バタヴィア

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1897年のバタヴィアの地図
バタヴィア開城前のジャカルタ

バタヴィア (Batavia) はインドネシアの首都ジャカルタオランダ植民地時代の名称。インドネシア語では通常バタフィアと発音する。

解説[編集]

ジャワ島西部のチリウン川河口に位置するバタヴィアは、12世紀から16世紀初頭にはスンダ・クラパと呼ばれパジャジャラン王国の外港として周辺海域から多くの商人が来航していた[1]1520年代以降はジャヤカルタジャカトラなどと呼ばれていたが、1619年オランダ東インド会社東インド総督ヤン・ピーテルスゾーン・クーンバンテン王国からこの地を租借し、要塞バタヴィア城を築いてオランダ東インド会社のアジアにおける本拠地とした[1]

バタヴィアの名は、古代ローマ時代に今のオランダにあたる地域に居住していたゲルマン人の一部族、バターウィー族(Batavii)に由来し、オランダ地方の古称でもある。[2]。以後、バタヴィアはオランダ植民地時代を通じてこの名称で呼ばれた。朱印船時代の日本人は現地式に「ジャガタラ(咬𠺕吧)」と呼んでいる。

17世紀末頃のバタウィアは、優に80年の歴史を持つ落ち着いた町になっていた。城壁を巡らした地区のなかにはいくつもの砲塔を備えた政庁があった。チャイナタウンやたくさんの倉庫も築かれ、街路には小さなテラスハウスが無数に立ち並び、運河や酒場もあった。チャイナタウンがあるのは、当時オランダが日本と中国の間で中継貿易を営み、日本に中国の品物を含めて輸送する役割を担っていたことや、開発労働者として多くの中国人移民を導入していたことが挙げられる[1]。また、気候としては赤道直下ということから一年中高温多湿の町でもあり、ここへ移住してくるオランダ人は、マラリアコレラデング熱などの熱帯病に倒れることが多かった[3]

旧バタヴィアは、ヤン・ピーテルスゾーン・クーンによって創られた。18世紀には疫病が蔓延するヨーロッパ系住民の「墓場」として、東洋中に悪名を届かせていた[4]

1808年に総督に任命されたナポレオン麾下の元帥ヘルマン・ウィレム・ダーンデルスは、バタヴィアをイギリス軍のあらゆる攻撃から守り抜くために、海岸沿いにあった城・要塞・倉庫などを放棄し、「ベネデンスタッド(下の方の町)」と呼ばれていた古くからのバタヴィアを事実上閉鎖した。そして、海からの攻撃に対して安全と考えられる内陸で、海岸より8Kmほど入った場所に新しい首都を築いた。新都は「ウェルトフレーデン(十分満足した)」と名付けられた[4]

バタヴィアの港湾はチリウン川の河口を需要に応じて北側に埋め立てて造られた遠浅な港で、外洋船は湾内に停泊し小型船によって荷揚げを行っていた。また、バタヴィア湾内のオンルスト島には、通過貨物の中継用倉庫や船舶補修所を備えた港が整備されていた。1889年に開通したスエズ運河によって蒸気船の来航数が増加すると、物流拠点としての能力を拡充させるためにタンジュン・ブリオク港が開発された[1]

1942年日本軍が当地に軍政を敷いた際に、ジャカルタと都市名を変更した。1949年第二次世界大戦後のインドネシアのオランダからの独立承認後は、スカルノ政権が日本統治時代の『ジャカルタ』の名称を引き続き使用することを決定し、現在に至っている。

17世紀のバタヴィア

脚注[編集]

  1. ^ a b c d 村松伸、島田竜登、籠谷直人(編著)『歴史に刻印されたメガシティ』 <メガシティ> 東京大学出版会 2016年、ISBN 978-4-13-065153-0 pp.45-46,75-81.
  2. ^ この名称はオランダ本国でもフランス支配下のバタヴィア共和国1793年 - 1806年)として使われたことがある。永積昭『オランダ東インド会社』46頁。
  3. ^ サイモン・ウィンチェスター著、柴田裕之訳『タラカトアの大噴火 -世界の歴史を動かした火山-』早川書房 2004年 157ページ
  4. ^ a b サイモン・ウィンチェスター著、柴田裕之訳『タラカトアの大噴火 -世界の歴史を動かした火山-』早川書房 2004年 163ページ

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]