奈良の鹿

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奈良公園で撮影

奈良の鹿(ならのしか)は、奈良県奈良市にある奈良公園とその周囲・山間部[注釈 1]に生息するシカ(偶蹄目シカ科シカ属ニホンジカ亜種[1])。出産直後は3000g前後、成獣で雄鹿は60から100kg、雌は40から60kgになる。角は雄鹿だけで毎年生え代わり、生後1年で1本角を1対、成獣では3つに枝分かれした立派な角を1対もつ[2]。1957年(昭和32年)に奈良市一円の鹿が、「奈良のシカ」として国の天然記念物に指定されている野生動物であり、所有者はいない[3]。鹿と人との関係には長い歴史の変遷がある。

歴史[編集]

7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された万葉集においては奈良の鹿の歌が詠まれ、このころは純粋に野生の鹿だった[注釈 2]。同時期の767年には春日大社が創建され、その由来で主神の建御雷命(たけみかづちのみこと)が鹿島神宮から遷る際に白鹿に乗ってきたとされ、神鹿(しんろく)と尊ばれるようになる[5]。氏社参詣の藤原氏からも崇拝の対象となり、人間が鹿に出会うと神の使いとして輿から降りて挨拶した。これが続いて、鹿もお辞儀の習慣を覚えたという説がある[6]

やがて神仏習合で事実上の大和守護だった興福寺からも神鹿として厳重に保護され、傷つけた場合は処罰処刑や連座追放の対象となる[7]。しかし、住民とのトラブルが多く、江戸時代初期のあり様では夜間歩くと路地から鹿が飛び出し人に敵対し何人もけがをしている[8]。過去でも鹿の様子は同様で、軋轢があっても、人は手が出せず石を投げたり杖などで防護するが鹿に当たるとたちまち死傷する状態で、共存が困難で様々の事件が起き、半割の木の丸い方を道路に向けた鹿に害を与えない奈良格子など町屋の様式にも影響している。天文20年(1551年)10月2日には、10歳の女子が本子守町で鹿に石を投げたら当たり、神鹿を殺害したとして、大人と同じように縄でくくられた上で興福寺周囲の塀を馬で一周させられ(大垣回し)した後に斬首処刑され、家族は連座で家屋を破壊され追放された(『興福寺略年代記』[9][10]

江戸時代に入っても興福寺出身の奈良奉行が続き、興福寺の鹿に対する司法支配が続いていたが、寛文10年(1670年)2月28日に初めて江戸幕府から派遣された溝口信勝が奈良奉行となり、幕府の方針で極端な神鹿保護から厳重な動物保護への転換が図られ、人の害となる鹿の角を伐る「鹿の角伐り」を始め現代まで続く。以後は、鹿死傷に対する裁判は奈良奉行所が主体となった[10]

明治時代には、1871年(明治4年)中央派遣の四條隆平県令が、鹿による農作物被害軽減だと放し飼いを停止し、鹿苑を造り鹿を収容した。だが野生の鹿が狭い場所に慣れず、餌不足と、野犬侵入、病気などで死に38頭に激減する。奈良県の堺県への合併により、1876年(明治9年)再度開放し、1878年(明治11年)12月2日奈良町と高畑、水門、雑司、川上、中ノ川、白毫寺、鹿野園など周囲8カ村と春日奥山に殺傷禁止区域が設定され、旧興福寺領を中心に1880年(明治13年)2月14日に奈良公園となる。だが、1890年(明治23年)には周囲の食害が大きくなり、周囲村の要望で禁止区域が、奈良町と奈良公園(春日奥山含む)と春日大社境内に縮小される。そのため区域外へのおびき出しによる密猟などが横行し、1891年(明治24年)に鹿の状態を憂いた現在の「奈良の鹿愛護会」の前身となる「春日神鹿保護会」が設立された。以後、「公園の中の鹿」として増加し、親しまれるようになる。第二次世界大戦末期と戦後の混乱期の食糧難による密猟で79頭まで激減し、奈良公園に行っても鹿の姿がほとんど見られないという深刻な状態になる。その後の社会の安定で再び増加し、1000頭前後に安定する[11]。市民の鹿への愛着と共存意識が深くなり、修学旅行の実施と観光の復活とともに、全国的に知られたマスコット的な存在となる。

鹿との共存と人気[編集]

「しかせんべい」とシカ

市街地に野生の鹿が人と共存している場所は奈良以外にはない。そのため、大変親しまれている。ビニール製の車輪付き人形や鹿の角カチューシャなどが土産物として売られている。明石家さんまが歌謡曲「奈良の春日野」に「鹿のフン」の踊りをしてヒットして「鹿のふん」というお菓子も土産に加わったこともある。

