全国青い芝の会

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全国青い芝の会(ぜんこくあおいしばのかい)とは、障害者のうち、脳性麻痺者による問題提起などを目的として組織された障害者団体である。機関誌『青い芝』。2016年現在の会長は福永年久。

概要[編集]

1957年昭和32年)11月3日東京都大田区の矢口保育園で、高山久子、金沢英児、山北厚ら約40名が集まり「青い芝の会」として発足した(発起人・会長:山北厚)。脳性麻痺者の交流や生活訓練、社会への問題提起などを目的とした物である。次第に社会運動色を強め、障害者福祉や賃金生活保護などの問題で、厚生省などの官公庁、自民党社会党など各政党への陳情や交渉を行うようになった。また、各地に地方組織も結成された。

1966年、閑居山願成寺大仏空住職主導で、同寺に「マハラバ村コロニー」を設置し、脳性麻痺者の自活を試みた。しかし主導権争いが絶えなかった。また、結婚して健常者の子を儲けた参加者などが将来を不安視して去って行ったため、1969年に自然消滅した。同年6月、横塚晃一、横田弘、小山正義、矢田龍司らにより、「青い芝の会神奈川県連合会」が発足(会長:山北、副会長:横塚、編集長:横田)し、実質的な中心となった。さらに1973年4月29日には「大阪青い芝の会」が発足し、同年9月には全国組織である「全国青い芝の会総連合会」が結成された(会長:横塚晃一)。

当時、障害者介護が一つの社会問題となっていた。1967年8月7日、生まれてから27年間、心身障害で寝たきりの息子を父親が絞殺し、心中を図った事件があった(心身障者安楽死事件)。一命を取り留めた父親は妻(被害者の母親)と共に自首した。メディアでは、障害者施設が無いゆえの悲劇として同情的に報じられ、身障児を持つ親の会全国重症心身障害児を守る会などが減刑嘆願運動を行った。その結果、父親は心神喪失を理由に無罪となった。そして社会的には、障害者施設の建設による、介護者の負担軽減が必要な事件と受け止められた。

しかし、全国青い芝の会にとっては、全く違う問題意識があった。介護疲れなどを理由に心神喪失が認められるのならば、障害者にとって生存権の危機であり、自分たちが介護者などに殺されても、当然であるかのように受け止められかねないと危惧したのである。こうして、自分たちは、健全者には「本来生まれるべきではない人間」「本来、あってはならない存在」と見られていると認識し、そうした健全者社会に対して「強烈な自己主張」を行うこととなった[1]

1970年5月29日神奈川県横浜市で母親が介護を苦にして、脳性麻痺者の我が子を絞殺した事件があった。この事件でも母親に同情的な立場から、減刑や無罪放免運動が起こった。そこで全国青い芝の会は、罪は罪として裁くよう厳正な裁判を要求した。この活動から、全国青い芝の会が注目されるようになった。結果として、母親は有罪となったが、懲役2年の求刑に対し執行猶予3年と、殺人事件としては非常に軽い量刑であった[2]。その活動は問題提起を重視しており、対案を要求されると、まず「われわれの問題提起を人々ががっちり受け止め」る必要があると主張した[3]。その上で、障害者施設は必要悪であり、その弊害をいかにカバーするかという問題を考えなくてはならないとした。

1972年には、全国青い芝の会の活動を取材したドキュメンタリー映画さようならCP[4]」(原一男監督)が制作された。これと前後して、重度の精神・身体障害を持つ胎児の中絶を合法化する内容の優生保護法(現:母体保護法)改正案反対運動なども行った。

1977年には、路線バスでの車椅子障害者に対する乗車拒否が相次いだことに対し、「バス闘争(川崎バス闘争)」を展開した。車椅子障害者と介護者の利用者が、幅の広い降車口[5]から乗車しようとして拒否された事件を引き金に、強引にバスに乗り込んだり、バスの前に座り込んで運行を止めたり、バスの中で消火液をぶちまけるなどの実力行使に出た[6]。この行動には大きな批判もあったが、公共交通機関における障害者利用の問題に一石を投じた。

