奈良の鹿

奈良の鹿(なら の しか)とは、奈良県奈良市にある奈良公園とその周囲・山間部[注釈 1]に生息するシカ(偶蹄目シカ科シカ属ニホンジカ亜種[1])である。
出産直後は3000グラム前後、成獣で雄鹿は60キログラムから100キログラム、雌は40キログラムから60キログラムになる。角は雄鹿だけで毎年生え代わり、生後1年で1本角を1対、成獣では3つに枝分かれした立派な角を1対持つ[2]。1957年(昭和32年)に奈良市一円の鹿が、「奈良のシカ」として国の天然記念物に指定されている[3]。「奈良のシカ」は野生動物であり、所有者はいない[4][5]。鹿と人との関係には長い歴史の変遷がある。
歴史[編集]
7世紀後半から8世紀後半にかけて編纂された『万葉集』では奈良の鹿の歌が詠まれ、このころは純粋に野生の鹿であった[注釈 3]。同時期の767年(天平神護3年/神護景雲元年)には春日神社が創建され、その由来で主神の建御雷命(たけみかづちのみこと)が鹿島神宮から遷る際に白鹿に乗ってきたとされ、神鹿(しんろく)と尊ばれるようになる[8]。氏社参詣の藤原氏からも崇拝の対象となり、人間が鹿に出会うと神の使いとして輿から降りて挨拶した。これが続いて、鹿もお辞儀の習慣を覚えたという説がある[9]。
藤原氏の氏寺で、春日神社と関係が深く、事実上の大和国守護であった興福寺からも神鹿として厳重に保護され、傷つけた場合は処罰処刑や連座追放の対象となる[10]。しかし、住民とのトラブルが多く、江戸時代初期のあり様では夜間歩くと路地から鹿が飛び出し人に敵対し何人もけがをしている[11]。過去でも鹿の様子は同様で、軋轢があっても、人は手が出せず石を投げたり杖などで防護したりするが、鹿に当たるとたちまち死傷する状態で、共存が困難で様々の事件が起きた。半割の木の丸い方を道路に向けた鹿に害を与えない奈良格子など町屋の様式にも影響している。天文20年(1551年)10月2日には、10歳の女子が本子守町で鹿に石を投げたら当たり、神鹿を殺害したとして、大人と同じように縄でくくられた上で興福寺周囲の塀を馬で一周させられ(大垣回し)した後に斬首処刑され、家族は連座で家屋を破壊され追放された(『興福寺略年代記』[12])[13]。
江戸時代に入っても興福寺出身の奈良奉行が続き、興福寺の鹿に対する司法支配が続いていたが、寛文10年(1670年)2月28日に初めて江戸幕府から派遣された溝口信勝が奈良奉行となり、幕府の方針で極端な神鹿保護から厳重な動物保護への転換が図られた。延宝6年(1678年)鹿殺害犯に対して興福寺は処刑請願を奉行所に出したが拒否した[14]。以後は、鹿死傷に対する裁判は奈良奉行所が主体となった。そして人の害となる鹿の角を伐る「鹿の角伐り」を始め、現代まで続く[13]。
明治時代には、明治4年(1871年)、中央派遣の四条隆平県令が、鹿による農作物被害軽減として、放し飼いを停止して代わりに鹿苑を造り、鹿を収容した。しかしながら、野生の鹿が狭い場所に慣れず、餌不足と、野犬侵入、病気などで死に38頭に激減する。奈良県の堺県への合併により、1876年(明治9年)に再度開放し、1878年(明治11年)12月2日奈良町と高畑、水門、雑司、川上、中ノ川、白毫寺、鹿野園など周囲8カ村と春日奥山に殺傷禁止区域が設定され、旧興福寺領を中心に1880年(明治13年)2月14日に奈良公園となる。しかし、1890年(明治23年)には周囲の食害が大きくなり、周囲村の要望で禁止区域が、奈良町と奈良公園(春日奥山含む)と春日大社境内に縮小される。そのため区域外へのおびき出しによる密猟などが横行し、1891年(明治24年)に鹿の状態を憂いた現在の「奈良の鹿愛護会」の前身となる「春日神鹿保護会」が設立された。以後、「公園の中の鹿」として増加し、親しまれるようになる。1941年(昭和16年)には806頭を数えた。しかし、第二次世界大戦末期の1943年(昭和18年)には350頭。さらに、戦後の混乱期の食糧難による密猟で1945年(昭和20年)79頭まで激減し、翌年、奈良公園に行っても鹿の姿がほとんど見られないという深刻な状態になる[15][16]。1948年(昭和23年)には120頭に持ち直し[17]、その後の社会の安定で再び増加し、1000頭前後に安定する[18]。市民の鹿への愛着と共存意識が深くなり、修学旅行の実施と観光の復活とともに、全国的に知られたマスコット的な存在となる。