鹿へ愛玩用に食べさせる鹿せんべいが、売られていて貼付の証紙が奈良の鹿愛護会の財源の一つとなっている。主食は芝で、せんべいはおやつである。せんべいを持っていると奈良の鹿はおじぎする。しかし、いつまでも食べさせないと怒ったシカに噛まれたりすることがある。奈良の鹿愛護会では、24時間体制で鹿の救助・救出をおこなっている[12]。奈良の鹿愛護会では、江戸時代に始まった鹿の角切りを継続させ開催している。

1954年(昭和29年)8月20日に生まれた頭の中央に冠状に白い毛が生えた鹿の白ちゃんが有名だった。白ちゃんは奈良国立博物館敷地とその周辺をテリトリーにしていたが、9歳の時に一度だけ出産した子供が車に轢かれて死に、それ以後白ちゃんは、怒りを表し車に突進していくようになった。それを心配した近所の人たちが奈良の鹿愛護会に相談し、白ちゃんの思う通りにさせるため、1台1台車を止めて、「この先で鹿が飛び出してくるので注意してほしい」と運転者に依頼した[13]が、1週間で突進を止めた。しかし、1972年(昭和47年)白ちゃん自身も交通事故で死んだ[14]。2002年ごろには実際に白鹿も誕生した。

鹿の角きりで切られた角は、加工業者に売却され、過去には帯留め・箸などの生活用具や、置物等の鹿角細工にされ、奈良土産で人気があったが、職人の減少で衰退。最近は、軸に角を使った高級筆ペンや角キャップの高級万年筆、持ち手に使用のステッキなど新たな使用方法で奈良らしさや高級品の象徴となっている[15]

鹿の生態[編集]

日の出から動き始め、宿泊する場所の泊り場から採食場へ移動する。その後は休息する場所へと移動し、朝から夕方まで滞在する。夕方頃、採食しながら泊まり場へと移動する。日没後は泊まり場で食べたり、寝て過ごす。メスは母系グループで生活し、メスの子は生涯そのグループに属するが、オスの子は2才ごろ誕生した群れから独立する。移動の際には他のオスとグループを作ることが多いが、基本は雌雄別々の群れで1頭の行動範囲は10~20h。公園全体では1000頭余りがいる[2]

一番遠方へ放浪したのは、1948年(昭和23年)大阪府大阪市御堂筋で雄鹿が当時の占領軍に発見されたことがあり、最近では生駒市鹿ノ畑から四条畷市へ遊行しているのが見つかったこともある[16]

前記の通り鹿せんべいを見せるとおじぎをするなど、通常は人に危害を加えることはないが、出産直後の子連れのメスや発情期のオスはこの限りではなく、注意が必要となる[17]

奈良のシカの範囲と天然記念物指定[編集]

1957年9月の天然記念物指定は、春日大社が所有者として「天然記念物指定申請書」を、奈良市長と市観光協会会長は「要望書」を提出して主導し、県・市教育委員会は「副申書」を書いた。春日大社と奈良市は、農業被害補償特定のためと指摘されるが、具体的な指定範囲と面積を記入していたが、現実の指定は「奈良市一円」だった。県は、その地域から出たシカが保護されなくなるという弊害防止のためと言い、文化庁は、「『奈良のシカ』とは、主に春日大社境内、奈良公園及びその周辺に生息し、古来、神鹿として春日大社と密接にかかわり、人によく馴れている等の…シカという意味である。その生息する場所(地域)を特定して制限を加えたものではない。また、『奈良のシカ』は分類学上、本州に広く生息しているホンシュウジカであり、『奈良のシカ』という特別の『種』が存在するわけではない」としている。また、地域指定のためには、当該地域の全ての地権者の同意が必要だが、困難で実現できてないため、という理由もある[18]。文化財保護委員会の規定では、「奈良公園及びその周辺に生息している人馴れしたシカ」となるが、範囲指定のない天然記念物指定は多くの問題や論議となる。

1981年2月、奈良市民2人が、高円山頂上付近の山林で、角伐り跡のある鹿1頭を銃殺し奈良地検が文化財保護法違反で起訴したが、1983年6月の判決で「奈良のシカ」を生息範囲は「公園を中心に周辺、直線距離で数キロ以内」で、公園に棲む「公園ジカ」だけでなく、通常は周辺山中に棲むが公園ジカとも交流のある「山ジカ」も存在し、いずれも人に馴化する特性を示す鹿が天然記念物の「奈良のシカ」だ」と規定し認定の上で有罪としたが、まだ曖昧で今後に論議となる指摘もあった[18]

