮮半島南西部の鞍馬島沖で仮泊した後[9]、基隆目指して大陸沿岸部を航行。2月16日夜、「桜」と「鹿島」はモタ36船団から分離して上海に向かい、2月18日に到着した[10][注釈 1]。2月下旬に入り、「桜」は汕頭行の低速輸送船3隻を駆潜艇1隻とともに護衛して上海を発ち、島嶼間を縫って8日間かけて汕頭に到着し、帰路も無傷で輸送船を護衛して任務を遂行した[11]。1か月後の3月15日、「桜」は第21号掃海艇とともにモタ02船団(吉林丸(大阪商船、6,783トン)、橋立丸(日本海洋漁業、10,021トン)[注釈 2])を護衛して上海を出撃[12]。「吉林丸」には大陸から引き揚げる日本人引揚げ民が多数乗船しており、「桜」には「吉林丸」危難の時には乗船中の婦女子を完全に救助するよう命令が下されていた[13]。モタ02船団は黄海を東航して朝鮮半島南岸部に沿って航行し、4日後の3月19日に門司に帰投した[14]。
帰投後、4月7日から「桜」を含む第五十三駆逐隊そろって第三十一戦隊(鶴岡信道少将・海兵43期)の指揮下に入り、再び瀬戸内海で行動した[15]。しかし、時すでに沖縄戦が始まっており、また関門海峡を中心に瀬戸内海のいたる所に飢餓作戦によって機雷が投下されていた。5月下旬、第十一水雷戦隊は舞鶴への移動が命じられ、「桜」もこれに従って舞鶴に向かうこととなった[16]。5月25日に内海泊地を発って舞鶴に向かうが、午後に部埼灯台沖に差し掛かったあたりで航行直後に磁気機雷が爆発し、舵取機械故障、モーター台座破損などの被害を受けた[17][18]。応急修理ののち、「欅」の支援により5月26日に呉海軍工廠入りして本格的な修理に入る[18]。「桜」の修理は二週間で終わり、修理完了後は6月14日に呉を出港して翌6月15日に大阪に到着した[19]。7月、第五十三駆逐隊は第十一水雷戦隊とともに7月15日付で解隊して、「桜」は連合艦隊付属になることが決まった[20]。同時に大阪警備府警備艦として大阪湾に投下される機雷の監視任務に就き、大阪港築港灯台と神戸港東灯台からともに約5.5マイルの地点が「桜」の配備点であった[21]。
7月10日、アメリカ第38任務部隊(ジョン・S・マケイン・シニア中将)の接近が予期されるとの情報が入り、「桜」は明石海峡に配備されていた「欅」とともに退避することとなった[22]。避難先を友ヶ島東岸に定め、7月11日5時を期して移動を開始する計画が立てられる[23]。移動予定当日、「桜」は予定時刻に航行を開始し、友ヶ島に向けて針路を定める回頭を終えた直後の5時9分に艦後部に触雷して火災が発生[23][24]。2、3分後には後部弾薬庫の爆発によってさらに左に傾き、「桜」は艦首を水面上に露出させたのち横転して沈没した[24][25]。沈没地点は大阪港中突堤灯台256度5.6マイル地点と記録されている[26]。乗員のうち130名が戦死したが、駆逐隊司令豊嶋大佐、駆逐艦長卜部章二少佐は爆発の衝撃で一時失神するも生還[27][28]。生存者のうち重傷者は甲子園ホテルを接収した大阪海軍病院、軽傷者は大阪海兵団および大阪市立遠里小野国民学校に収容された[29]。8月10日に除籍[30]。
歴代艦長[編集]
※『艦長たちの軍艦史』367頁による。
艤装員長[編集]
- 卜部章二 少佐:1944年11月12日 -
艦長[編集]
- 卜部章二 少佐:1944年11月25日 -
脚注[編集]
注釈[編集]
出典[編集]
- ^ 『第十一水雷戦隊戦時日誌』C08030127600, pp.45
- ^ #十一水戦1911 pp.5,14
- ^ a b #桂 p.296
- ^ a b #桂 p.297
- ^ #桂 pp.297-298
- ^ #雨倉 p.103
- ^ #一護艦2002 p.15,18,48
- ^ #駒宮 p.346
- ^ #一護艦2002 p.18
- ^ #百二戦2002 p.18,39
- ^ #桂 pp.309-311