伝説[編集]
三作石子詰め(さんさくいしこづめ)という伝説がある[19]。その昔、興福寺の寺子屋で三作という名前の小僧が習字をしていた、そこに鹿が現れ半紙を食べられそうになったため、小僧はとっさに文鎮を鹿に投げつけた、ところが急所に当たったためか、鹿は死んでしまった。神鹿殺害の罪は穴に石で埋められる石子詰め刑罰と定められており、三作もこの刑で死罪となった。嘆き悲しんだ母親は三作の霊を弔うため、毎日明け7つ(午前4時)暮れ6つ(午後6時)に菩提院大御堂の鐘をついて供養に努めたという。現在、興福寺菩提院大御堂の前庭には三作の塚がある[20]。
人間との共存と人気[編集]
市街地に野生の鹿が人と共存している場所は日本では奈良以外にはない[21][注釈 4]。そのため、大変親しまれている。ビニール製の車輪付き人形や鹿の角カチューシャなどが土産物として売られている[23][24]。明石家さんまが歌謡曲『奈良の春日野』に「鹿のフン」の踊りをしてヒットして「御神鹿のふん」というお菓子も土産に加わった[25]。
鹿へ愛玩用に食べさせる鹿せんべいが売られていて、貼付の証紙が奈良の鹿愛護会の財源の一つとなっている。鹿の主食は芝で、せんべいはおやつである。せんべいを持っていると奈良の鹿はおじぎする [26][27][28]。しかし、いつまでも食べさせないと怒ったシカに噛まれたりすることがある。奈良の鹿愛護会では、24時間体制で鹿の救助・救出を行っている[29]。また、同会では、江戸時代に始まった鹿の角切りを継続させ開催している。角切りで切られた角は、加工業者に売却され、過去には帯留め・箸などの生活用具や、置物等の鹿角細工にされ、奈良土産で人気があったが、職人の減少で衰退。最近は、軸に角を使った高級筆ペンや角キャップの高級万年筆、持ち手に使用のステッキなど新たな使用方法で奈良らしさや高級品の象徴となっている[30]。
奈良の鹿は絶えず栄養不良であったが、保護されていることで長生きするという微妙なバランスの中で生息しているのが特徴である。一般の野性鹿より体格は小さく、成獣雄鹿の体重は通常50キログラムほどであるが、奈良の鹿は30キログラム程度で体長も小さく体格も劣る。大腿骨骨髄の色の検査でも栄養不足を示している[31]。しかし人の与える鹿せんべいはあくまでもおやつであるためそればかり食べていると栄養が偏り、他の物を給餌すれば自然の鹿のエサとは違うため体格は大きくなっても健康を害したり、味を覚えれば鹿害獣と化す可能性がある。自然のエサであるシバや草やドングリも集めるには限界があり、この問題は未解決のままとなっている[32]。
前記の通り鹿せんべいを見せるとおじぎをするなど、通常は人に危害を加えることはないが、出産直後の子連れのメスや発情期のオスはこの限りではなく、注意が必要となる[33]。特に外国人観光客の増加に伴い、鹿に噛まれるなどして怪我をする被害が、2018年(平成30年)度は200件(奈良県の調査、2019年(平成31年)1月時点の数字)と過去最多になった。これは集計を開始した2013年(平成25年)度の4倍の数である。怪我人の多くは中国人などの外国人観光客であった。骨折などの大けがをした人は年間最多の8人で、うち5人は外国人観光客であった。2017年(平成29年)度までの8年間で10人がシカに突き飛ばされるなどで骨折しており、近年重傷者が激増している。2017年(平成29年)の怪我人は186人で、いずれも鹿せんべいを与える時に写真を撮るなどして、その際に焦らして鹿を怒らせ攻撃的にさせたのが主な原因とされている。こうした外国人観光客と鹿の間で発生する問題の増加に伴い、奈良県は2018年(平成30年)4月から中国語、英語、日本語の「鹿せんべいを与える際の注意看板」を公園と鹿せんべい販売所周辺に設置した[34]。
奈良公園の鹿で特に有名な個体は、1954年(昭和29年)8月20日に生まれた頭の中央に冠状に白い毛が生えた「白ちゃん」である。白ちゃんは奈良国立博物館敷地とその周辺を縄張りにしていた。9歳の時に一度だけ出産した子供が車に轢かれて死にそれ以後、白ちゃんは、怒りを表し車に突進していくようになった。心配した近所の人たちが奈良の鹿愛護会に相談し、白ちゃんの思う通りにさせるため、1台1台車を止めて、「この先で鹿が飛び出してくるので注意してほしい」と運転者に依頼した[35]が、1週間で突進を止めた。しかし、1972年(昭和47年)、白ちゃん自身も交通事故で死んだ[36]。