青い芝の会は、脳性麻痺者の団体であるが、同会主導の下に健全者の組織化も試みられた。重度障害者の自立に際しては、健全者による介護は避けられない問題だったからである。青い芝の会は、健全者に対する告発型の運動が中心であったため、会員には健全者への敵対心、警戒心も強く、こうした試みは賛否両論だった。関西では介助者が中心となって「自立障害者集団友人組織関西グループ・ゴリラ」が組織され、障害者の手足として協力する団体とされた。そして、出版部門としてリボン社を設立した。

しかし、グループ・ゴリラの中には、障害者を事情を酌まずに見下す者がおり[7]、またグループ・ゴリラ内でも、リボン社の専従職員が主導権を握る構図への反発が起こった。そこで、1977年10月17日には、関西青い芝の会、グループ・ゴリラ、リボン社三者共同で「緊急あぴいる」を出し事態の打開を呼びかけたが、1978年3月に、全国青い芝の会はグループ・ゴリラ、全国健全者連絡協議会を友人組織として認められないとして、除名を通告した。その結果、両会は解散し、健全者の組織化は失敗した。重度障害者の多い大阪青い芝の会は、グループ・ゴリラ解散に反対し、同年3月27日に関西青い芝の会を脱会し、グループ・ゴリラ存続を決定したが、その後の混乱は免れなかった[8]。同年7月20日、横塚会長が死去し、全国青い芝の会は再編を余儀なくされることになった。

2013年9月、「尊厳死」の法制化に断固反対する声明」を出した[9]

2016年8月17日付で、「相模原市障害者殺傷事件の見解」を出した[10]。事件は容疑者個人の問題ではなく、「地域社会と国の障害者に対しての分離隔離収容政策に根強く残っている優生思想こそが、この度の事件の誘発要因」との見解を示した。その上で、

  1. 施設からの完全な地域移行計画と地域生活支援の飛躍的拡充
  2. 「殺されてよい命、死んでよかったというような命はない」との毅然としたメッセージを社会全体で(示す)

ことが必要と主張した。

歴代会長[編集]

  • 初代(全国化以前) 山北厚 1957.11.3 - 1973.9
  • 全国化初代 横塚晃一 1973.9 - 1978.7.20
  • 2代 横田弘 1981.12 - 1983.11
  • 3代 中山善人 1983.11 - 1998.11
  • 4代 小山正義 1998.11 - 2000.11
  • 5代 福田文恵 2000.11 - 2003.11
  • 6代 片岡博 2003.11 - 2006.11
  • 7代 金子和弘 2006.11 - 2014.11
  • 8代 福永年久 ? -

脚注[編集]

  1. ^ 全国青い芝の会 日本脳性マヒ者協会 全国青い芝の会 行動綱領とその解説
  2. ^ 当時の殺人罪の量刑は「死刑又ハ無期若シクハ三年以上ノ懲役」であり、検察官による求刑の時点から情状酌量されたことになる。
  3. ^ 横塚晃一『母よ!殺すな』 pp.31-33
  4. ^ "CP"は脳性麻痺を意味する英語"Cerebral Palsy"の略。
  5. ^ 川崎のバスは、前の扉が乗車口で、後ろの扉が降車口である。乗車料金 - 川崎市交通局
  6. ^ 障問創刊一周年記念特集 愛に叛逆を!! - 『月刊障害者問題』1977年5月15日号(通巻第13号)
  7. ^ 本部富生 緊急アピールとは何か? 誰が原因を作ったか?
  8. ^ 定藤邦子 障害当事者運動における介助者の役割 -大阪青い芝の会の運動におけるグループ・ゴリラを事例として
  9. ^ 立命館大学グローバルCOEプログラム「生存学」創成拠点サイト 「尊厳死」の法制化に断固反対する声明 日本脳性マヒ者協会「全国青い芝の会」 2013/09
  10. ^ 相模原市障害者殺傷事件の見解 - 日本脳性マヒ者協会全国青い芝の会 Facebook

参考文献[編集]

関連項目[編集]

外部リンク[編集]