小島太作

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

小島 太作(こじま たいさく、1912年1月27日[1] - 2002年11月4日[2])は、日本外交官位階正三位

初代駐フィンランド特命全権大使や、外務省研修所長、駐インド特命全権大使等を歴任した。

経歴・人物[編集]

神奈川県出身[2]。1936年東京商科大学(現一橋大学)卒業、外務省入省、中華民国留学。1943年総力戦研究所入所。外務省アジア局一課長、外務省アジア局参事官等を経て、1961年駐フィンランド特命全権公使。1962年駐フィンランド特命全権大使。1964年駐エチオピア特命全権大使。1967年駐マレーシア特命全権大使。同年トゥンク・アブドゥル・ラーマンマレーシア首相との間で戦争賠償協定たる血債協定を締結。1970年外務省研修所長。1972年駐インド特命全権大使。1974年三菱地所顧問。1982年勲二等旭日重光章受章。2002年叙正三位。娘の久美子は服部金太郎服部靖夫セイコーエプソン名誉会長の妻[3][4][5][6][7]

脚注[編集]

  1. ^ 『人事興信録 第25版 上』(人事興信所、1969年)こ27頁
  2. ^ a b 「小島太作氏死去/元駐インド大使」四国新聞2002/11/05 20:25
  3. ^ 「小島 太作」『日本官僚制総合事典1868-2000 付 主要企業トップ一覧』東京大学出版会 2001.11
  4. ^ 「小島 太作」『人事興信録 37版』人事興信所 1993.2
  5. ^ 小島太作 (こじま・たいさく) 共同通信社
  6. ^ 「データベース「世界と日本」(代表:田中明彦)日本政治・国際関係データベース政策研究大学院大学・東京大学東洋文化研究所」
  7. ^ (1953.10.6-21) 本会議 会議録及び 1−3 次韓日会談 決裂経緯