1994年(平成6年)6月には、春日大社の由来にあるような白鹿が実際に誕生したが、注目を浴びすぎて人に追われ道路に走り出て、車にはねられ右前脚を骨折。鹿苑内で保護し、2003年(平成15年)6月に奈良公園に戻した。しかし、また観光客らに追い回され、後ろ両足を疲労骨折、2003年(平成15年)7月下旬から鹿苑内で再保護していたが、2004年(平成16年)2月11日に肝臓病で9歳で死亡した。通常、12から15年の寿命の雄鹿が10年未満で死んだことに、奈良の鹿愛護会は「注目されすぎ公園に出たのにすぐに骨折して戻り、不憫な生涯だった」と嘆いた[37]。
生態[編集]
日の出から動き始め、宿泊する場所の泊り場から採食場へ移動する。その後は休息する場所へと移動し、朝から夕方まで滞在する。夕方ごろ、採食しながら泊まり場へと移動する。日没後は泊まり場で食べたり、寝たりして過ごす。メスは母系グループで生活し、メスの子は生涯そのグループに属するが、オスの子は2才ごろに誕生した群れから独立する。移動の際には他のオスとグループを作ることが多いが、基本は雌雄別々の群れで1頭の行動範囲は10~20ヘクタール。公園全体では1105頭(オス鹿217頭、メス鹿806頭、子鹿82頭)がいる(2021年(令和3年))[38]。
一番遠方へ放浪した例は、1948年(昭和23年)大阪府大阪市の御堂筋で雄鹿が当時の占領軍に発見されたことがある。最近では生駒市鹿ノ畑から四条畷市へ遊行しているのが見つかったこともある[39]。
生息範囲と天然記念物指定[編集]
1957年(昭和32年)9月の天然記念物指定は、春日大社が所有者として「天然記念物指定申請書」を、奈良市長と市観光協会会長は「要望書」を提出して主導し、県・市教育委員会は「副申書」を書いた。春日大社と奈良市は、農業被害補償特定のためと指摘されるが、具体的な指定範囲と面積を記入していたが、現実の指定は「奈良市一円」であった。県は、その地域から出たシカが保護されなくなるという弊害防止のためと言い、文化庁は、「『奈良のシカ』とは、主に春日大社境内、奈良公園及びその周辺に生息し、古来、神鹿として春日大社と密接にかかわり、人によく馴れている等の…シカという意味である。その生息する場所(地域)を特定して制限を加えたものではない。また、『奈良のシカ』は分類学上、本州に広く生息しているホンシュウジカであり、『奈良のシカ』という特別の『種』が存在するわけではない」としている。また、地域指定のためには当該地域の全ての地権者の同意が必要であるが、困難で実現できてないため、という理由もある[40]。文化財保護委員会の規定では、「奈良公園及びその周辺に生息している人馴れしたシカ」となるが、範囲指定のない天然記念物指定は多くの問題や論議となる。
1981年(昭和56年)2月、奈良市民2人が、高円山頂上付近の山林で、角伐り跡のある鹿1頭を銃殺し、奈良地方検察庁が文化財保護法違反で起訴した。1983年(昭和58年)6月の判決で「奈良のシカ」を生息範囲は「公園を中心に周辺、直線距離で数キロメートル以内」で、公園に棲む「公園ジカ」だけでなく、通常は周辺山中に棲むが公園ジカとも交流のある「山ジカ」も存在し、いずれも人に馴化する特性を示す鹿が天然記念物の「奈良のシカ」だ」と規定し認定の上で有罪としたが、まだ曖昧で、角切り跡などの"馴化の証明"が無い場合に、今後に再論議となるとの指摘もあった[40]。
しかし、これも1979年(昭和54年)4月、1981年(昭和56年)9月の二次にわたる鹿害訴訟の和解で変更された。農家側は、天然記念物の指定で捕獲できないのであるから「地域指定」に変更を要望したものの、それは退けたが、1985年(昭和60年)2月和解で、「シカの捕獲に関する文化財保護法第80条の運用の基準等」が制定され、鹿の生息域を、平坦部を中心とする奈良公園(A)、春日山原始林など公園山林部(B)、その双方の周辺地域(C)、その他地域(D)の4つに区分した。A・B地区のシカは保護するが、農地のあるC・D地区では天然記念物であっても、一定のルールの下、C・D地区のシカは捕獲(駆除を含む)ができるとした。さらに、A・B・C地区のシカには、同指導基準等が適用され、この地区のシカは、文化財保護委員会の規定や判例の旧来の人馴れ基準に関係なく全ての鹿が、保護管理される対象となる天然記念物であるとされ、D地区は従来のまま公園周辺に生息する人馴れした鹿が対象である[40]。
