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堀田義次郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
堀田義次郎
ほりた ぎじろう
生年月日 1874年4月14日
出生地 日本の旗 日本 福岡県
没年月日 (1942-11-19) 1942年11月19日(68歳没)
出身校 東京帝国大学法科大学政治学科卒業
(現東京大学法学部)
前職 愛知県内務部長
所属政党 (無所属→)
立憲民政党

選挙区 三重県第1選挙区
当選回数 1回
在任期間 1924年5月 - 1928年1月21日

官選 第12代 大津市長
在任期間 1933年6月21日 - 1942年11月19日

滋賀県の旗 官選 第16代 滋賀県知事
在任期間 1919年4月18日 - 1923年10月25日
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堀田 義次郎(ほりた ぎじろう[1]1874年明治7年)4月14日[2] - 1942年昭和17年)11月19日[1])は、日本の政治家内務官僚衆議院議員滋賀県知事大津市弓道家(大日本武徳会弓道範士)。

経歴

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福岡県出身。第五高等学校を卒業。1902年東京帝国大学法科大学政治学科を卒業。1904年11月、文官高等試験行政科試験に合格。内務省に入省し内務属となる[3]

以後、愛媛県事務官島根県事務官・第四部長、長野県事務官・警察部長、三重県内務部長、滋賀県内務部長、愛知県内務部長などを歴任[1]

1919年4月、原内閣により滋賀県知事に登用され、1923年10月まで在任。道路改良計画の推進、各種学校の新設、開墾者への補助金支給、養蚕業奨励策の実施などを行った[4]

1924年に退官し[3]、同年5月、第15回衆議院議員総選挙に三重県第一区から出馬して当選し、衆議院議員を一期務めた。1933年に大津市長となる[4]。就任から9年後の1942年在職中のまま死去した。

弓道家としては、1936年(昭和11年)5月に大日本武徳会から弓道範士号を授与された。1933年(昭和8年)9月、当時の弓道界の懸案であった射型統一のため、大日本武徳会会長鈴木莊六により全国の著名弓道家からなる「弓道形調査委員会」が構成されたが、堀田もこれに参加した。(弓道#昭和初期・終戦参照)

著作

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  • 『経済学汎論』吉川弘文館、1903年。
  • 「英国の射法」『弓道講座』五、雄山閣、1938年、37-58頁。
  • 「支那古典と弓術」『弓道講座』六、雄山閣、1938年、42-89頁。
  • 「弓道資料」『弓道講座』十四、雄山閣、1941年。
  • 『台湾詩稿』私家版、印刷:中村太古舎、1941年。[要出典]

脚注

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  1. ^ a b c 『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』575頁。
  2. ^ 永井誠吉著、サンケイ新聞編『長野県警百年の歴史』サンケイ新聞、1976年、197頁。
  3. ^ a b 『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』185頁。
  4. ^ a b 『新編日本の歴代知事』635頁。

参考文献

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  • 歴代知事編纂会編『新編日本の歴代知事』歴代知事編纂会、1991年。
  • 衆議院・参議院『議会制度百年史 - 衆議院議員名鑑』大蔵省印刷局、1990年。
  • 秦郁彦編『日本官僚制総合事典:1868 - 2000』東京大学出版会、2001年。