だが、これも1979年4月、1981年9月の二次にわたる鹿害訴訟の和解で変更された。農家側は、天然記念物の指定で捕獲できないのだから、「地域指定」に変更を要望したが、それは退けたが1985年2月和解で、「シカの捕獲に関する文化財保護法第80条の 運用の基準等」が制定され、鹿の生息域を、平坦部を中心とする奈良公園(A)、春日山原始林など公園山林部(B)、その双方の周辺地域(C)、その他地域(D)の4つに区分した。AB地区のシカは保護するが、農地のあるCD地区では天然記念物であっても、一定のルールの下、CD地区のシカは捕獲(駆除を含む)ができるとした。さらに、ABC地区のシカには、同指導基準等が適用され、この地区のシカは、文化財保護委員会の規定や判例の旧来の人馴れ基準に関係なくすべての鹿が、保護管理される対象となる天然記念物だとされ、D地区は従来のまま公園周辺に生息する人馴れした鹿が対象である[18]

農業被害[編集]

明治時代以後に鹿の農食害が問題になるが、神鹿として所有権を春日大社が主張した。1916年(大正5年)、奈良公園外の畑で死んでいた鹿を食べた住民に対し、大審院において春日大社所有の神鹿を窃盗したとの有罪判決が出て大社側の所有権が認められた結果、捕獲ができなくなり、深刻化した。これに対し奈良県と神鹿保護会と春日大社が合わせて保護会から被害補償を配給し、今も奈良の鹿愛護会から見舞金として支給している[19]

だが、戦後になり、1964年に周辺農家は「奈良市鹿害阻止農家組合」を結成し被害防止のため交渉したが、進展がないと一部農家が1979年と1981年に国、奈良県、奈良市、春日大社、奈良の鹿愛護会を提訴した。それで春日大社は所有権を取り下げ法的責任はないとして、奈良県は法的な責任は認めず、やがて1985年に奈良の鹿愛護会との和解となり、春日大社は和解書にも名前は直接避けて「利害関係人」と記され県と奈良市とともに農業被害の防止に協力する形となった[20][21][18]

捕獲事業[編集]

奈良公園外の都祁地区、月ヶ瀬地区以外の奈良市山間部にも約4000頭が生息しているが[20]、その後、被害が公園外の周囲山間に拡大し、奈良市は1987年から農家設置の防鹿柵の補助事業を始め約3億円、総延長46キロの柵が設けられた[22]。しかし、奈良県の2014年調査報告で、2013年度までの5年間で、鹿による農業被害が「増えた」と感じている集落が72.5%に増えた[23]。食害は水田に植えたばかりの稲被害のほか柿、椎茸、茶など多種にわたり、農家側では追い払うしか方法がなく、地元農家は以前に行政を相手取り損害賠償請求を提訴した後に和解したが、被害が続き、2000年 (平成12年)7月、県知事に「鹿害に伴う要望書」を提出していたが、いっそう広域化した[20][21]

奈良県は2008年12月からの「鹿のあり方検討会」を経て2013年に「奈良のシカ保護管理計画検討委員会」を設立して鹿の保護管理計画を協議していたが、この被害広域化は深刻なものだと、これまでの「奈良市一円」に生息するシカ保護管理方針を修正し東部山間地区の頭数抑制を検討[24]。文化庁は奈良公園中心部、その少し外側、外縁部などの4地区を設定し鹿の保護と管理の目安を示した。2016年県は奈良公園から離れた地域の鹿を保護対象外とする管理計画を策定し従来の奈良市全域という保護指定から[注釈 3]、方針変更した。

2017年5月に文化庁から文化財保護法の「現状変更」の許可を受け、8月1日から120頭を目標に猟友会に委託し、田原地区と東里地区で6カ所に箱わなを設置し捕獲事業を開始し、捕獲したシカは解体し、研究機関で年齢や栄養状態など生態を調べる[23]。観光客などの餌付けが問題視され、鹿せんべい以外は与えないことを盛り込んだ条例化も検討されている。この捕獲に、「奈良市鹿害阻止農家組合」は歓迎を表明したが[25]、同年8月3日自然保護団体「一般財団法人 日本熊森協会」(兵庫県西宮市)は、「奈良の神鹿文化を壊すな」と中止するよう要望書[26]を提出した[27][28]。8月17日に1頭が初捕獲され、解体して胃の内容物や遺伝子検査で農作物被害対策に活用する[29]

脚注[編集]

注釈[編集]