- ^ #桂 pp.312-313
- ^ #桂 p.312
- ^ #十一水戦2003 p.49
- ^ #三十一戦2004 pp.52,54
- ^ #桂 p.316
- ^ #十一水戦2005 pp.51-52
- ^ a b #桂 p.317
- ^ #十一水戦2006 pp.13-14
- ^ #十一水戦2007 p.30
- ^ #桂 p.319
- ^ #桂 pp.319-320
- ^ a b #桂 p.320
- ^ a b #十一水戦2007 pp.31-32
- ^ #桂 p.321
- ^ #桂 p.322
- ^ #十一水戦2007 p.32
- ^ #桂 pp.323-324
- ^ #桂 p.325
- ^ 船体は、戦後の1955年(昭和30年)に引き揚げの上、解体されている。
参考文献[編集]
- アジア歴史資料センター(公式)(防衛省防衛研究所)
- Ref.C08030127700『自昭和十九年十一月一日至昭和十九年十一月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』。
- Ref.C08030127800『自昭和十九年十二月一日至昭和十九年十二月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』。
- Ref.C08030127900『自昭和二十年二月一日至昭和二十年二月二十八日 第十一水雷戦隊戦時日誌』、1-29頁。
- Ref.C08030127900『自昭和二十年三月一日至昭和二十年三月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』、30-63頁。
- Ref.C08030128000『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』、1-29頁。
- Ref.C08030128000『自昭和二十年五月一日至昭和二十年五月三十一日 第十一水雷戦隊戦時日誌』、30-61頁。
- Ref.C08030128100『自昭和二十年六月一日至昭和二十年六月三十日 第十一水雷戦隊戦時日誌』、1-20頁。
- Ref.C08030128100『自昭和二十年七月一日至昭和二十年七月十五日 第十一水雷戦隊戦時日誌』、21-34頁。
- Ref.C08030142100『自昭和二十年二月一日至昭和二十年二月二十八日 第一護衛艦隊戦時日誌』。
- Ref.C08030075200『自昭和二十年二月一日至昭和二十年二月二十八日 第百二戦隊戦時日誌』。
- Ref.C08030074900『自昭和二十年四月一日至昭和二十年四月三十日 第三十一戦隊戦時日誌』。
- 財団法人海上労働協会(編)『復刻版 日本商船隊戦時遭難史』財団法人海上労働協会/成山堂書店、2007年(原著1962年)。ISBN 978-4-425-30336-6。
- 駒宮真七郎『戦時輸送船団史』出版協同社、1987年。ISBN 4-87970-047-9。
- 野間恒、山田廸生『世界の艦船別冊 日本の客船1 1868〜1945』海人社、1991年。ISBN 4-905551-38-2。
- 桂理平『わが海戦記 囮部隊の空母瑞鳳と駆逐艦桜の最期』霞出版社、1992年。ISBN 4-87602-209-7。
- 片桐大自『聯合艦隊軍艦銘銘伝 全八六〇余隻の栄光と悲劇』光人社、1993年。ISBN 4-7698-0386-9。
- 松井邦夫『日本・油槽船列伝』成山堂書店、1995年。ISBN 4-425-31271-6。
- 雨倉孝之「松型駆逐艦長の奮戦記」『歴史群像 太平洋戦史シリーズ43 松型駆逐艦』学習研究社、2003年、93-105頁。ISBN 4-05-603251-3。
- 外山操『艦長たちの軍艦史』光人社、2005年。 ISBN 4-7698-1246-9
関連項目[編集]