中露関係

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中露関係
RussiaとChinaの位置を示した地図

ロシア

中国

中露関係[1](ちゅうろかんけい、中国語: 中俄关系ロシア語: Российско-китайские отношения)は、中華人民共和国ロシア連邦の間における相互関係であり、また両国の領土において過去400年に存在していた諸国の歴史として振り返ることも可能である。現段階において中露間の相互関係は広汎な諸分野における協調によって特徴づけられており、その協調には首脳級の集中的な接触、貿易関係、経済関係および人的関係、国際場裡における協調などが含まれており、国連安保理における活動、国際機関あるいは地域的機関(上海協力機構BRICs)などにおける共同参加が挙げられる。

「中国とロシアは、世界で重要な影響力を持つ2ヶ国であり、この惑星の平和を維持して共同開発を推進する特別な責務を負っている。」――中華人民共和国外交部長、2005年[2]

2012年、ロシアの対外貿易総額の10.1%が中国において占められた[3]。中国の対外貿易におけるロシアのシェアは控えめだが、重要なものであり、2012年の中国の貿易総額の2.3%を占めている(9位。アメリカ香港日本韓国台湾ドイツオーストラリアマレーシアに次ぐ)[3]

関係史[編集]

ロシア人とモンゴル帝国元朝[編集]

ロシア(ルーシ)の諸公国と中国の初めての繋がりは、13世紀にさかのぼるものと推定できる。現在の中国領土内におけるロシア人の存在について信頼できる最初の史料は14世紀のもので、モンゴルによるルーシ諸国への侵攻に関連しており、ルーシ侵攻の結果として多くの虜囚たちがモンゴル帝国の一角を成す元朝の中国へと連行されたのである。ロシアと中国の大地は、長きにわたってたった一ヶ国の影響圏を構成する一部に過ぎなかった。その一ヶ国とは、モンゴル帝国である。16世紀イヴァン雷帝による治世の頃には、既に二つの使節団が中央アジアモンゴルを通過して中国へ行く経路を確保していた。シベリアトボリスクを建設した後、トボリスクの首長が極東コサックを派遣した。ロシア人コサックや農民は、ザバイカリエ(ザバイカル)地方沿アムール地方ロシア語版に定住してアムール川沿いにオストログ(防衛機能のある植民拠点)を建設し、その数あるオストログのうち最大規模であったのが、アムール川左岸のアルバジンシルカ川沿いのネルチンスクである。

元史』によると、「至順」を元号に掲げた最初の年(1330年)に中国へ連行されたロシア人虜囚たちが屯田兵として国境防衛耕作の任に充てられた。元朝政府は、大都北京)に屯田兵を管理する特別機構を設置した[4]

大都(北京)で、ロシア人虜囚たちはハーン親衛隊に入隊させられた。キプチャク人(キプチャクすなわちポロヴツィ人)、アス人(アスすなわちアラン人)、ロシア人の連隊が編成された。ハーン親衛隊のロシア人部隊は、「忠誠心に篤いロシア人連隊」を意味する「宣忠斡羅思衛親軍」と称された。結成当初の部隊の人数について現存する史料では確認できない。しかし、1331年の人数は明らかにされており、600人であったと記されている。

『元史』の1332年の条によると、ロシア人虜囚たちの到着が三度あったことが言及されており、その人数は一度目が170人、二度目が2500人、三度目が30人の青壮年と103人の未成年であった。また、モンゴル人、キプチャク人、ロシア人の混成部隊の指揮官として、モンゴル人の指揮官ボヤニ(Боянь)が任命された件についても言及されている[5][6][7][8]

留意すべきは、元朝とはモンゴル人の王朝であって中国人の国家ではなく、中国の領土内にロシア人が出現したことは元朝の時代においてであり、中露関係というよりむしろ露蒙関係の枠組みで捉えるべきであろう。

ロシア国家と中国の明王朝[編集]

ヘルベルシュタインによるモスクワ大公国地図1549年)。中国について「中国の要塞都市大都」(Cumbalick regia in Kytay、右端の中央)および「中国の湖」(Kithay lacus、右端の下部)と記載されている。但し、近代的な測量に基いた正確な地図ではなく、ヘルベンシュタインがモスクワ滞在中に聞いた話を根拠にまとめた概略地図である。

その後、モンゴルが中原から追い出されてから、中国は再び国家を形成した(明王朝)。

ロシア国家と清王朝[編集]

康熙帝統治下の清王朝政府に宛てた、ピョートル1世統治下のロシア政府による書翰(1720年

満州族の侵入の結果、中国は再び独立を失って満州族の帝国清王朝の一部となった(清による明の征服中国語版英語版)。

ソビエト連邦と中国[編集]

ロシアと中国[編集]

国境画定[編集]

中華人民共和国の領土一体性[編集]

台湾問題[編集]

チベット[編集]

経済協力[編集]

軍事技術協力[編集]

科学・教育・文化における協力[編集]

移住[編集]

国際協力[編集]

出典・脚注[編集]

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  1. ^ 他に中ロ関係露中関係ロ中関係、あるいは中国とロシアの関係ロシアと中国の関係などとも。
  2. ^ Ответы официального представителя МИД КНР Лю Цзяньчао на вопросы корреспондентов на пресс-конференции 23 июня 2005 года”. 中華人民共和国外交部 (2005年6月23日). 2017年8月26日閲覧。 (ロシア語)
  3. ^ a b Баркова С. А., Волкова Е. Н. Внешнеторговые отношения России со странами-членами БРИКС // Проблемы современной экономики (Новосибирск). — 2013. — № 16. — С. 8 (ロシア語)
  4. ^ Первые россияне в Китае – Начало российской эмиграции в Китае”. Китайский информационный Интернет-центр. 2012年6月1日時点のオリジナル[リンク切れ]よりアーカイブ。2017年8月29日閲覧。 (ロシア語)
  5. ^ Палладий Кафаров «Русское поселение в Китае в первой половине 14 в.» // «Живая старина», 1894, № 1, с. 65-67 (ロシア語)
  6. ^ Бретшнейдер Э. В. «Русь и Асы на военной службе в Китае» // «Живая старина», 1894, № 1, с. 68-73 (ロシア語)
  7. ^ Палладий Кафаров «Старинные следы христианства в Китае» // «Восточный сборник», т. 1, вып. 1, 1872, с. 47-49. (ロシア語)
  8. ^ Иванов И. «Походы монголов на Россию по официальной китайской истории Юаньши» // «Записки разряда военной археологии и археографии императорского Русского военно-исторического общества», 1914, т. 3, с. 22. (ロシア語)
  9. ^ カタカナ表記は、東京外国語大学『アジア・アフリカ言語文化研究 第42号』(1991年)pp.71-104 所収の宮脇淳子による論文「トルグート部の発展―17~18世紀中央ユーラシアの遊牧王権―」に従った。
  10. ^ Журнал «Родина»: Дойти до Поднебесной”. ロジナロシア語版英語版 (2004年). 2013年1月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年9月11日閲覧。 (ロシア語)
  11. ^ Нерчинский мир: национальный позор или победа русской дипломатии?”. レグナムロシア語版英語版 (2016年9月6日). 2017年9月14日閲覧。 (ロシア語)

関連項目[編集]