自動車が鹿と衝突する交通事故が起きた場合、天然記念物であるため、処罰されると誤解して運転手が通報せず走り去るひき逃げも多いが、意図しない衝突は処罰の対象にならない[41]。
農業被害[編集]
奈良での農作物被害をめぐる鹿との攻防の歴史は古い。江戸時代には鹿の侵入を防ぐ「鹿垣」が作られたとされる。1878年(明治11年)には保護を目的に「神鹿殺傷禁止区域」が設定されたが、農作物被害を理由に、1923年(大正12年)には区域が春日大社境内と奈良公園内に縮小されている[42]。
明治時代以後も、鹿の農食害が問題になるが、神鹿として所有権を春日大社が主張した。1916年(大正5年)、奈良公園外の畑で死んでいた鹿を食べた住民に対し、大審院において春日大社所有の神鹿を窃盗したとの有罪判決が出て大社側の所有権が認められた結果、捕獲ができなくなり、深刻化した。これに対し奈良県と神鹿保護会と春日大社が合わせて保護会から被害補償を配給し、今も奈良の鹿愛護会から見舞金として支給している[43]。
しかし、戦後(第二次世界大戦後)になり、1964年(昭和39年)に周辺農家は「奈良市鹿害阻止農家組合」を結成して被害防止のため交渉したが、進展がないと一部農家が1979年(昭和54年)と1981年(昭和56年)に、国、奈良県、奈良市、春日大社、および、奈良の鹿愛護会を提訴した。それで春日大社は所有権を取り下げ法的責任はないとして、奈良県は法的な責任は認めず、やがて1985年(昭和60年)に奈良の鹿愛護会との和解となり、春日大社は和解書にも名前は直接避けて「利害関係人」と記され県と奈良市とともに農業被害の防止に協力する形となった[44][45][40]。
捕獲事業[編集]
奈良公園外の都祁地区、月ヶ瀬地区以外の奈良市山間部にも約4000頭が生息しているが[44]、その後、被害が公園外の周囲山間に拡大し、奈良市は1987年(昭和62年)から農家設置の防鹿柵の補助事業を始め約3億円、総延長46キロの柵が設けられた[46]。しかし、奈良県の2014年(平成26年)調査報告で、2013年(平成25年)度までの5年間で、鹿による農業被害が「増えた」と感じている集落が72.5%に増えた[47]。食害は、水田に植えたばかりのイネのほか、カキノキ、シイタケ、チャノキなど多種にわたり、農家側では追い払うしか方法がなく、地元農家は以前に行政を相手取り損害賠償請求を提訴した後に和解したが、被害が続き、2000年(平成12年)7月、県知事に「鹿害に伴う要望書」を提出していたが、いっそう広域化した[44][45]。
奈良県は2008年(平成20年)12月からの「鹿のあり方検討会」を経て2013年(平成25年)に「奈良のシカ保護管理計画検討委員会」を設立して鹿の保護管理計画を協議していたが、この被害広域化は深刻なものであると、これまでの「奈良市一円」に生息するシカ保護管理方針を修正し東部山間地区の頭数抑制を検討[48]。文化庁は奈良公園中心部、その少し外側、外縁部などの4地区を設定し鹿の保護と管理の目安を示した。2016年(平成28年)、県は奈良公園から離れた地域の鹿を保護対象外とする管理計画を策定し従来の奈良市全域という保護指定から[注釈 5]、方針変更した。
2017年(平成29年)5月に文化庁から文化財保護法の「現状変更」の許可を受け、8月1日から120頭を目標に猟友会に委託し、田原地区と東里地区で6カ所に箱わなを設置し捕獲事業を開始し、捕獲したシカは解体し、研究機関で年齢や栄養状態など生態を調べる[47]。市民の野菜類の残滓の給餌や観光客などの餌付けが問題視され、鹿せんべい以外は与えないことを盛り込んだ条例化も検討されている[49]。しかし、現状でも公園職員が止めても聞かない人は、かなりいて、規制体制の問題から進んでいない。この捕獲に、「奈良市鹿害阻止農家組合」は歓迎を表明したが[50]、同年8月3日自然保護団体「一般財団法人 日本熊森協会」(兵庫県西宮市)は、「奈良の神鹿文化を壊すな」と中止するよう要望書[51]を提出した[52][53]。8月17日に1頭が初捕獲され、解体して胃の内容物や遺伝子検査で農作物被害対策に活用する[54]。
