岩村清一

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
移動先: 案内検索
岩村 清一
Seiichi Iwamura.jpg
阿武隈艦長時代
生誕 1889年(明治22年)9月14日
日本の旗 日本東京府
死没 1970年(昭和45年)2月9日
所属組織 大日本帝国海軍の旗 大日本帝国海軍
軍歴 1910年(明治43年) - 1944年(昭和19年)
最終階級 海軍中将
テンプレートを表示

岩村 清一(いわむら せいいち、1889年(明治22年)9月14日 - 1970年(昭和45年)2月9日)は、日本海軍軍人。最終階級は海軍中将

略歴[ソースを編集]

東京府芝区東京都港区)出身。1889年(明治22年)9月14日、岩村定高(初代三重県令:現在の知事)の子として生まれる。 旧制東京府立第一中学校より海軍兵学校第37期入校。入校時成績順位は180名中第54位、卒業時成績順位は179名中第8位。その後、海軍大学校甲種19期を29名中首席で卒業。

岩村の妻は高木八尺東大教授の妹。 評論家医学博士加藤周一大甥

岩村の同期に、井上成美海軍大将小沢治三郎草鹿任一浮田秀彦小松輝久桑原虎雄桑折英三郎大川内伝七海軍中将、岩下保太郎海軍少将などがいる。

岩村はイギリス中国情勢とに明るく、また軍政軍令勤務を均等に経験するなどバランスがとれた海軍軍人であった。

殊に、第一次世界大戦中に於ける岩村自身のヨーロッパでの見聞や、ロンドン軍縮会議全権随員を務めた経験から、対英米戦わずとの信念を固め、軍令部権限拡充問題では権限拡充反対に固執した井上軍務局第1課長に同情的態度だったと伝えられている。

ロンドン軍縮条約失効直後に海軍省艦政本部勤務となり軍備拡張に奔走した。

岩村は昭和18年に第2南遣艦隊司令長官に親補されたが、艦隊司令部が設置されたアンボンに於いて、一般兵士が現地一般住民に対し起こした事件が原因で任を解かれ、翌年予備役に編入された。

人物像[ソースを編集]

井上は海軍兵学校同期では岩村と岩下と仲が良く最も信頼をおいた人物だったという。岩村は太平洋戦争敗因の原因の1つにファイリングシステムの不備を指摘。カナタイプライター普及に尽力した。

晩年は東京都世田谷区代沢(池ノ上駅)に於いて静かな余生を過ごしたという。

年譜[ソースを編集]

主要著述物[ソースを編集]

  • 「日本とイギリスの民主政治」河出書房(1953年)
  • 「日本生産性の基盤」河出書房(1955年)
  • 「第二次産業革命と国字問題」一橋書房(1956年)
  • 「国家と事務と生産性」(1~3)機関誌水交・第83~85号(1960年)
  • 「生産性とこれからの実務用字」日本生産性本部(1966年)

参考文献[ソースを編集]

関連項目[ソースを編集]