多田神社

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多田神社
Tada-jinja honden.jpg
本殿(重要文化財)
所在地 兵庫県川西市多田院多田所町1-1
位置 北緯34度51分40.6秒
東経135度24分9.4秒
座標: 北緯34度51分40.6秒 東経135度24分9.4秒
主祭神 源満仲源頼光源頼信源頼義源義家
社格県社
別表神社
創建 天禄元年(970年
本殿の様式 入母屋造
例祭 4月10日(春季例大祭)
10月27日(秋季例大祭)
主な神事 神幸式(4月第2日曜日)
地図
多田神社の位置(兵庫県内)
多田神社
多田神社
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神橋越しに南門を望む
源満仲・源頼光廟

多田神社(ただじんじゃ)は兵庫県川西市にある神社多田院として国の史跡に指定されている。元々は多田院という天台宗の寺院であった。六孫王神社京都府京都市南区)、壺井八幡宮大阪府羽曳野市)とともに「源氏三神社」の1つ。

概略[編集]

同地は摂津国に位置しており、清和源氏多田院御家人発祥の地である。この地に館を構えた清和源氏の祖摂津守源満仲によって天禄元年(970年)に満仲の子源賢開山とする天台宗寺院・多田院鷹尾山法華三昧堂(通称多田院)が建立された。満仲は自らの館と多田院を中心として多田荘の開発に勤しんだ。

本尊の丈六釈迦如来像は満仲、文殊菩薩像は満仲の長男源頼光普賢菩薩像は次男源頼親四天王像は三男源頼信がそれぞれ願主となって作られた。

平安時代長徳3年(997年)8月27日に源満仲が亡くなると多田院に葬られ、新たに廟所と満仲像を祀る御影堂が建立された。なお、満仲の廟所はまれに「多田院鳴動」といって大事件の前触れとして廟が震えることがあったとする。

以後は清和源氏の霊廟とされたが、戦乱や災害などにより次第に衰微していった。だが、鎌倉時代幕府からの命令で文永10年(1273年)に西大寺忍性が造営奉行に任じられ、ようやく再興する。そしてこれにより宗旨は天台宗から真言律宗に転じ、やがて源頼光も祀るようになった。

室町時代に入ると、清和源氏である将軍足利尊氏の崇敬もあって栄えた。延文3年(1358年)には将軍足利義詮によって尊氏の分骨が多田院に納められた。これ以降歴代足利将軍の遺骨が分骨されることとなった。

戦国時代天正5年(1577年)には織田信澄の軍勢によって社殿が焼失した。江戸時代にも清和源氏を称した徳川家から崇敬され、寛文7年(1667年)、将軍徳川家綱によって本殿、拝殿、随神門などが再建された。さらに将軍徳川綱吉によって満仲に贈正一位多田大権現の神号が送られると、次第に多田院は寺から神社の色合いが強くなっていった。

明治時代になると神仏分離令により、多田院は寺から源満仲源頼光源頼信源頼義源義家を祀る神社となった。その際、南大門にあった金剛力士像は満願寺に移されるなどした。

源氏まつり[編集]

四月には、源満仲源頼光源頼信源義家から源実朝までの歴代の源氏の武将の武者行列のある「源氏まつり」が盛大に行われ、巴御前静御前らの女性は公募で選ばれた美女たちが扮する。源氏の霊廟の性格から、源氏の個々の武士ではなく、清和源氏武士がほぼ全員登場するところが特徴。また、『平家物語』では鹿ケ谷の密告者として評判のよくない多田行綱も、当社の源氏まつりでは、源頼朝源義経源義仲などと同じく源氏の主要な武将の一人として馬上の武者行列に登場する。人気があるのは公募で選ばれた美女が扮する巴御前などの女性陣。

文化財[編集]

重要文化財(国指定)
兵庫県指定有形文化財
  • 南門 - 切妻造の三間一戸八脚門、本瓦葺。延宝4年(1676年
  • 東門・西門 - 切妻造の高麗門、本瓦葺。江戸時代初期の建立。
  • 六社神社本殿 - 三間社流造唐破風付き)、檜皮葺。江戸時代初期の建立。
  • 厳島神社 - 一間社流造、檜皮葺。江戸時代初期の建立。

アクセス[編集]

拝観時間[編集]

  • 拝観時間 : AM6:00-PM5:00/日・祝のみAM9:00-PM4:00(宝物殿)

関連項目[編集]

外部リンク[編集]