関連作品[編集]
- 浄瑠璃「十三鐘」: 元禄時代に近松門左衛門が三作石子詰め伝説を題材にし、創作した作品[19][20][55]。
- 古典落語「鹿政談」: 鹿を誤って死なせてしまった豆腐屋を、奈良町奉行が知恵を利かせて無罪放免とする噺がある[56]。
- 松尾芭蕉の俳句: 元禄7年(1694年)9月8日、最晩年の芭蕉が、奈良を訪れ宿泊している[57]。その晩、猿沢池のほとりの宿で「びいと啼く 尻聲悲し 夜乃鹿」の句を詠んだ。この句碑が、鹿の角きりが行われる鹿苑入口に設置されている[58]。
- 正岡子規の俳句: 1895年(明治28年)10月26 ~ 29日、子規は松山での療養後、東京へ戻る途中で奈良観光をおこなっている[59]。この期間に有名な「柿食へば 鐘が鳴るなり 法隆寺」以外にも多数の俳句を詠んでおり、鹿に関する句も「鹿聞いて 淋しき奈良の 宿屋哉」、「煎餅を くふて鳴きけり 神の鹿」など多く残っている[60]。なお、これが人生最後の旅行となり、その後7年にわたる闘病後に死没した[61]。
- 会津八一の短歌: 新潟出身の八一は奈良の美術や文化を愛した歌人で、1908年(明治41年)に初めての奈良旅行をして以降、たびたび訪問し、「鹿鳴集」などの歌集を著わしている[62]。奈良県内には八一の歌碑が20基ある[63]が、そのうち奈良公園内の飛鳥園に鹿を詠み込んだ歌碑「かすがの の よ を さむみ かも さをしか の まち の ちまた を なき わたり ゆく」が建てられている[64]。
- 以下のように、ほかにも多くの歌や句が詠まれている[65]。
参考文献[編集]
- 書籍、ムック
- 花山院弘匡 『春日大社のすべて─宮司が語る御由緒三十話』中央公論新社、2016年12月8日。ISBN 4-12-004900-0、ISBN 978-4-12-004900-2、OCLC 967748527。
- 田中淳夫 『鹿と日本人─野生との共生100年の知恵』築地書館、2018年7月3日。ISBN 4-8067-1565-4、ISBN 978-4-8067-1565-8、NCID BB23146527、OCLC 1043193916。
- 『萬葉集 1』佐竹昭広、山田英雄、大谷雅夫、山崎福之、工藤力男(校注)、岩波書店〈新日本古典文学大系 1〉、1999年5月20日 。ISBN 4-00-240001-8、ISBN 978-4-00-240001-3、OCLC 900539578。
- 奈良市史編集審議会 編 『奈良市史 通史3 安土桃山時代~江戸時代』吉川弘文館〈奈良市史 通史〉、1988年1月1日。ISBN 4-64201573-6、ISBN 978-4-64201573-8、OCLC 683063870。
- PDF版:“奈良市史 通史三・通史四デジタル版(PDF版)”. 奈良市 (2018年12月28日更新). 2022年8月16日閲覧。
- 谷幸三(著) 『奈良の鹿─「鹿の国」の初めての本』永野春樹(編集)、奈良の鹿愛護会(監修)(初版)、京阪奈情報教育出版〈あおによし文庫〉、2010年3月8日。ISBN 4-87806-502-8、ISBN 978-4-87806-502-6、OCLC 587124114。
- 『江戸時代人づくり風土記―ふるさとの人と知恵〈29〉奈良』会田雄次(監修)、加藤秀俊(編纂)、大石慎三郎(監修)、広吉寿彦(著)、廣吉壽彦(著)、石川松太郎(編纂)、稲垣史生(編纂)、農山漁村文化協会、1998年12月1日。ISBN 4-540-98009-2、ISBN 978-4-540-98009-1、OCLC 675524308。
- 論文
- 川村俊蔵、徳田喜三郎「奈良公園のシカ 動物園のサル」『日本動物記』第4巻、思索社、1971年12月。NCID BN06266163。
- 東城義則「小特集1 2015年度生物学史分科会「夏の学校」 動物群の頭数増減をめぐる環境史――戦時期奈良公園におけるシカを事例に」『生物学史研究』第94巻第0号、日本科学史学会生物学史分科会、2016年8月31日、65-68頁。doi:10.24708/seibutsugakushi.94.0_65、ISSN 0386-9539、NAID 130007659391。