  1. ^ 都祁地区、月ヶ瀬地区を除く。
  2. ^
    • 春日野に粟蒔けりせば鹿待ちに継ぎて行かましを社し[4]恨めし - 佐伯赤麻呂
    • 高円の秋野のうえの朝霧に妻呼ぶ牡鹿出で立つらむか - 大伴家持
  3. ^ エリアで段階的に、奈良公園など主要地域は「重点保護地区」、付近の若草山や春日山原始林は行動エリア「準重点保護地区」、その周辺は予備行動エリアで鹿が迷い込めば生け捕りにする「保護管理地区」、それ以外は山間部で「管理地区」で被害状況などで頭数管理をする

出典[編集]

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  1. ^ 一般財団法人奈良の鹿愛護会HP
  2. ^ a b 一般財団法人奈良の鹿愛護会HP「奈良のシカについて」2017年8月8日閲覧
  3. ^ 奈良公園及びその周辺で生息するシカ(ニホンジカ)について2017年8月19日閲覧
  4. ^ 正夫人のことと言われる
  5. ^ 奈良の鹿愛護会(監修)2010, pp. 105-107、第5章「神鹿の誕生と角切り」播鎌一弘
  6. ^ 朝日新聞大阪本社版1998年1月4日付
  7. ^ 奈良の鹿愛護会(監修)2010, pp. 107-110.
  8. ^ 奈良市史』通史3巻、p.239 史料『橋本家文書』「角伐濫觴」
  9. ^ 「続群書類従」第二十九輯下
  10. ^ a b 大石慎三郎(監修)、石川松太郎(編集)『江戸時代人づくり風土記―ふるさとの人と知恵 29 奈良』農山漁村文化協会、1998年、p.45-46、245-246
  11. ^ 奈良の鹿愛護会(監修)2010, pp. 178-186、第6章「近代における奈良の鹿」
  12. ^ 一般財団法人奈良の鹿愛護会HP「奈良の鹿が抱える問題」2017年8月8日閲覧
  13. ^ 奈良の鹿愛護会(監修)2010, pp. 28-31.
  14. ^ 奈良県図書情報館HP「鹿の角切り」<鹿の白ちゃん>で生死年月日出産齢・交通事故原因死を補記。2017年8月21日閲覧
  15. ^ 2015年6月5日 「日経新聞」「奈良とシカの物語」(4)2017年8月8日閲覧
  16. ^ 奈良の鹿愛護会(監修)2010, pp. 19-20.
  17. ^ 「奈良のシカ」について - 奈良の鹿愛護会
  18. ^ a b c d 渡辺伸一 「<半野生>動物の規定と捕獲をめぐる問題史 - なぜ「奈良のシカ」の規定は二つあるのか? - 渡辺伸一 奈良教育大学社会科教育講座(社会学)」「奈良教育大学附属自然環境教育センター紀要」2012年5月 第1号掲載、p111-118
  19. ^ 奈良の鹿愛護会(監修)2010, pp. 195-198.
  20. ^ a b c 日本農業新聞新聞IA 2017年8月7日「奈良のシカ 捕獲開始 農業被害に歯止め 市東部2地区」2017年8月8日閲覧
  21. ^ a b 渡辺伸一 「「奈良のシカ」による農業被害対策の理念と現実 奈良公園周辺農家へのアンケート調査をふまえて」「奈良教育大学附属自然環境教育センター紀要」2007年3月 第8号掲載、p.23-41
  22. ^ 朝日新聞2017年7月31日「天然記念物「奈良のシカ」、県が捕獲開始 その理由とは」2017年8月8日閲覧
  23. ^ a b 2017年7月31日 時事通信「奈良のシカ初めて捕獲=天然記念物、食害抑制で」2017年8月8日閲覧
  24. ^ 朝日新聞2012年11月12日「奈良のシカ、県が駆除検討 公園外の食害絶えず」2017年8月21日閲覧
  25. ^ 日本農業新聞2017年5月31日「農家悩ます「奈良のシカ」訴え50年超 捕獲へ やっと2017年8月21日閲覧
  26. ^ 要望書「奈良市D地区のシカ捕殺を中止し、予算は被害防除に使うべき」
  27. ^ 共同通信 2017年8月3日IA「奈良のシカ捕獲中止を要望 自然保護団体」2017年8月20日閲覧
  28. ^ 2017年7月13日 くまもりNEWS「殺しても鹿害は減らない 予算は防除柵強化に!奈良市D地区訪問2017年8月8日閲覧
  29. ^ 読売新聞 2017年8月17日「国の天然記念物「奈良のシカ」初捕獲…食害軽減」2017年8月19日閲覧

参考文献[編集]

関連項目[編集]

  • 鹿政談 - 江戸時代の死んだ「神鹿」に対する処罰を題材とした古典落語。
  • まんとくん - 奈良の鹿をモチーフとしたマスコットキャラクター。

外部リンク[編集]