奥平昌章
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奥平昌章像(奥平神社蔵) | |
時代 | 江戸時代前期 - 中期 |
生誕 | 寛文8年3月24日(1668年5月5日) |
死没 | 元禄8年4月8日(1695年5月20日) |
改名 | 小次郎(幼名)→昌章 |
戒名 | 自性院殿真凉道如大居士 |
墓所 | 東京都品川区南品川の東海寺清光院 |
官位 | 従五位下、美作守 |
幕府 | 江戸幕府 |
藩 | 出羽山形藩主→下野宇都宮藩主 |
氏族 | 五島氏→奥平氏 |
父母 |
父:五島盛勝 母:アキ(奥平忠昌の四女) 養父:奥平昌能 |
兄弟 | 五島盛暢、昌章、日向正竹、五島盛延 |
妻 |
正室:菊姫(奥平昌能の次女) 側室:岡見氏 |
子 | 次郎吉、昌成、娘(秋元喬房正室) |
奥平 昌章(おくだいら まさあきら)は、出羽山形藩第2代藩主、のち下野宇都宮藩主。中津藩奥平家4代。
生涯
[編集]山形藩主時代
[編集]寛文8年(1668年)3月24日、肥前福江藩主五島盛勝の次男(三男とも)として生まれる。
寛文12年(1672年)に母方の伯父の山形藩主奥平昌能の末期養子に迎えられ、昌能の死去により家督を継いだ。長男、長女に先立たれた昌能には娘2人が遺されていたが、いずれも年長で、次女のくら姫は松平乗春の正室となり、より歳の近い三女の菊姫(寛文4年(1664年)生まれ)と結婚する。天和元年12月27日(1682年2月4日)には従五位下・美作守に叙位・任官される。
宇都宮藩主時代
[編集]貞享2年(1685年)6月22日、宇都宮藩に移封された。貞享4年(1687年)、烏山藩主那須資徳が改易されると、烏山城受け取り役を務めている。また奥州街道と日光街道が通る宇都宮は旅人が多く、病人対策のために元禄2年(1689年)に順番医制度を導入して医師20人を常駐させた[1]。
元禄8年(1695年)4月8日に死去、享年28。家督は2歳だった次男の昌成が継いだ。