- 鳥居春己、高野彩子「大腿骨骨髄による奈良公園シカの栄養診断」『奈良教育大学附属自然環境教育センター紀要』第9巻第0号、奈良教育大学、2009年2月28日、5-9頁。CRID 1050564287517100032、OCLC 232959370。
- 渡辺伸一「「奈良のシカ」による農業被害対策の理念と現実 ─奈良公園周辺農家へのアンケート調査をふまえて─」『奈良教育大学附属自然環境教育センター紀要』第8巻、奈良教育大学、2007年3月31日、23-41頁。CRID 1050001337563494272、OCLC 232959370。
- 渡辺伸一「<半野生>動物の規定と捕獲をめぐる問題史 ─なぜ「奈良のシカ」の規定は二つあるのか?─」『奈良教育大学紀要. 人文・社会科学』第61巻第1号、奈良教育大学、2012年11月30日、109-119頁。CRID 1050845763980559488、OCLC 1183269339。
- Toshihito Takagi, Ryoko Murakami, Ayako Takano, Harumi Torii, Shingo Kaneko, Hidetoshi B Tamate (2023) A historic religious sanctuary may have preserved ancestral genetics of Japanese sika deer (Cervus nippon). Journal of Mammalogy, gyac120 doi:10.1093/jmammal/gyac120 2023年1月30日. 3大学共同プレスリリース資料:「奈良のシカ」の起源に迫る ―紀伊半島のニホンジカの遺伝構造とその形成過程―
関連文献[編集]
- 事辞典
- 東京雑学研究会『雑学大全2』東京書籍. “奈良のシカ【ならのしか】”. JLogos. 2022年8月16日閲覧。
- “deer”. 英辞郎 on the WEB. アルク. 2022年8月16日閲覧。
脚注[編集]
注釈[編集]
- ^ 都祁地区、月ヶ瀬地区を除く。
- ^ 「社」は春日大社建立以前で神を祭る聖なる土地「神地」と推定するが、ここでは赤麻呂の正妻の比喩として使用されている。[7]
- ^
- ^ 宮島のシカは奈良から移入した[22]、と春日大社は記録があるとするが、嚴島神社は認めていない。宮島で当初は市街地の拡大を見込み餌等でシカを誘導し、奈良と同様の共存での生息の形を目指したが失敗し、短期間で共存策を中止した[21]。宮島には土産物屋やホテル、厳島神社参道や、少数の住宅しかない。
- ^ エリアで段階的に、奈良公園など主要地域は「重点保護地区」、付近の若草山や春日山原始林は行動エリア「準重点保護地区」、その周辺は予備行動エリアで鹿が迷い込めば生け捕りにする「保護管理地区」、それ以外は山間部で「管理地区」で被害状況などで頭数管理をする。
出典[編集]
- ^ “行動・生態”. naradeer.com. 一般財団法人奈良の鹿愛護会. 2017年8月19日閲覧。
- ^ “奈良のシカについて”. 一般財団法人奈良の鹿愛護会. 2017年8月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年8月8日閲覧。
- ^ “奈良のシカ安らかに 愛護会が「鹿まつり」”. 産経ニュース. (2021年11月20日) 2021年11月20日閲覧。
- ^ “奈良公園及びその周辺で生息するシカ(ニホンジカ)について”. 奈良県. 2021年11月13日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年11月20日閲覧。
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関連項目[編集]
外部リンク[編集]
- 奈良公園クイックガイド
- 財団法人 奈良の鹿愛護会
- 奈良のシカ保護管理計画検討委員会 奈良県公式ウェブサイト
- 『奈良と鹿』八田三郎、官幣大社春日神社春日神鹿保護会、1920年